第十二話 愛を貪っている
戦闘終了後、血塗れのギルドで意識を残していたのは、ユヒナただ一人だった。
ただ一人、その惨状を眺めていた。
言葉は無く、声は無く、今にも搔き消えそうな霧のように不安定な心だけがある。
ふらふらと、よろめくように進める足。ひどく不明瞭な足取りで、ユヒナはギルドの中へと踏み入っていく。
それは何かから逃げるように、雨に打たれながら泥だらけで歩むように。
死臭のする地獄絵図を踏み越えて、彼が辿り着いたのは、たった一人の少女の側。
仰向けに倒れる彼女は、穏やかな顔で眠っているようにも見える。まるで、遊び疲れた夜に、心地よく寝息を立てるように。
その穏やかな表情とは裏腹に、彼女の容態は酷いものだった。
腹を一文字に破く裂傷は深く、今も出血が止まっていない。胸に空いた穴からも血が流れ続け、中の臓器が覗いている。他にも細かい傷を数えたらキリが無く、脈を打っているのが不思議なほどだった。
亜麻色の髪が赤く染まって尚、そこに走る稲妻のように青緑色は、鮮烈な色彩を放っていた。
「治さなきゃ……」
ユヒナは彼女の側に膝をつき、傷口に両手を重ねてかざす。
唱えるは陰陽術。数年に渡る監禁生活の中、カラヤシキに教えられた治癒の術。
淡い光が傷口に浸透し、彼女の傷を癒していく。出血は止まり、傷口は塞がり、呼吸が巡る。
ユヒナの扱う治癒の陰陽術は、大陸の治癒魔術師でも舌を巻くレベルの技量であった。
「貴方に陰陽術を教えたのは、より深い絶望を与えるため。一枚も手札を持たないより、脆弱な手札を持っている方が絶望は深まる。期せずして拾った手札で、どうにかして反撃できないかと考え、その末に無理だという結論に至る過程。その過程によって得られた絶望が、貴方をより従順な傀儡に変える……当初は、そう考えていました」
背後から聞こえた声は、振り返るまでもなくカラヤシキのそれだった。
いつから見ていたのか。どこまで彼の計画通りなのか。
考察することすら面倒で、ユヒナは後ろを振り返ることもなく、ジアに治癒の術をかけ続けた。
「貴方は治癒の術を極めた。攻撃にも幻惑にも脇目を振らず、他者を癒す術だけを極め上げた。――――他者にとって都合の良い、愛されるためだけの術を」
治癒魔術師は使い手が少なく、希少価値が高い。
それは陰陽術という形で治癒の術が浸透しているアメツチでも同様の事実だ。
そして、希少価値という理屈を抜きにしても、治癒魔術師は周囲に愛される傾向にある。
人を癒すという行為は、そういうことなのだ。
傷の痛みから救い、病の苦しみから解放する。最も原始的な施しであり、無条件に感謝と愛情の対象となる行い。
治癒は守護よりも劣るが、治癒は守護よりも愛される。
痛みを受けている人間を救う治癒より、痛みを未然に防ぐ守護の方が優れている。
しかし、実際に痛みを受けた人間の方が、痛みを受けていない人間よりも強い感謝や尊敬の念を抱く。実感として痛みを知っている人間は治癒に対して強い愛情を返すが、痛みを知らぬ者は守護に対して漠然とした感謝しか返せない。
人から愛を集めるのに最も適した行いこそが、治癒なのである。
「ユヒナ様、貴方は絶望などしていなかった。苦しんでなどいなかった。私が溺死させるつもりで用意した深井戸で、貴方は浴槽に浸かるが如く足を伸ばしていたのです」
ユヒナの背後に立ったカラヤシキは、彼の痩躯を見下ろしている。
山羊の面で隠された視線に宿っていたのは、軽蔑と畏怖。
その目はユヒナの欲望を蔑むと同時に、その業の深さに恐れを抱いてもいた。
ユヒナは蹲ったまま、じっと床に視線を落としている。
「貴方はご自分より姉君の方が強いと言うが、私に言わせれば真逆ですよ。貴方は姉君が心を病むほどに追い詰められた苦行を、涼しい顔でこなしていた。背筋の冷えるような肉欲を、吐き気を催すような悍ましい欲望を、貴方は笑って受け入れていた」
それは、カラヤシキだけが気付いていたユヒナの本質。
それだけが、彼を肯定する。
それだけが、彼に対して是と言う。
それだけが、彼を彼たらしめる。
「愛されていれば、それで良かったのでしょう?」
あの家の女中にとって、ユヒナは欲望の対象だった。
それは純粋に彼の美しい容姿故に生まれる肉欲に留まらない。
アメツチに親しいあの家にとって、アマノミヤの血筋とは栄光の象徴としての側面も孕んでいる。
世の女性がパートナーに選びたがるのは、決まってスペックの高い他人に自慢できる男であるように、虚栄心にも似た欲望をユヒナは向けられていた。
あの家の中のみに限らず、アマノミヤ全土で「あのアマノミヤの子を授かった」というのは、とてつもないブランド力を持つ。大陸でも貴族王族の血というは、大きな価値を纏うものだ。
故に、ユヒナの部屋には、毎晩のように女中が訪れた。
カラヤシキが指示を出すまでもなく、ユヒナは毎晩のように犯された。むしろ、カラヤシキが注力したのは、ユヒナの体を過度に壊さぬことである。
美女に囲まれた酒池肉林とは、冗談でも口にはできまい。
女中のほとんどはユヒナより十や二十も老いた者達。容姿や年齢による選定など、もちろんされていない。ユヒナは六十を超える老婆の相手をさせられたこともある。
そんな地獄の中で、ユヒナはどんな顔をしていたのか。
「姉君が貴方を助けようとして私に攫われた時も、あの家で毎晩のように女中の相手を強いられていた時も、貴方のために命を懸けたジア・エルマが死にかけている今も、貴方は――――」
血塗れのギルドに蹲ったままのユヒナ。
ジアの治癒は既に終えているというのに、意味も無く治癒の術をかけ続ける。
無為に魔力を消費するだけの児戯の最中、血溜まりに映った彼の顔は――――
「ずぅーっと、笑っていたのですから」
指で両頬を吊り上げたように、口元を歪めて笑っていた。
涙で張れた瞼。しかし、口元は吊り上がったまま。
それは、泣き顔の少年の口元を指先で吊り上げ、無理矢理笑わせたような歪な貌。
血の池に映るユヒナ・アマノミヤは、どうしようもなく笑っていた。
「貴方のために誰かが傷付くほど、貴方の心は満たされた。貴方を求めて部屋を訪れる女中が増えるほど、貴方は快く眠れた。鏡に映る見目麗しい自分が、貴方の精神に安寧をくれた。貴方は他者から注がれる愛情を確認することでしか幸福を得られない」
愛情とは目に見えない。心は鏡に映らない。
ユヒナはそれを見ようとした。
見えない愛情を見るには、その形を歪めるしかなかった。
危険を顧みず自分を助けてくれた姉の姿に、女中達が彼に向ける欲望に、死んでも良いとさえ言ったジアの言葉に、何度も愛情を見た。
見えない愛情を様々な形に歪めて確認し、ユヒナは常に笑っていたのだ。
「愛されたい、その欲望だけが貴方の根底にある。自らに注がれる愛を確認するためなら、貴方は傷付けることを厭わない。自分も他人も容易く踏み躙って見せる」
ずっと、笑っていたのだ。
どんなに醜悪な形であっても、求められるというだけで満たされた。
どれだけ破滅的な選択としても、大事にされるというだけで嬉しかった。
ユヒナはその境遇にしては不自然なほど、カラヤシキに対する憎悪の念が薄い。
それは、血筋の利用価値という打算ありきでも、カラヤシキが彼を必要としたからだ。
「…………分かっていたよ、そんなこと」
蹲って俯いたまま、ユヒナはポツリと呟いた。
嗚咽は無く、涙声にはなっていない。
どこまでも乾いた、無味乾燥な声音だった。
「僕は周りに愛されたいだけの……醜い化け物だ」
愛されたいという欲求を、歪な形で満たしている化け物。
好きでもない女と明かす夜。辛いはずなのに拒めなかったのは、それがどんなに醜い欲望であっても、自分が求められていたから。
黒鉄の騎士と殺し合っていたジア。死んでほしくないのに止められなかったのは、自分のためにジアが身を削ってくれるのが気持ち良かったから。
すぐに二人で逃げれば、ジアは傷付いて死にかけることもなかったのに。
「いえ、貴方はどこまでも人間ですよ。むしろ、人間らしすぎる。怪物というのは、そこに転がっている異常者のことを言うのです」
カラヤシキは、足下のジアを指差した。
殺し合いの中でしか幸福を得られない戦闘狂。血で血を洗う地獄の中でしか、生を謳歌できない人格破綻者。
血。肉。死。そういったショッキングでシンプルな事象にしか高揚できない彼女に、愛されたいなどという高尚で社会的な感情は無い。
ジア・エルマとは、ある意味ユヒナと対極に位置する少女だった。
ユヒナには無いものを持っていて――――いや、ユヒナにあるものがジアには無かった。
ユヒナが覗き込むジアの顔。安らかに寝息を立てているようでもあり、死に果てた遺体のようでもある。
そこに、一個人としての欲は無かった。
あるとすれば、怪物的な闘争本能だけ。
その虚無性は、なんて――――
「きれい、な……」
きっとユヒナは、その透明な美しさに惹かれていたのだ。
見返りを求める欲望は無く、認められたいという欲求すら無く、ただひたすらに「善」をなぞるジアが綺麗だと思った。
誰よりも非人間的で、機械的で、怪物的だからこそ、彼女の「善」に嘘は無かった。
その透明さに、怪物性故の透き通った善性に、ユヒナはきっと、恋をしていたのだ。
その美しさは、ユヒナが持ち得なかったものだから。
「本当に、綺麗な人だなぁ……」
間近で覗き込んだジアに、ユヒナはポツリと呟いた。
ユヒナはほとんど悟っていた。
自分達はずっとカラヤシキの掌の上で踊っていたのだと。
化猿との戦闘も、黒鉄の騎士との死闘も、ジアを消耗させてユヒナから引き剥がすための策だったのだろう。
ジアを戦闘不能まで、或いはカラヤシキ本人でも打倒できるレベルまで追い込み、ユヒナを奪い取る。
全部、カラヤシキが思い描いたシナリオ通りだ。
「帰りましょう、ユヒナ様。皆が待っています」
背後から、カラヤシキが語り掛ける。
皆が待っている。それは甘美な言葉だった。
まるで、自分が誰かに求められているように錯覚させてくれる。
熟れて腐った果実のようだ。
「ああ、分かってるよ」
眠るジアに別れを告げて、ユヒナは立ち上がった。
今更、抵抗する気力も無ければ、意味の無い足掻きを続ける意味も無い。
それに、もう気付いてしまった。
ユヒナとジアはあまりにも違う。どこまでも透明な彼女の隣に、欲に塗れたユヒナは相応しくない。醜い欲望でジアを消費し切ってしまう前に、彼女とは別れなければ。
ユヒナは気付かない。カラヤシキが手中に収めようとしているのは、ユヒナだけではないということ。
言葉無く唱えた陰陽術で、カラヤシキが右手から零す極彩色の液体。
どろりと流動する色彩豊かな水が、眠るジアの取り込むように、蠢いていること。
そして――――
「やっと尻尾を出しましたね、カラヤシキ」
死したはずの少女が立ち上がっていること。
ダボっとしたローブを着込んだ小柄な少女。普段は長い前髪で両目を隠しているが、今はその隙間から黒曜石のような双眸が覗いている。
黒鉄の騎士が殺めたと思われていた少女。リーニアのパーティの一員だった少女。
血を被りながらも、彼女は立ち上がってカラヤシキの方を見つめていた。
(ずっと身を潜めて生きてた……? 血を浴びてはいるけど、傷らしい傷が見当たらない。それに、この人が喋ってるの初めて見たような……)
異様な空気を纏う少女に、ユヒナは妙な違和感を覚える。
何故、今まで気にしたことが無かったのか。リーニアのパーティで、この少女だけ一度も言葉を発していない。それどころか、素顔をまともに直視した経験すら無い。
気にするべきことが気にかからない違和感と、正体不明の既視感。
「お前、いつからそこにいた?」
カラヤシキが低い声で唸った。
ユヒナに見せていた余裕綽々な態度からは想像できない、怒気と緊張感を含んだ声音だった。
「貴方に語ることは何も……いえ、感謝の一つでも述べておきましょうか。貴方は私のために心臓移植者を育ててくれていたようですから」
「貴様――――ッ!」
攻防は一瞬。
カラヤシキが解き放った極彩色の水は、流動する無数の槍となり荒れ狂う。
狭いとは言えないギルド内にあっても、回避先の無いほどの攻撃範囲と手数で、虹色の水は猛威を振るう。
床を割り、壁を引き裂き、天井を崩す極彩色の槍の群れ。蜘蛛の巣の如く展開された液状の槍達は、そこら中に散らばっていた死体ごと、ギルドの内装をズタズタに裂いた。
しかし、時既に遅く、ローブの少女も眠ったジアも、ギルドに残ってはいなかった。
まるで先程まで見えていたのは陽炎とばかりに、ギルド内から消え失せている。
「幻惑の類か。厄介な術者に目を付けられたものだ」
少女が使用した術の概要を暴き、カラヤシキは小さく歯嚙みする。
少女の詳しい正体までは分からずとも、ここぞという場面で出し抜かれ、計画に必要な駒を持っていかれたのは確かだった。
「さて、どう出し抜いたものか」
山羊を模した仮面の下、カラヤシキは不敵に笑った。




