第102話 背伸び
「えっ、一緒にって」
「あっ、あの、変な意味じゃないんです。実は……『幽影鉱道』から帰ってきてから、夜、眠れないんです」
ムビは初耳だった。
『幽影鉱道』から帰ってきた直後の検査では、問題無かったはずだ。
「検査では、黙っていたんです。皆に心配をかけたくなくて……」
シノはきゅっと唇を噛む。
「『幽影鉱道』のことが、どうしても頭を過るんです。暗闇の向こうから、アイツが現れる気がして……。部屋を明るくしていても、ひょっとしたらアイツは生きていて、こちらに向かってきているんじゃないか……。すぐそこに……ドアの向こうに、もういるんじゃないかって……」
シノの体は震えていた。
本当に怖いのだろう。
「そうしたら、アイツに腕を切り落とされた痛みを思い出して……どこにも怪我なんかないのに、腕が痛むんです。あいつの不気味な声も、ペタペタって足音も、ゾッとする笑顔も、全部思い出して……。アイツのことで、頭がいっぱいになるんです」
無理もない。
魂を失う恐怖というのは、筆舌に尽くし難い。
生きているうちに感じる全ての恐怖は、所詮は命の危機に関するレベルでしかない。
あれは、突如深海の底に沈められたような———死にすら縋りたくなるような恐怖だ。
「でも、この前、ムビさんの家に皆でお泊りしたとき……初めて、ちゃんと眠れたんです。すごく安心して……。ムビさんが横に居てくれたら、眠れる気がするんです。こんなこと突然言われて気持ち悪いかもしれませんが……もし良かったら、お願いできないでしょうか……」
体の小さなシノが、身を震わせ、目に涙を溜めながら、上目遣いでムビを見つめる。
その眼には、いつもの凛とした芯の強さは無く、怯えた小動物のようだった。
「わかりました。シノさんが眠れるか分かりませんが……僕で良ければ、御供します」
ムビの心にはもう浮ついた気持ちはなかった。
ただ、目の前の少女の不安を取り除きたい、その一心だった。
「電気、消しますね」
シノの部屋が暗くなり、闇に覆われた。
ベッドには、ムビとシノの二人。
「シノさん、大丈夫ですか?」
「はい……さっきより、だいぶ気持ちが楽です」
それでも、部屋が闇に覆われた瞬間、シノは震え始めた。
同じ布団の中にいるため、はっきりとシノの震えが伝わる。
10分、15分……。
時間が経つにつれて、シノの震えは大きくなっていく。
恐らく、頭の中は、徐々にデスストーカーのことで埋め尽くされているのだろう。
息も乱れて、苦しそうだった。
ムビはシノがかわいそうで仕方なかった。
こんなに優しくて、しっかり者で、頑張り屋なシノが、どうしてこんなに苦しまなければならないのか。
「来ないで……」
聞こえるか聞こえないかくらいの、小さな呟きが聞こえた。
ムビは、シノの手をそっと握る。
シノの手は汗にまみれ、指がとても冷たかった。
「大丈夫ですよ、シノさん。アイツはもう、どこにもいませんよ」
シノは手を握られ少し戸惑ったが……ムビの声に安心したのか、震える両手でムビの手を握った。
「あいつが来たら、僕がやっつけてやります。シノさんが怖い思いをすることは、もうないんですよ」
ムビはシノが安心するように、指先でシノの手をトン、トン、と優しく叩く。
「今日はずっと僕がついてます。何かあっても、必ずシノさんを守ります。安心して、ゆっくり寝ましょうね」
シノが小さく呻き、体がピクンと動いた。
今までのような、恐怖による反応ではなかった。
「ムビさん……」
シノが強く、ムビの手を握り締めた。
「変な意味じゃないんで……ぎゅってしてもいいですか?」
ムビは少し笑った。
「はい。大丈夫ですよ」
ムビの言葉を聞いて———シノは、ムビを抱き締めた。
華奢な体。
懸命なシノの鼓動が伝わる。
「よしよし。何か楽しいことを考えましょうね」
ポン、ポン。
ムビはゆったりしたリズムで、優しく背中を叩く。
「今日はシノさんと、色んなお話ができて楽しかったですよ。シノさんが本好きで嬉しかったです。BL本も、また紹介してくださいね」
シノが泣いているのが分かる。
でも徐々に、体が熱を帯びてくる。
「これから毎日、楽しいことがいっぱい待ってますよ。アリーナ公演も成功するし、シノさんの夢がいっぱい叶います。ステージから見える景色は、どんな景色なんでしょうね。これからも傍でサポートさせてくださいね」
ムビはシノの頭を優しく撫でた。
しばらくすると、シノは眠りに落ちた。
よかった。
シノさん眠れたみたいだ。
ムビは少し腕が痺れてきたが、シノを起こすと悪いと思い、そのままの体勢で夜を過ごした。
ピピピ、ピピピ。
翌朝、アラームが鳴った。
ムビとシノは目を覚ました。
「あっ、おはようございます、ムビさん」
「……ん……おはようございます、シノさん……」
ムビはほとんど眠れなかった。
シノが眠り、段々と冷静さを取り戻したムビは、眠るどころではなかった。
なにせ目の前に、無防備な美少女の寝顔があるのである。
体は柔らかいし、いい匂いがする。
抱き合っているせいで、『脂肪吸着』で大きくなったEカップが何度も当たり、ドキドキが止まらなかった。
「すごく良く眠れました。本当にありがとうございます」
「いえいえ……お安い御用です……」
シノはすっかり熟睡できたようだ。
ムビは瞼が重すぎて、前が見えない。
「……あっ、シノさん!そういえば、モーニングルーティーン!」
「ああ、そうでしたね」
ムビとシノはカメラを見る。
電源が入っており、既に撮影されていた。
「流石にこんなところ、『Mtube』に流すわけにはいきませんね」
抱き合いながらシノは、ふふっと笑う。
「しょうがない、ヤラセでいくしかありませんね。そろそろ起きましょうか……あら?」
シノは起き上がろうとすると、衣服の異変に気付いた。
胸のボタンがいくつか弾け飛んでおり、Eカップの谷間が露になっていた。
一晩中悶々としていた思春期男子に、朝からこの光景は刺激が強過ぎる。
ムビは顔を赤くして動揺した。
「わわっ!ごめんなさいっ!」
「あはは。ムビさんに大きくしてもらったおかげで、パジャマも替え時みたいですね」
シノは胸元を隠しながら笑った。
ムビは目のやり場に困り、あさっての方を見る。
「と……とりあえず着替えて、モーニングルーティーンの撮影を始めましょうか。撮影だからって、特別なことをする必要はありません。背伸びする必要はないので、普段通りで大丈夫です」
「なるほど、承知しました」
ふわりとシノがムビに近付いた。
(えっ———)
シノは、ムビにキスをした。
「すみません、背伸びしちゃいました」
シノはいたずらが成功した子供のように、楽しそうに笑った。




