第1話『それでも、語る』
雨上がりの朝は、空気が妙にぬるい。
オフィスビルの会議室も、冷房が効いているはずなのに、どこか湿っていた。
「――じゃあ、例の件。説明してもらえるかな?」
猿渡課長の声が、会議室に落ちる。
低く穏やかで、どこまでも冷たい声。
「す、すみません……私の確認ミスで……」
若い女性社員が、頭を下げながら呟く。
その声を遮るように、猿渡が笑った。目だけが笑っている。
「“ミス”? ああ、便利な言葉だよね。自分の不注意を事故に変えられる魔法の言葉」
誰も笑わない。
だが、猿渡だけが笑い続ける。
優しさの皮を被った、殺意のある笑み。
「で? その“事故”の尻拭い、誰がやったか知ってる?」
女性社員は黙る。
会議室の空気がわずかに沈む。
「なぁ、みんな。正直に言おうよ」
猿渡は周囲に視線を滑らせる。
「彼女の仕事ぶり、ちょっと雑だと思ってた人、いるよね? 俺だけじゃないよな?」
数名の社員が、息を飲む。
目を合わせない。うなずかない。けれど、否定もしない。
黙っている。それが、肯定の印になる。
「俺はさ、君のためを思って言ってるんだよ。わかるよね? ね?」
その“ね”に、優しさはない。
有無を言わせぬ圧が込められている。
「誰も教えてくれないことを、俺はちゃんと教えてる。俺は――お前のために言ってるんだよ」
それは、教育ではなかった。
ただの服従と、見せしめの儀式だった。
会議室の隅。
誰も気にしていない位置に、一人の男がいた。
語部 慎。
黒のスーツにネクタイを締めた長身の男。
細身の体躯に無駄のない所作、眼鏡の奥の瞳は冷めている。
存在感はあるのに、なぜか印象に残らない。空気と同化したような異質さがあった。
“契約調査員”。
名刺はある。呼ばれて来たことは確かだ。
だが、誰も彼がどこから来たのかを知らない。
「語部さん、どうですか?」
猿渡が突然、笑みのまま語部に話を振った。
「外部の人間から見て、どう思います? 彼女のこの対応」
語部は、ゆっくりと顔を上げた。
その動きには、迷いも感情もない。
ただ、反射のように視線を返す。
「……何も」
それだけ。
乾いた響きの声。感情も温度もない。
けれど、会議室の空気が一瞬、わずかに揺れた。
猿渡は勝者の笑みを深くした。
「だよね。やっぱり俺、間違ってなかったよね」
勝利宣言。
部下たちは、空気を読んでうなずく。
今日は、自分じゃなかった――安堵が静かに広がる。
その時だった。
ぽとり、と水音が落ちた。
女性社員の膝の上に、涙が落ちていた。
震える肩。声にならない唇。
猿渡が、それを見て――笑った。
「……泣けば、許されると思ってるの?」
声は低く、乾いていた。
「感情で誤魔化すの、ほんとやめてくれない? そういうの、社会じゃ通用しないからさ」
女性社員はさらに俯く。肩が震え続ける。
会議室全体が、ただ“無視”という名の共犯に染まっていく。
「俺は君の味方だよ。でもね、泣いたって、何も変わらない。
むしろ“そうやって泣けば済む”って覚えられる方が、会社として困るんだよ。
なにかあったら泣けばいい――そんな人間を、君たちも抱えたいか?」
「甘えてるよね。社会人って、感情で動くんじゃなくて、結果で評価されるべきだから。
“つらかった”とか“悲しかった”って言えば、何でも許されると思ったら大間違いだよ?」
「そうやって泣いても、何も変わらない。
責任は、泣いても減らないんだから」
その瞬間。
語部が、立ち上がった。
椅子の脚が床を擦る音が、会議室に響く。
静寂の中に、異音が落ちた。
全員が語部を見た。
「な、何か?」
猿渡が笑う。けれど、声がわずかに揺れていた。
語部の視線が、真っ直ぐに猿渡を射抜いていた。
「……あなたは、“正しさ”の皮を被った臆病者だ」
「自分が正しいと信じることでしか、自分を保てなかった。
だから、他人の失敗を責めることで、自分の価値を確かめてきた。
本当は――怖かったんだ。“何も持たない自分”がバレるのが」
一拍、間を置いて。
語部は、一歩、猿渡へ近づいた。
「“正しさ”っていうのは、誰かを踏みつけて証明するもんじゃない。
傷つけた数で築いた立場に、意味なんかない」
猿渡の顔が歪む。
「俺は……俺は彼女のためを思って……!」
「違う」
語部は、静かに遮った。
「あなたが守っていたのは、誰かの未来じゃない。“今の自分の立場”だけだ」
「“言葉の後”を見ようとしなかった。
あなたの言葉が、どれだけの人を黙らせ、壊してきたのか――一度でも考えたか?」
語部の指がかすかに震えた。
手の甲に走る静脈が、青く浮かび上がる。
猿渡は、崩れるように椅子に沈んだ。
声は出ない。
顔は青ざめ、指先は震えていた。
その目はどこか虚ろで、焦点が合っていなかった。
舌の動きが止まり、口元が微かに震えている。
まるで、今さっき言葉ではなく“何か”を飲み込まされたようだった。
誰も声をかけなかった。
誰も、目を合わせなかった。
語部の呼吸が、わずかに乱れていた。
胸の奥に、じくじくとした痛みが残っている。
言葉を吐き出すたびに、体の内側から“何か”が削られていく。
息は静かだが、確かに重い。
語った言葉が、相手の“立場”と“居場所”を奪う。
その事実に、語部は慣れている。
それでも、語る。
「誰かが言わなければ、あなたは一生、“正しいつもり”で人を壊し続けた」
「言葉は、正しく使えば誰かを救う。
だが、間違えれば――誰かを殺す」
語部は、一度だけ深く息を吐いた。
そして何も言わず、会議室を後にする。
誰も動かない。
椅子に沈んだままの猿渡、凍りついた社員たち、震える女性社員。
誰も、語部を引き止めなかった。
けれど――
会議室のドアが閉まりかけた、その瞬間。
「……ありがとうございました」
小さな声が背後から届いた。
女性社員だった。顔は伏せたまま、でも、確かに語部の背中に向かって。
語部は、立ち止まらない。
ただ、その手がほんのわずかに、ポケットの奥で握られた。
その日を境に、猿渡が会議に姿を見せることはなかった。
数日後、社員たちの会話は静かだった。
「……結局、猿渡課長、今週ずっと休んでるよな」
「うん。あの日から、ぱったり」
「言い返されたくらいで来なくなるなんて、意外だったよな」
「いや、でも……あの時の空気、なんか変だった。あれはもう、何かが……壊れたって感じだった」
「てか、語部さんだっけ?あの人の迫力、すごかったよな」
「うん、なんか……“空気”ごと持ってく感じ」
「声も小さいのに、なんか全員黙っちゃうっていうか……」
誰かが言った。
「……言葉って、使い方次第で人を救うことも、壊すこともあるんだな」
廊下の奥を歩く男がいた。
語部慎。誰に会釈することもなく、静かに通り過ぎていく。
ポケットの中に、紙片が揺れる。
折れた端、薄く滲んだインク。
「おにいちゃん」と「ありがと」の文字だけが、かろうじて読める。
語部は立ち止まらない。
だが、一瞬だけ――目を閉じた。
語れば、誰かが死ぬ。
語れば、自分が死ぬ。
それでも語る。語る死す。