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怪物の君へ  作者: 讀茸


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第四話 肢体は脆く、死体は白く

 街道沿いの林。


「Gururu……」


 低く唸りを上げるのは巨大な鼠。

 猪と見紛うほどに巨大化した鼠は、ジアとは一定の距離を保っている。


「鼠か? 随分とデカいな」


 林の害獣退治を請け負ったジアとユヒナは、冒険者ギルドを出たその足で、街道沿いの林までやって来ていた。

 そして発見したのは、目の前で低く唸りを上げる巨鼠。

 口から溢れんばかりに突き出た歯は黒ずんでいて、薄汚れた体毛が震えている。その双眸は血走っているように見えた。


「Guuuaaaaa――――ッ!」


 瞬間、鼠が跳躍する。

 大口を開けてジアに飛びかかり、頭から食いつかんとする。

 ニヤリとジアが笑う。

 そこからは刹那の出来事。ジアの拳が鼠の脇腹を捉え、爆発的な衝撃を以てその巨体を弾き飛ばす。

 技も型も無い。無造作に打ち放った裏拳一撃。

 木の幹に叩きつけられた鼠は、たった一撃で絶命していた。


(速い……上に強い。こんなに戦えるのに、どうしてジアはパーティに入ろうとしないんだろう?)


 ジアの戦闘を後ろから見ていたユヒナ。

 その凄まじさは、戦闘に明るくないユヒナから見ても一目瞭然。

 冒険者として高みを目指すには、十分なポテンシャルを秘めている。

 彼女がリーニアのパーティに加入することを拒み続けている理由が、ユヒナには分からなかった。


「ジアは……なんで、リーニアさん達のパーティに入ろうとしないんだ? 強いじゃんか、ジア」


 何より、彼女達の誘いはユヒナにとっても魅力的だった。

 良いと思ったのだ。

 ジアと一緒に冒険してみたいと、ユヒナ自身も思ったのだ。


「お前もか、ユヒナ。……向いてるのと好きなのは違うだろ。オレは今の生活で良いんだ。スリルも冒険も要らない。戦闘なんて、日銭を稼げる程度にやりゃ十分だろ」

「じゃあ、なんで……」


 それが欺瞞であると、彼女自身も気付いていない。

 ジアは自身の表情に無自覚であり、自身の心情に目を背けていた。


「なんで、今笑ってるんだよ?」

「――――え?」


 凶悪に吊り上がった口角。

 ジアは口元に笑みを浮かべたまま、今しがた巨鼠を殺した右手を見下ろす。

 鼠の脇腹に叩きつけた手の甲は僅かに赤くなっていて、微かに痺れるような感触が残っている。

 肉を打ち抜く感覚、骨の折れる音、溢れる血の臭い。五感全てで感じる死の気配。生きているものを自らの手で殺す快楽が、ジアの口元を吊り上げていた。

 そうして、ようやく気付くのだ。

 ジア・エルマとは、どうしようもない破壊衝動を秘めた――――


「いやはや、お見事お見事」


 不意に聞こえた声は、鼓膜に纏わりつくような音色だった。

 全身に纏わりつく泥のようでありながら、透明な水のような清廉さも兼ね備えている。

 まるで、ぬるま湯を頭から浴びせられているような、陰湿に澄み渡る声音。

 二人が声の聞こえた方を振り返れば、そこには着物の人間が立っていた。

 色彩豊かな着物に身を包んだ長身。顔には山羊を模した和風な面を被っている。着物から覗く手足は長く、すらりとした体型をしているのが伺える。

 声も体型も中性的で、どうにも性別が掴めない。

 いつからそこに立っていたのか。つい先刻に瞬間移動してきたのかと錯覚するほどの気配の薄さだった。


「流石は心臓移植者。魔力出力が尋常ではない。特別な訓練も受けずに、これだけの力を誇るとは。かの地から苦労して盗み出した甲斐があったものだ。……だが、実用段階には未だ至らず。見立て通りではあるか。さて、時は腐るほどあるが、賽を投げねば賭けにもならぬ。そうさな、ここは一つ欲張って、両取りと行こうか」


 山羊面の者は滔々と語る。

 言の葉の意味を理解できないまでも、その声音だけで、悪辣さが理解できるというものだった。

 山羊面が述べる言葉に込める感情は、研究者が実験動物に向けるそれだった。


「なんで、ここに……?」


 震える声で言ったのはユヒナ。

 その言葉と様子から、ユヒナが山羊面を知っているのは明らかだった。


「おやおや、これはユヒナ様。実に二年ぶりといった具合でしょうか。お元気なようで何より。そろそろ、お帰りになる気になりましたか? 女中達も皆、ユヒナ様のお帰りを待ち望んでおります故」


 つらつらと言葉を吐き連ねる山羊面。

 軽薄で悪辣な言葉の雨で、かの者はユヒナの傷に塩を塗り込んでいく。

 ユヒナの顔が苦しげに歪むのには構いもせず、むしろ、そうなることを望むように。

 山羊の面に覆われたその素顔が、ニヤリと悪趣味な笑みを浮かべるのが容易に想像できた。


「お前、誰だ?」


 殺気を込めて、ジアが問う。

 凡庸な者が直視しようものなら気絶しかねない殺意を視線に込めて、青緑色の瞳孔が山羊面を見据える。


「名であれば、数え切れぬほど。そうさな、近頃はカラヤシキと名乗っていますが。呼び名であればお好きなように」


 山羊面が名乗ったのは、ユヒナが記憶するものと同じ名前。

 カラヤシキ。それが苗字なのか名前なのか。はたまた、通り名の類にすぎないのか。

 この者の近くで長く暮らしたユヒナでさえも知り得ない。


「じゃあクソ野郎。お前はユヒナの何だ? 二年前、ユヒナに何をした?」


 それは、ジアがユヒナ自身には訊かなかった問い。

 心の傷を蒸し返すこともあるまいと、触れずにいた記憶。


「ふ、良きかな。私を殴る理由が欲しくてたまらないようだ。それでは、聞かせてあげますよ。私がユヒナ様に働いた悪行の数々。ユヒナ様の心に刻み付けた、永久に癒えぬ傷跡の全貌、ここで暴き出してしんぜよう。そこで聞いておられる、ユヒナ様には飲んだ苦渋の味を思い出していただきましょうか」


 知ってか知らずか、カラヤシキはジアの矛盾を指摘する。

 今まで、ユヒナの心の傷を抉らないように、徹底的に避けてきた二年前以前の話題。

 詳しく訊かずとも、それが思い出すのも苦しい記憶だと察せたから、ユヒナを慮って訊かずにいた。

 それを今、ジアは破ったのだ。

 ユヒナの目の前で、二年前の記憶を問い質したのだ。


「そうですな。あれは八年前のことでしょうか……」

「黙れ」

「黙れとは異なことを。そちらがお聞きになられたはずでは?」


 揶揄うように、カラヤシキは言葉を重ねる。

 ただの言葉のやり取りで、カラヤシキはジアを翻弄していた。


「アマノミヤとは、アメツチの国を治める皇族でして。ユヒナ様もその血を引き継いでおられます。それも正室の子であれば、血の質は上等。十分、アメツチの後継争いに参加できる」

「黙れ。もう何も喋るな」

「ユヒナ様を帝として擁立、裏で国の実権を握る。それが一番手っ取り早いのですが、私は慎重な性質(たち)でして。生憎、ユヒナ様は一人しかいない。ですから、後継争いは、殖やしてから臨むことにしたのです」

「黙れって! 言ってんだろ!」


 怒号を響かせて、ジアが大地を蹴った。

 猪の如く疾走し、もう何も喋らせまいと、怒りのままに叩き込んだ拳。

 しかし、全霊の力を込めてジアが打ち込んだ拳を、カラヤシキは片手の掌で受け止める。

 その後、一体何が起こったか。自身が飛びかかった力を利用され、ジアは綺麗に引っくり返っていた。


「術の方が得意なのですが、今の貴方にはこちらの方が良さそうだ」


 引っくり返ったジアが地面に落ちるより早く、カラヤシキの回し蹴りがジアの胴に吸い込まれる。

 カラヤシキの蹴りをまともに受けたジアは後方へと吹っ飛び、受け身も取れずに地面を転がる。土の味が舌に染みた。


「おっと、話の続きをば。十年前、私が皇室からくすねてきた幼子は二人。ユヒナ様とその姉君です。男と女、両方いた方が色々都合が良かったので。あとは、私なりの配慮ですよ。家の者達は私のように長い目で物を見られない。一人しかいなければ、負担も集中します故」


 地面を転がったジアが強く木に叩きつけられたのと同時、ユヒナの脳はカラヤシキの話を段々と理解し始めていた。

 姉。ユヒナと同じく、アマノミヤの血を引く者。

 カラヤシキの語った計画において、その立ち位置はほとんど、ユヒナと同様と言える。


「まあ、私の配慮も、二年前にユヒナ様が逃げたことで無駄になってしまいましたが」


 それは、なんて、おぞましい。

 声も出せず、恐怖に震えるユヒナの前で、カラヤシキは面妖な術を使う。

 カラヤシキの袖から、極彩色の液体が溢れ出す。何色もの絵の具が絡み合い、しかし混ざり合いはせず、豊かな色彩を保ったまま流動しているよう。

 カラヤシキの袖から溢れたそれは、やがて繭のような形を取る。


「魔術か……!」

「こちらでは、そう呼ばれているそうですね。アメツチでは陰陽術と言うのですが」


 カラヤシキが作り出した極彩色の繭は、空間に干渉する類のもの。液体により形作ることを思えば、水風船と言っても良い。

 ぴしゃっと水音を立てて、極彩色の水風船が霧散する。

 弾けた水風船のように、色彩豊かな飛沫が散り、その中から現れたのは――――


「あの家の男は脳が無い。死なせてしまっては意味も無いだろうに」


 見るも無残な遺体であった。

 死に化粧は愚か、服すら着せられていない死に姿は、死者への敬意が一切感じられない。

 白い肌は傷だらけで、特に下腹部にかけての損傷が酷かった。

 腫れた涙腺が、彼女が如何なる心情で死に至ったかを物語っている。


「ユヒナ様と姉君の血は、あの家にとって一族再興の希望。片方に逃げられてしまって、事を急いたのでしょうな。何故産まぬ、何故孕まぬと……私は純粋に肉体が成長途中なのだとお教えしたのですが。結局、二年で潰してしまった」


 少女――――ユヒナの姉の死体を、カラヤシキはポイと放る。

 白い死体が地面を転がる。やがて、木に衝突して止まる。

 土を被った少女の肢体は、使い捨てられた人形のようだった。


「あ、あ……」


 ユヒナの体を襲う猛烈な吐き気。眩暈。弛緩。

 胃の中の物が逆流する。視界がぐらつく。全身の筋肉から力が抜ける。

 立っていることすら叶わず、ユヒナは蹲って胃の中の物を戻してしまう。

 吐いて、吐いて、涙と共に吐き出して。

 それでも、体の芯にこびりついた汚辱は消えてくれない。ますます、そのどす黒さを増して、ユヒナの精神を蝕むのみ。


「姉君もユヒナ様に似て、お美しい方でした。あの家の男達からすれば、一族再興などというのは、欲望を満たすための大義名分に過ぎなかったのかもしれませんな。そこについては、ユヒナ様に当てがった女中達にも近しい部分はありましたが」


 カラヤシキは滔々と語る。

 悲惨な過去。ユヒナがジアの下で穏やかに暮らしていた間に、あの家で起こった悲劇について。


「ユヒナ様がお家から逃げてから、一年ほど経った頃でしょうか。偶然、姉君と廊下でお会いしたのです。その折に言われたことは、今もよく覚えております」


 芝居がかった悲しげな声音。

 悲しんでなどいないのは自明であるが、ユヒナの姉が辿った末路をより悲惨なものに演出するのには一役買っていた。


「お前の術で、殺してくれと」


 その言葉が嘘か真か。

 最早、知る術は無い。

 ただ、そうであってもおかしくない説得力が、少女の無残な死体には備えられていた。


「僕……っ、僕が、逃げたせいで……?」


 いつの間にか、一人称が戻っていた。


「いえいえ、ユヒナ様に責を問おうなど、そのようなことは……ですが、そうですね。時にユヒナ様――――」


 絶望に打ちひしがれるユヒナの前で、カラヤシキは嬉々として語る。

 それは玩具を掌で転がす子供のように、或いは、花札でとっておきの札を出すように、ひどく享楽的な声音で――――


「アメツチに妹君がいらっしゃるそうですね」


 禁断の一手を打つのだった。

 今までの言の葉は、この一言のための布石であったと言わんばかり。

 カラヤシキの一言は、今までに無く、ユヒナの精神を強く揺らした。


「戻る! 僕が戻るからっ! カヤには、手を出さないで……」

「いえいえ、何を仰いますか。皇室のお子に手を出そうなど、恐れ多いにもほどがある。しかし……お帰り下さるのなら、このまま私がお連れしましょう。家で皆が待っています」


 白々しい台詞を吐きつつ、カラヤシキはユヒナの方へ、手を差し出す。

 まるで、苦しむ者に救いの手を差し伸べるような仕草で、カラヤシキはユヒナを地獄へと誘う。

 罪悪感と絶望感。そして逃げようのない恐怖に縛られて、ユヒナがカラヤシキの方へと歩き出す。

 その一歩を踏み出したその時――――


「ダメだ。ユヒナ」


 いつの間にか立ち上がっていたジアが、ユヒナの肩に手を置いていた。

 カラヤシキに蹴られたダメージは、今もジアには色濃く残っている。

 それでも、ジアは立ち上がり、戦意に満ちた眼光でカラヤシキを見据えていた。


「あのクソ野郎は今ここで殺す。家? のやつらも全員殺す。他にユヒナのことをどうにかしようってやつがいるなら、オレが全員殺してやる」


 ジアはユヒナの前に出て、山羊面と相対する。

 今しがた蹴り飛ばされたにも関わらず、本気でカラヤシキに勝ち、殺すつもりだった。


「だから行くな、ユヒナ」


 たったそれだけの言葉が、ユヒナの足を止めた。

 またあの家へと、抜け出せない泥沼のようなしがらみの海へ、引き返しそうになったユヒナを止めた。


「相も変わらず、求められるのがお好きなようだ。良いでしょう。いずれお迎えに上がります」


 徹底抗戦の構えを見せるジアに、カラヤシキは一歩下がる。

 述べた言葉も鑑みるに、ここは一旦退く、ということらしい。


「逃がすと思うか?」

「はは、何を仰るかと思えば。まさか、私を追う立ち場だとでもお思いで?」


 ジアの言葉を嗤い流すと、カラヤシキは再び魔術を発動する。

 袖から溢れ出した極彩色の水。今度は大きく膨らんだそれは、先程よりも一層大きな繭となる。

 先刻と同様に、飛沫となって弾けた繭は、その中身を晒し出す。


「Ouun?」


 現れたるは巨大な猿。

 背丈は三メートルに迫ろうかという程度だが、身長に比して恰幅が異常に良く、縦にではなく横に大きい。

 体毛は白く、肌は赤黒い。白い毛の中に浮き出た赤黒い顔面が、何とも不気味な雰囲気をしている。

 猿はゴキゴキと両手の指を鳴らし、眼下の少年少女を見下ろす。


「nnNiiiiiiiiiii」


 そして、ニィと口元を吊り上げて笑ったのだ。


「彼は人の肉が大好物でして。食われないように、お気を付けて」


 凶悪な笑みを浮かべる猿を残して、カラヤシキはゆっくりと林を歩いていく。

 少しずつ遠くなっていく着物の背中。余裕のある足取りは、化け物と相対するジア達を嗤っているようでもあった。


「殻を破らねば死にますよ。ジア・エルマ」


 去り際に意味深な警告を残して、カラヤシキは木々の間に消える。

 林に残されたのは、二十にも満たぬ少年少女と、人食いの化猿のみであった。

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