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怪物の君へ  作者: 讀茸


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第一話 少年、愛患う

人間なんて、どいつもこいつも醜いのだから

 嵐の夜だった。

 少年は必死の形相で、林の中を走っていた。

 裸足の両足がぬかるんだ土を打つ。小さな足跡を残しながら駆けていく少年は、上等な着物を羽織っていた。

 白い生地に朱の紋様を描いた単衣は、一目で最高級の素材と職人技によって作られたものだと分かる。この着物一つで、少年の身分の高さが知れようものだ。

 着物の裾を泥で汚しながら、林を走っていく少年。


「ハァ、ハァ、ハァ……!」


 見目麗しい顔は恐怖に歪み、涙と汗を雨粒が洗い流す。

 脚力は体力もとうに限界で、少年の細身ではへたりこんでもおかしくない状況だったが、体の芯に染みついた恐怖が少年の足を動かす。


(逃げなきゃ。逃げなきゃ。逃げなきゃ……!)


 雨水を吸った着物は肌にへばりつき、吸った水分の分だけ嵩増しされた重量で以て少年にのしかかる。

 重くのしかかる着物は、追手から逃げる少年にとって重荷でしかない。

 それでも脱ぎ去ってしまえなかったのは、肌を晒すことに対する少年の強い恐怖心故。

 かの家の者に着用を強制された女物の着物。そんなものであっても、今は少年の白い肌を守ってくれる唯一の鎧であった。


「あっ……」


 少年は足を躓かせる。筋肉に乏しい少年の細身は、簡単に転倒した。

 幸か不幸か、少年が転んだのは坂の上。転んだ勢いのまま、林の中で坂を転げ落ちていく。

 全身をぬかるんだ土で汚しながら、何度も木々にぶつかりながら、少年は雨降る林を転落する。

 坂の勾配は大して急でもない。運動神経の良い者ならば、体勢を立て直すこともできただろう。

 少年にはそれだけの運動神経も、今更起き上がる体力も残っていなかった。

 ただ地面に叩きつけられる痛みに目を瞑って耐え、緩やかな坂を転がっていく。

 そうして、転げ出た先は小さな街道。いつの間にか、少年は林の外に放り出され、土色の道に叩きつけられていた。


(痛い。痛いけど、走らなきゃ。逃げなきゃ。遠く、遠くに……)


 今しがた出来た擦り傷の痛みでさえ、少年にとっては生まれて初めて味わう激痛だった。

 それでも、何とか体を起き上がらせようと藻掻く。

 しかし、悲しいかな、少年の身体はこれ以上の移動に耐えられるようには出来ていなかった。

 白く美しい肌に、端整な顔立ち。細く小さい体付きは、激しい運動は向いていない。魔力で身体能力を賦活する術など、知り得るはずもない。

 走ることも、傷を負うことも、逃げることも、少年の体には期待されていなかったのだから。

 全身を圧し潰すような疲労とこれ以上体が動かない絶望。

 今にも千切れそうな肺が収縮するのに任せて、ゼーハーと浅い呼吸だけを繰り返す。

 そんな少年の前に、何者かが立った。


「おい、大丈夫か?」


 それは少女だった。

 歳は少年より僅かに上か。如何にも庶民といった質素な服装をしている。片手には古びた傘を差していた。

 髪の色はくすんだ亜麻色だが、所々に稲妻が走ったように青緑色が差している。

 自然ではあり得ない色合いの髪だが、染料で染めたというには、あまりにも鮮やかな色をしていた。

 同じく青緑色をした瞳も、瞳孔がどこか獣じみている。

 どことなく人間離れした容姿の、少女であった。


「立てるか?」


 少女は低い声で訊きつつ、少年に手を差し伸べる。

 それは恐らく、少年を慮って伸ばされた手。

 そのことを少年の理性が理解しなかったわけではない。

 ただ、女の手が自らに迫っているというだけで、少年の体は震え上がった。


「ひっ……あ、……っ」


 尻餅をついたまま、少女から逃げるように後ずさる。

 ひどく怯えた表情。逃げようと手足を懸命に動かすが、少年の指は濡れた土の上を滑るのみ。

 どれだけ逃げようと藻掻いても、少年に動けるだけの力など残っていなかった。


「別に取って食いやしねぇよ。……行く当てはあるのか? お前」


 恐怖心を隠しもしない少年に対し、少女はひらひらと手を振る。

 怯え切った様子の少年だったが、少女に行く当てがあるのかと聞かれて、考え込むように押し黙った。

 行く当てなどあるはずがない。

 目をそらして沈黙を貫く少年の態度が、全てを物語っていた。


「……泊ってけよ。ボロ屋だけどな」


 少女の提案は、少年にとっては蜘蛛の糸。

 当ても無く逃げ続けるだけの苦行を、終わらせられる絶好の機会だった。


「でも、僕は……」

「遠慮すんなよ。ここで見捨てたら、こっちも夢見が悪くなる」


 言い淀む少年の手を掴み、少女は無理矢理立ち上がらせる。

 片腕一本で少年を軽く起き上がらせた少女。それは少女の腕力故か、少年の軽さ故か。

 立ち上がりはしたものの、少年の足はガクガクと震えていた。

 長時間雨に打たれた寒さ、体力の限界、それ以上の恐怖心。色々理由はあっただろうが、ともかく、少年は震えていた。


「歩けるか?」

「歩くくらいなら、何とか……」

「無理すんな。肩貸してやるから」


 少女は少年に肩を貸し、街道を歩いていく。

 右手には傘を差し、左肩には少年を負い、雨の降る街道を歩いていった。


     ***


 ――――愛してる


 その言葉は病のようだった。

 誰もが僕にそう囁いた。

 貴方を愛していると。他の誰よりも愛していると。この世の何よりも愛していると。

 これは愛なのだと、そう言って僕の身体に触れた。

 肌をなぞる舌の感触も、全身に突き刺さる好奇の視線も、飲み干す薬の苦さも、全ては愛なのだと。

 毎晩のようにやってくる彼女らは、示し合わせたかのように言うのだ。


 ――――愛してる


 彼女は僕の白肌を褒め称えた。


 ――――愛してる


 彼女は僕の細身を欲した。


 ――――愛してる


 彼女は僕の若さを羨望した。


 ――――愛してる


 彼女らは皆、一様に僕の体を求めた。

 肌を、腕を、顔を、瞳を、髪を。そして、血を。決まってみんな求めていた。

 床は狭く、夜は長い。求められるがままに貪られるだけのそれを、僕達は愛と呼んでいた。

 それが無いと、眠れないのだ。愛されないと狂ってしまうのだ。愛だけが、僕を僕として肯定してくれる麻薬だったから。

 だから、今夜も受け入れる。

 襖の奥に足音がして、何者かのシルエットが映って、襖が開く瞬間を、布団の中で待っている。

 そうやって、今夜もまた、名前も知らない誰かに触れられて――――



「白い着物の子供?」


 玄関口からの声で、少年は目を覚ました。

 悪夢から一気に覚醒した意識は、目覚めたばかりだというのにはっきりしていた。

 少年がいたのは寝台の上。知らない家の知らない寝台で眠っていたらしい。


「歳は十四。男子だが細身で色白故、女子に見えるやもしれん。見かけてはいないか?」


 少年は寝台の上で横になったまま耳を澄ます。

 玄関口で誰かが会話しているようだった。

 一方は成人した男の声。もう一方は聞き覚えのある少女の声。

 少年は耳が良い。襖で閉ざされたあの間では、音だけが周囲の情報を探る術だった。


「ああ、それなら昨日見たよ。確か、街道の方だったな。林から転げ落ちてきた」


 背筋に悪寒が走った。

 聡い少年はここまでの会話だけで、大方の状況を理解していた。

 家の者が少年を捜索して、ここまでやって来たのだ。

 少年を助けてくれた少女も、こうして少年について快く話している。

 つまりは、ここまでだ。少年の命運もここで尽きた。あの家に連れ戻されて、また終わりの見えない日々に戻るだけ。


(また、僕はあの場所に――――)


 狭い夜伽の間を想起し、少年の心は絶望に沈む。

 そんな少年の心情は気にも留めず、玄関口で二人は話を続ける。


「それで?」


 男が先を急かす。

 あとは「今、家で寝かせている」と少女が答えるだけで、少年はかの家に後戻りすることが確定する。


「それでも何も無ぇよ。強いて言うなら、街道を西の方に走って行ったくらいだ。すごい急ぎようだったしな。声もかけてねぇ」

(…………え?)


 少女はあっけらかんと言い放った。

 少年に昨夜の記憶はほとんど無い。

 だが、今の状況からして、あの少女が少年を家まで運んで、こうして寝かせてくれたのは疑いようがない。

 少女は少年の捜索に来た男に対して、ハッタリを言って見せたのだ。


「そうか。協力感謝する。押しかけるようなことをして、申し訳なかった」

「いや、構わねぇよ。それじゃあな」


 簡単なやり取りの後、扉が閉まる音がする。

 一連の話を聞いていた少年は、寝台の上で目をパチクリさせていた。

 玄関口での会話を終えた少女は、そのまま少年のいる部屋まで戻ってきた。

 扉を開いて入ってきた少女の様子は平静そのもの。ハッタリをかました緊張は微塵も感じられない。


「お、起きたな。調子はどうだ?」


 先程は何も無かったかのように、少女は軽い口調で問いかけてくる。

 もしも、少年がもう少し長く寝ていたら、先のやり取りを知ることはなかったのだろう。

 そう思わせるほどに、少女は日常的な所作を見せていた。


「さっき……なんで、僕のこと……」

「ああ、なんだ。聞いてたのか」


 たどたどしく尋ねる少年に対して、少女は何でもないことのように返す。


「お前、あいつらから逃げてたんだろ? それを突き出すってのも、気が引けたからな」


 今しがた自分がしたことの意味を理解していないのか、理解した上で気にしていないのか、少女は取り乱す様子が微塵も無い。

 それどころか、「あいつも着てたぞ、着物ってやつ」なんてことを呑気に言っている。


「……意味、分かってるのか? もしバレたら、どうなるか――――」

「その時はその時だ。バレてから考えりゃ良いだろ」


 少女の言葉はあまりに楽観的。

 だが、それ故に、心を洗われる気がした。


「そういや、名前聞いてなかったな。オレはジア・エルマ。お前は?」


 少女と違って、少年は楽観的ではなかった。

 自らの名を名乗ることの危険性。自分の素性の断片を明かすことのリスク。

 それらを十分に理解していた。

 それでも――――


「ユヒナ・アマノミヤ」


 名乗ることにした。

 何の理屈も無く自分を救った少女には、何の理屈も無く自らの名前を教えようと思ったのだ。


「ユヒナか。女みたいな名前だな。顔も女みたいだし」

「う、うるさいな……」


 少女――――ジアはユヒナの名を聞いても、特別な反応を示さない。

 デリカシーの無い感想を述べるのみである。

 世間に無関心なジアは、アマノミヤの名前すら知らなかった。

 アマノミヤの名前すら知らないというのは、流石に異常なことなのだが、ユヒナは「そういう人なんだろう」と思って受け入れた。

 ジアとは違うベクトルで、ユヒナも世間知らずではあった。


「ユヒナ。お前、行く所無いんだろ? だったら、しばらくここにいろよ」

「それはありがたいけど……なんで、そこまでするんだ? 僕達、会ったばっかりなのに……」


 追手から匿ってくれた上に、しばらく住居を提供してくれるという。

 度を越したジアの親切に、ユヒナは困惑していた。

 ジアが利他的すぎたのも確かだが、それ以上に、ユヒナは人を信じられなくなっていた。


「そういうものだろ、人間って。ウチはボロいけど部屋は余ってる。一人くらい泊めたって、バチは当たらねぇよ」


 ジアの言葉に、ユヒナはポカンとする。

 人間がそういうものだとは、ユヒナには到底思えない。

 ただ何の損得勘定も無く善行を働くなんて、人間らしくない。

 人間は計算高く、狡猾で、愛すらも自分に利するための道具として使うのだ。

 でも、何故だろう。ユヒナの目の前にいるこの少女は例外だと、心から思えたのだ。

 人間は人間らしく醜悪で、人間的な欲望に満ちている。

 ジアという少女は、そういうおぞましい人間性の外側に生きていると感じられたのだ。


「ほら、着替えだ。オレのお下がりだけどな。いつまでもその服ってわけにもいかねぇだろ」


 ジアはユヒナの着ている白い着物を指差して言った。


「汚れてるから着替えろって言ったのに、昨日は全然脱ごうとしなかったからな。仕方なくお前ごと石鹼で洗ったんだぞ」


 ジアは軽く文句を言いながら、服の上下一式を寝台の上に置いた。

 ユヒナが着るにしてはサイズがやや大きめだったが、着れないこともないだろう。


「じゃ、オレは飯作るから。着替えとけよ」

「あ……」


 ユヒナが小さく漏らした声には気付かず、ジアは部屋を出る。

 ジアが後ろ手に閉めた扉が、バタンと音を立てる。


「ありがとう……」


 ユヒナの感謝が零れた時には、ジアはとっくに部屋を後にしていた。

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