第二十六話 少年、願い叫ぶ
砂浜、漂着したカラヤシキは立ち上がり、治癒の術で腹に受けた傷の応急処置を施していた。
虹化粧・贄儀も解除され、残存魔力も残り僅か。傷も深く瀕死ではあるが、カラヤシキは生き延びていた。
「ハァ、ハァ……まさか、ここまで追い込まれるとは」
カラヤシキは治癒の術を回しながら、辺りを見回して状況を確認する。
遠くに魔力反応が一つ。
カラヤシキはそれをカヤ・アマノミヤのものだと判断。
(やはり、船に乗り込んで来たのは式神だったか。今度は国宝で船ごと沈めに来たわけだ。あの年齢で国宝の使用直後、しばらくまともには動けまい。殺しておきたいが、今はこちらが優先だ)
遠方にあるカヤの魔力反応は無視し、カラヤシキは視線を前に戻す。
そこには、ずぶ濡れの少年少女が、浜辺に打ち上げられていた。
小柄な少年が気絶した少女を担ぎ、海から上がろうとしている。少年は浜辺まで少女を担いで泳いできたらしかった。
「貴方に泳ぎができたとは。驚きましたよ、ユヒナ様」
疲労困憊のカラヤシキだったが、それ以上にユヒナは疲弊しているように見えた。
ずぶ濡れの着物と髪は、彼がジアと初めて会った夜と同じ風体だった。
「泳いでない。流されただけだ」
砂浜まで上がったユヒナは、気を失ったジアを浜に下ろす。
少女一人を運んで、砂浜に置く。それなりの大人なら簡単にできるだろうそれが、ユヒナの細腕では必死の努力を必要とする。
「ユヒナ様、どうぞこちらに」
カラヤシキはユヒナに手を差し伸べる。
それは、三度差し伸べられた手。
一度はユヒナが皇室から攫われる時、二度はギルド内での激闘の後。
そして三度目、大粒の雨が降る砂浜で、カラヤシキはユヒナに手を差し伸べる。
「嫌だ」
ユヒナが口にしたのは拒絶の言葉。
受け入れてばかりだった彼が初めて口にする「嫌」の一言。
「俺は行かないぞ。ジアと一緒にハイネヒに帰るんだ」
必要だと言われれば、それに応じる。
求められれば、それに答える。
愛されているのなら、全てを差し出してしまう。
どこまでも従順な欲望の受け皿であったユヒナは、今、自分自身の意思で差し伸べられた手を振り払った。
「それはできません。ジア・エルマは私の術で皇族を襲わせます。貴方にはお飾りの帝としてアメツチを統べてもらう義務がある。エトーニルにはお帰りいただけない」
「……っ、嫌だって言ってるだろ。お前の言うことなんか聞いてたまるか。そんなに従わせたいなら、力ずくでやってみろ」
ユヒナはカラヤシキに向かって啖呵を切った。
戦いの「た」の字も知らない弱者の身で、千年の研鑽を積んだカラヤシキに挑むと言ったのだ。
「では、そうさせてもらいましょうか」
ユヒナの方へ、ゆっくりと歩いていくカラヤシキ。
構えも取らない。陰陽術も使わない。街を散策するような軽い足取り。
「っ、うわあぁああああ――――ッ!」
余裕の態度を隠そうともしないカラヤシキに、ユヒナは叫びを上げて掴みかかる。
「ぐ、あ……っ!」
そんなユヒナをカラヤシキは一蹴。
無造作な蹴り一発で、ユヒナの細い身体を砂浜に転がした。
「こういうものです。人の欲望を否定できるのは、何もかも壊せる力に他ならない。貴方は弱い……いや、逆なのでしょうね。周囲の欲望を否定させないために、貴方は弱く育てられた」
たとえ、カラヤシキが満身創痍であろうと、両者の圧倒的な実力差が埋まることはない。
その人生からして、カラヤシキとユヒナは強者と弱者に分たれていた。
人の欲望を真っ向から壊せるだけの圧倒的な力に憧れたカラヤシキ。
人の欲望を受け入れるために、力の一切を与えられずに育てられたユヒナ。
そこに生じる強弱の差は、彼らの人生そのものに根差した差異だった。
「ユヒナ・アマノミヤ。貴方に心からの憐憫を。最後まで他者の欲望に振り回された貴方には、せめて私と同じ景色を見せましょう」
仰向けに倒れるジアのすぐ側に立ち、カラヤシキは右手から極彩色の液体を零す。
そして、その液体がジアの顔へと垂れる寸前、立ち上がったユヒナがカラヤシキに体当たりする。
極彩色の液体はあさっての方向に飛び散った。
カラヤシキに掴みかかったユヒナは、左手でカラヤシキの着物を掴み、右手で胴体への殴打を繰り返している。
あまりにも弱く小さい暴力。ポコポコとカラヤシキの皮膚を打つ拳は、傷どころか痛みさえも生まない。
「蹴り一発では理解できませんでしたか?」
カラヤシキは肘撃ちをユヒナの腹に叩き込んだ。
鳩尾を正確に捉えた一撃に、ユヒナはその場で悶絶する。
それでも――――
「理解なんか……! してたまるか!」
ユヒナはカラヤシキの着物を離さなかった。
今にも崩れ落ちそうなほど震えた脚で、吹けば飛びそうな細い身体で、ユヒナはカラヤシキにしがみついている。
「俺はもうお前の所になんて戻らない! ジアもお前になんか渡さないっ! 俺は……これからも、ジアと二人で暮らすんだ!」
ユヒナは吠える。
カラヤシキの言う未来など受け入れられないと。
お前なんかに必要とされなくても、自分はジアと一緒なら生きていけるのだと。
「だから死んじまえクソ野郎!」
そこにいたのは、欲望の受け皿などではなかった。
誰かに「愛」という名の欲望を注がれずには生きていけない、臆病者のユヒナはもういない。
弱くとも欲しい未来を勝ち取ろうと足掻く少年が、必死にカラヤシキを殴りつけていた。
「――――――――」
無言で、カラヤシキはその光景を見下ろしていた。
欲しい未来のために懸命に藻掻くユヒナの姿を。好きな人と一緒に暮らしたいという「欲望」を叫ぶ少年の姿を。
それは、とても綺麗な――――
「サンキュー、おかげで目ぇ覚めたぜ。ユヒナ」
カラヤシキにしがみつくユヒナの肩に、ポンと手が置かれる。
ユヒナの叫び気を取られていたカラヤシキは、彼女への反応が一瞬遅れる。
その一瞬で、彼女はカラヤシキの顔面に拳を叩き込んでいた。
「ケリつけてくる。ちょっと待ってろ」
カラヤシキを殴り飛ばしたジアは、満身創痍ながらもユヒナの前に出る。
そうして、砂浜から立ち上がったカラヤシキとジアは向かい合った。
傷だらけの両者は、最終決戦に臨もうとしていた。




