第二話 朝餉は冷ややかに
大陸最東端、交易国家エトーニル。
これといって特徴の無い国だ。平凡な王、平凡な民、平凡な治世。
サーガハルト王国のような圧倒的軍事力も、ウィゼルトン公国のような飛び抜けた魔術研究力も、ノルギア共和国のような洗練された技術力も無い。
ただ一点、大陸の最東端に位置しているというだけの事実が、エトーニルを特異な交易国家たらしめている。
否、エトーニルを交易国家たらしめるは、東や西といった地理ではなく、あの国に最も近いという点だろう。
極東の皇国、閉ざされた島国、太陽の昇る国。
その名をアメツチ。東の果ての海に浮かぶ島国であり、大陸の人々が確認する内では、最も東に位置する国である。
アメツチ周辺の海域には、特殊な海流が流れており、往来のための航路は極めて限られる。
エトーニルはアメツチと交易可能な唯一の国であり、アメツチから輸入した品々を大陸で売り、或いは大陸の品をアメツチに輸出することで、それなりの栄華を手にしていた。
といっても、それは交易で栄える港町や主要な街道の通る街の話。
ジアの暮らす村は平凡な田舎に過ぎず、世間一般に知られるエトーニルの栄華は微塵も無い。
林を抜ければ海は見えるが、大きな港があるわけでもなし。街道も小さなものが一つあるだけで、商人もたまにしか見かけない。
そんなごく普通の村には、ハイネヒという名前が付けられていた。
「ん~……」
自室で目を覚ましたジアはぐっと伸びをする。
起き上がって寝台から下り、寝巻から簡易な軽装に着替える。
部屋の鏡をちらと見れば、どこか人間離れした見た目の少女が映っている。亜麻色の髪に走った青緑の稲妻。ぎらつく青緑色の瞳は、獰猛な肉食獣を思わせる。
どこか人間離れしているといっても、人外と思われるほどのものではない。
世には、獣人、魔族、エルフといった多種多様の種族が生きている。彼らに比べれば、ジアの容姿などよっぽど人間らしい。
事実、ジアはこの容姿を理由に迫害や差別を受けたことは無く、それどころか、不気味がられることも滅多に無い。
「…………」
ジアは鏡の中の自分をじっと見つめる。
その無為な行為もすぐに切り上げ、ジアは自室を出た。
ミシミシと軋む廊下を歩き、所々を木の板で補修された階段を下りる。
一階の居間に出れば、そこには先客がいた。
「遅い。朝餉が冷めちゃうだろ」
ガタついたテーブルに着いていたのは黒髪の少年。
肌は白く、体は細い。背丈は小さく、髪も比較的長い。顔立ちは奇跡的なほど美しく、見目麗しいという言葉すら不足。
もしも女に生まれていたならば、絶世の美女と謳われただろう少年は、不満げな目でジアを見上げている。
早起きして朝食を作ったにも関わらず、ジアが中々起きてこないことに腹を立てているようだ。
「冷めても食えるだろ」
言いつつ、ジアもテーブルに着いた。
「それは……一番美味しい時に食べてほしかったから……」
ごにょごにょと何かを言っているユヒナの言葉は聞き流し、ジアは朝食を口に運ぶ。
「別に今も美味いぞ」
「っ、そういう問題じゃないんだけど……」
ジアがユヒナを拾ってから、二年の月日が経っていた。
ジアは十八歳、ユヒナは十六歳。お互いに成長したかと言えば、そんなこともなく、二人共背丈は二年前とそう変わってはいなかった。ジアの背が少し伸びたくらいだろうか。
いや、成長はしている。背が伸びたとか、体格が変わったとか、そういうもの以上に、変化したものは確かにある。
ユヒナは料理ができるようになった。ユヒナは物怖じすることが少なくなった。ユヒナはよく眠れるようになった。ユヒナは――――
「俺の料理には、興味ナシですかぁー……」
一人称を変えた。
ジアと出会った頃は、僕と言っていたのに、今は俺と言うようになっている。
誰を真似たか、などと問うのは愚問だろう。
しかし、ジアは気付かない。
いや、気付かないというより、興味が持てないという表現の方が正しい。
誰かに指摘されれば「そういえばそうだな」と思い起こすことはできるだろう。
だが、それらの変化を意味あるものとして認識できないのだ。
空を見上げても雲の形を正確に記憶しないように、今朝は靴下を右と左のどちらから履いたか覚えていないように、足下を這うアリの顔を一匹一匹識別できないように。
ジアは気付かない。興味を持てない。意味あるものとして認識できない。
その意味を理解しないまま、ジアは善行を重ねる。
「ありがとう。美味かったよ」
朝食を食べ終えたジアはユヒナに感謝を告げる。
恩には感謝を。他者には敬意を。弱者には施しを。
ジア・エルマとは「善」という形を正確になぞり続ける機構のようだった。
人とは、そういうものだと識っていたから。
「ま、まあ。それなら良かったよ。俺も頑張った甲斐が、あった、かも……」
ジアには、ユヒナが嬉しそうにしている理由も、照れ臭そうにしている原因も分からない。
「そういうお前は食べなくて良いのかよ。のんびりしてると冷めちまうぞ」
「わ、わかってるよ……!」
ジアに言われて、ユヒナは急いで朝食を食べ始める。
ジアに感情が無いわけではない。会話に興じる遊び心も、喜怒哀楽も確かに存在している。
ただ、その在り方が致命的にズレている。
それは単純で、自己中心的で、直覚的。
人が本来持っている複雑な感性を持ち合わせない、未発達の欠陥品なのだ。
「食い切れないか?」
中々箸の進まないユヒナを見て、ジアはそう訊いた。
元より、大した量は盛られていないユヒナの皿。
その量が残り四割ほどになった所で、ユヒナの手はぴたりと止まっていた。
ユヒナが食べた量は食べ盛りの少年にしてはあまりに少量だったが、彼の肉体はそれ以上の食事を拒んでいた。
拒んでいたのは、彼の肉体ではなく、精神かもしれないが。
「いや、食べれる。食べれるから……」
「良いよ。オレが食う。お前、無理矢理腹に入れると吐き出しちまうだろ?」
無理して食べたものをユヒナが戻してしまうのは、ジアも何度か見たことのある光景だ。
ユヒナの食の細さは尋常ではない。無理に食べさせても良いことはないと判断して、ジアはユヒナから皿を奪い取った。
残っていた朝食をかきこみ、あっという間に平らげる。
「ごめん……つい、作り過ぎちゃって」
「謝られるようなことじゃねぇよ。おかげで腹いっぱいだ。ごちそうさん」
シュンとしたユヒナに声をかけ、ジアは空の皿を片付け始める。
やはり、ジアには分からない。
ユヒナがジアに朝食を振舞うために張り切って早起きしたこと。張り切ったが故に量を作りすぎたこと。その結果、自分が朝食を残してしまったこと。
頑張ったけれど、張り切りすぎて空回る。頑張ったのに上手くいかないのが悔しくて、張り切っていた自分が馬鹿みたいで恥ずかしい。
そんな些細な心の変化が、ジアには複雑すぎて理解ができない。
「ほら、行こうぜ」
落ち込むユヒナを他所に、ジアは玄関の戸を開ける。
小さなすれ違いは置き去りに、二人の一日は動き出す。
ジアとユヒナが二年間続けてきた、歪ながらも穏やかな日常の風景だった。




