第二十一話 怪物よ怪物よ、望みませ
数滴の雨粒が甲板を叩く。
ポツポツと降り始めた雨が、やがてザーザーと夥しい量になっていく。
船上、睨み合うジアとカラヤシキの間には、無機質な雨音だけが響いている。
そんな煩い静寂を裂くように、青緑色の稲妻が走った。
ジアが放った稲妻は、雷鳴と共にカラヤシキの胸に突き刺さる。
(魔力放出……!?)
初手からの魔力放出に、虚を突かれたカラヤシキは、迫り来る稲妻に反応できない。
胸に突き刺さった電撃は、カラヤシキの体を一瞬痺れさせた。
その一瞬で、ジアは駆け出した。
カラヤシキまでの距離を一気に潰して、疾走の勢いを乗せた拳を、山羊の面に叩き込む。
顔面にクリーンヒットした拳は、そのままカラヤシキを殴り飛ばし、甲板に転がす。
受け身を取って立ち上がるカラヤシキに向かって、ジアは叫んだ。
「お前だろ……! ユヒナの姉貴を殺したのも! リーニア達を殺したのも! これからユヒナの家族を殺すのも! 全部! やったのはお前だ! ユヒナじゃない!」
どうして叫んでいるのか、ジアは自分でも分からなかった。
何故、自分はこんなにも怒っているのか。
喉を枯らして叫ぶだけの「欲望」がジアにあったのだろうか。そんな激情が自分にあるとでもいうのか。
何が気に入らなくて、こんなにも叫び散らしているのか。
分からなくて、何一つ分からなくて、ただカラヤシキに向かって叫んだ。
「何もかも! お前がぶっ壊したんだろーが!」
ゆらりと立ち上がったカラヤシキは、罅の入った面をさすりながら、叫び散らすジアを見る。
その視線が冷ややかな色を帯びたことは、山羊面越しにもよく分かった。
「責任の所在を問いたいのなら、好きに石を投げれば良い。それでちっぽけな自尊心を満たせるなら、の話ですが」
カラヤシキの声に宿ったのは、落胆の音色。
怪物としての覚醒を促したはずのジアが、ひどく人間的な詭弁を口にするのは、カラヤシキにとって不愉快だった。
そこに、人の道理を外れた者として、ジアに抱いていた親近感が含まれていたことは、カラヤシキ自身にすら気付けない。
「テメェ……っ!」
「ジア」
再び、叫びかけたジア。
両膝をついて項垂れるユヒナが、彼女の服の裾を掴んでいた。
「良いんだ、ジア。カラヤシキの言うことは何も間違ってない。周りにいた誰かが勝手にやったなんて、都合の良い詭弁でしかない。本当は……心のどこかで望んでたんだ。自分のために誰かが死ぬのを見て、俺は自分の欲望を満たしてた。そうやって、自分が大切にされてるって確認して、安心して、笑ってたんだ」
愛されたい。大切にされたい。求められたい。
それがユヒナの根底にある本性で、どう足掻いても変えられない人間性なのだと。
雨音に搔き消されてしまいそうなユヒナの声が、悲しく告げていた。
「もう良い……もう良いんだ。殺してくれ、ジア。それだけでカラヤシキの計画は破綻する。俺はもう、早く、死んでしまいたい……」
「……っ、馬鹿言うなよ。お前が――――」
「最期に!」
ユヒナはジアにしがみついて叫ぶ。
縋りつくようなユヒナの声は、どうしようもないくらい震えていた。
「最期に、俺なんかでも、少しは誰かの役に立てるって……証明させてくれよ……っ!」
それはまるで、祈りのような言葉だった。
自罰に自罰を重ね、最期に辿り着いたたった一つの祈りのような。
もうどうしようもなくなった信徒が、最期に神に祈るような。
そんな破滅的で、自暴自棄で、けれど美しいまでに献身的な、少年の願いだった。
「……オレには分かんねぇよ。お前がなんで、そんなこと言うのか」
ユヒナの言葉は、ジアには高度過ぎた。
あまりに発達していて、人間的過ぎて、複雑怪奇に絡まった糸のようだった。
「みんな、お前に笑ってほしかったんだよ。お前の笑った顔が好きだったんだよ。だから、お前のために戦ったり、死んだりしたんだ。なのに、お前が笑って何が悪いんだよ」
分からない。
判らない。
解らない。
理解できないことだらけだ。
鵺の心臓を移植されたあの日から、人間的な「欲望」を失くしてしまってから、ジアの心にはずっと不理解が付き纏っていた。
それを、そんな不理解を、ほんの少しだけ溶かしてくれたのは――――
「オレ、お前が死んだら嫌だよ」
他ならない、ユヒナだったのだから。
ユヒナと生きた穏やかな日々が、何でもないあの二年間が、ジアがたった一つだけ「欲しい」と思えたものなのだから。
ジアの中で何かが氷解した。
心臓の奥でずっと氷漬けになっていたものが、溶け出して姿を現したみたいに。
ずっと忘れていたことを、思い出したような気がした。
幸せな日常を欲する、なんてひどく簡単なことを今更思い出せたらしい。
「だから、オレはお前を殺さないし、お前が死のうとしたら全力で止める。お前の話は、後でゆっくり聞くよ。まだ、分かんないことばっかだけど……なんか、お前と一緒なら分かりそうな気がするんだ」
そう言うと、ジアは一歩前に出る。
その視線の先には、カラヤシキが立っている。
「だからさ、まだ死なないでくれよ。オレのために」
少しだけ振り返ってそう言うと、ジアは拳を構えた。
心臓が鳴動し、魔力が全身に漲っていく。
青緑色の雷撃を纏って、ジアは倒すべき敵を見据える。
そして、己にも言い聞かせるのだ。
「オレも、絶対死なないから」
死なずに勝つ。
それはただ、彼女と彼の欲望のために。
望みと言うにはささやか過ぎる願いを胸に、少女は再び駆け出した。




