第137話 打撃の修行
午前六時。
朝靄が庭を包み込む中、メイドのリンは離れへと向かっていた。
その足取りは静かだが、心はざわついていた。
あのムビという少年。
テレビやSNSで頻繁に見かけるが、耳にする評判は芳しくない。
リリス様が、なぜあのような男を「友人」と呼ぶのか。
理解できない。
いや、理解したくない。
リリスは孤高の存在だ。
王族の中でも際立つ才覚を持ち、ゆえに孤立している。
だが、誰にも媚びず、誰にも染まらないその在り方を、リンは深く尊敬していた。
ようやく友人を持てたのは喜ばしいことだが、悪い虫がつくのは許せない。
特に、リリス様はあの美貌の持ち主だ。
リリス様に限って過ちは犯さないだろうが、もしも男にそういう目的があったなら———。
リンは、太ももに忍ばせたナイフにそっと手を添えた。
離れの近くに差しかかると、空気が揺れた。
人の気配——いや、剣の気配。
ビュッ!ビュッ!
離れの庭で、ムビが剣を振っていた。
朝靄を裂くような鋭い軌道。
その姿に、リンは思わず息を呑んだ。
「あっ、リンさん!おはようございます」
「ムビ様……いつから鍛錬を?」
「いやいや、鍛錬ってほどじゃないです。教わったことを復習してて。4時に起きたから、ちょうど2時間くらいかな?」
リンは言葉を失った。
使用人の自分がまだ夢の中にいる時間から、彼は剣を振っていたのか———。
「ムビ様。朝食は七時からです。お着替えをお手伝いしましょうか?」
「えっ!? いやいや、王族じゃあるまいし! それより、お風呂って入れるかな? 汗かいちゃって」
「湯舟ですか?ええ、毎朝六時から入浴可能です」
「ほんと!? じゃあ急いで入ってくるね! 朝食の場所は昨日と同じ?」
「はい、そうですが……」
「ありがとう!七時には必ず行くから!」
そう言って、ムビは風のように走り去った。
(速い……! 臨界者とはいえ、なんという走力……。なるほど、リリス様が関心を寄せるわけですね)
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ムビは朝風呂で汗を流し、七時ちょうどに朝食会場へと姿を現した。
リリスと共に食事を済ませると、七時半には稽古が始まった。
「本日から、本格的な稽古を始めます。午前中は体術、午後は剣術を重点的に鍛えましょう」
「はい!よろしくお願いします!」
「では、まずは当身をお教えします。ムビ様、私を殴ってみてください」
「えっ……殴る!?いやいや、そんなことできないよ!」
「大丈夫です。遠慮なく、思い切り打ってください」
「無理だよ、女の子を殴るなんて……」
リリスは少し考えるような仕草を見せた後、穏やかに言った。
「では、まずは一割の力で。軽くで構いません」
「ほ、ほんとに軽くだよ……?」
ムビは、リリスの腹部に軽くパンチをした。
———!?
リリスは微動だにせず、くすりと笑った。
「ね?大丈夫でしょう?さぁさぁ、少しずつ本気を出してください」
ムビは徐々に力を込めて数発パンチを放ったが、リリスは平然と受け続けた。
(何だこの感触!?人を殴っている感じがしない……。まるで水袋を叩いているみたいだ……)
5割……7割……8割……。
ついにムビは、全力で拳を振るった。
ボスッ!
鈍い音とともに、リリスの身体が宙に浮く。
だが、リリスは軽やかに着地し、まるでワインを味わうように拳の衝撃を吟味した。
「んー……なるほど。まぁまぁのパンチですね」
(嘘でしょ……!?デスストーカーでさえ吹っ飛ばせるのに……!?)
ムビは言葉を失った。
「ムビ様のパンチ力は相当です。ただ、今の打ち方では衝撃が表面で散ってしまいます」
リリスは手を頭上に掲げる。
「当て身の質を高めるには、“脱力”が重要です。このまま力を抜いて、自然に落とします」
リリスの手が落下し、パンと音を立てて足に当たった。
「まずはこれが基本です。やってみてください」
ムビは手を頭上に掲げ、そのまま落とす。
落下した手は足に当たる。
「痛かったですか?」
「ううん、別に?」
「では、脱力ができていません。力が完全に抜けると、足が痛くなります。コピーしてみてください」
リリスはもう一度同じ動きをやって見せる。
ムビは今度はリリスの動きをトレースする。
(うわっ、全然手に力が入ってない!これが脱力……)
頭上に掲げた手が、そのまま落ちてくる。
パンッ
(いたっ……!?」
足に鈍い痛みが走った。
「それが脱力の感覚です。ムビさん、腕を出してみてください」
ムビは地面と水平に腕を突き出す。
リリスは頭上から腕を振り下ろし、ムビの腕に当てる。
「例えば、こんな風に力任せに落としたって、痛くないんです」
(確かに、別に何ともない)
「それを、脱力して落とすと……」
バチッ!
「いったあ!?」
ムビは腕を押さえて飛び跳ねた。
「力は全く入れていません。ただ、腕を自然に落としただけです。体重をフルに乗せることができれば、腕の重さだけでも結構痛いんです。これを当て身に応用します」
リリスは拳を握る。
「試しに右胸に、軽く1割くらいの力で打ちますね。左は心臓があって危ないので」
「お、おっけー……」
「いきますよ?」
パァンッ!!
「うへぇっ!!?」
ムビは数メートル吹き飛ばされ、膝をついた。
胸の奥に残る衝撃が、じわじわと広がっていく。
「いかがですか?」
「こ……これ、本当に1割なの!?」
「はい。ほとんど力は使っていません。脱力すると、“闘気”も深く浸透するのです」
確かに、胸の奥に“闘気”が残っていて、嫌な気持ち悪さが続いている。
「浸透系の打撃は、後から効いてきます。内臓を破壊し、後日相手を死に至らしめる技も存在します」
「だ……打撃って、思った以上に奥が深いんだね……」
「慣れれば、2~3割の力で、力任せの10割に匹敵する威力が出せるようになります。コピーはできましたか?今度は、私に打ってみてください」
リリスは両腕を広げ、ムビに当て身を促した。
(俺も、こんなすごい打撃が打てるのか……?よーし、リリスには打撃が効かないし、遠慮なく打たせてもらおう!)
ムビは構え、リリスの動きを完璧にトレースする。
結果、リリスの右胸におもいっきり拳が当たった。
「きゃっ!?」
リリスは胸を押さえた。
ムビの顔が青ざめた。
「ご……ごめん!トレースしちゃったから、そのまま右胸に……!」
「い、いえ……。脂肪がある方が、衝撃は散らせますので……」
腹を突いたときとは違う、柔らかい感触がムビの手に残っていた。
(なるほど……これだけ脂肪が厚いと、俺の打撃は全然浸透しなかったかも……)




