エルミラ王国への道中記
自由都市カルミアンを出て三日目。 北東へと伸びる街道は、進むにつれて人影がまばらになり、やがて完全なる無人地帯へと変わっていた。 空気が冷たさを増し、風に乗って運ばれてくるのは、濃厚な木々の香り――いや、濃縮された樹液の匂いだ。
「へへっ、見てくれよカイ。このブーツ、まだ泥ひとつついてないぜ! やっぱり高い革は違うなぁ」 街道の静寂を破るように、リオが新しいブーツの爪先をコツコツと鳴らした。 彼は努めて明るく振る舞っていた。だが、カイには分かっていた。目的地である「永遠の森」が近づくにつれて、リオの口数が不自然に増えていることを。
「……浮かれるな。そろそろ領域だ」 カイが短く釘を刺す。 前方の地平線が、深い緑色の壁に塗り潰され始めていた。 永遠の森。大陸北東部に広がるその広大な森林地帯は、エルミラ王国の領土であると同時に、人間を拒絶する天然の要塞でもある。
その時、前方から一台の馬車が凄まじい勢いで駆けてくるのが見えた。 交易用の荷馬車だが、幌は破れ、御者は青ざめた顔で手綱を叩いている。まるで何かに追われているようだ。
「おい、止まれ!」 カイが手を挙げて制止すると、御者は怯えたように馬を止めた。 「な、なんだあんたたちは! ここは危険だ、引き返せ!」
「俺たちはこれから森へ入る者だ。何があった?」 カイが問うと、商人は信じられないものを見る目で二人を見た。
「森へ入るだと!? 正気か! 最近のエルフたちは気が立っている。以前なら警告だけで済んだ場所でも、今は問答無用で矢が飛んでくるんだぞ! 俺も商談どころか、森の入り口に近づいただけで追い返された!」
商人は唾を飛ばしながらまくし立てる。 リオが苦笑いを浮かべ、宥めるように前に出た。 「まあまあ、落ち着きなって。僕たちはちゃんと交渉の準備をしてるからさ。エルフの友達も――」
その瞬間、商人の目がリオの顔に釘付けになった。 正確には、リオが風で乱れた髪を直そうとした際、一瞬だけ露わになったその耳に。 先端がわずかに尖った、人間ならざる形状。
「……ッ!」 商人の顔から、恐怖が消え、露骨な嫌悪の色が浮かんだ。 「なんだ、お前……『混ざりもの(ハーフ)』か」
その言葉は、鋭利な刃物のように場の空気を切り裂いた。 リオの動きがピタリと止まる。
「人間かと思えば、汚らわしい。……エルフにも人間にもなれない半端者が、森に入って何になる? 同族なら歓迎されるとでも思ったか? 笑わせるな」 商人は地面に唾を吐き捨てると、再び馬に鞭を入れた。 「精々、同族の矢で殺されるがいいさ!」
馬車は土煙を上げて去っていった。 残されたのは、重苦しい沈黙だけ。
リオは後ろを向いたまま、動かない。 カイが声をかけようとしたその時、リオがくるりと振り返った。その顔には、いつもの人を食ったような満面の笑みが張り付いていた。 「いやぁ、手厳しいねぇ! これだから田舎の商人は困るよ。ハーフエルフの魅力が分からないなんて、人生損してるっての!」
軽快な口調。大げさなジェスチャー。 だが、カイは見逃さなかった。 リオの琥珀色の瞳が、笑みの形とは裏腹に、氷のように冷たく凍りついているのを。
「……慣れているのか」 カイが静かに問うと、リオの笑顔が一瞬だけ強張った。
「ま、ね。どっちに行っても言われることさ。人間からは『耳長』、エルフからは『汚れた血』。……慣れっこだよ」 リオは肩をすくめ、わざとらしく明るい声を出した。 「さあ行こうぜ、カイ! たかが悪口で引き返してたら、冒険者なんてやってられないだろ?」
先を歩くリオの背中は、いつもより少し小さく見えた。 カイは何も言わず、ただその背中を追った。慰めの言葉など、この男には逆効果だと知っているからだ。
* * *
さらに一時間ほど歩くと、世界が一変した。 そこは、物理的な境界線だった。 荒れた街道が唐突に途切れ、目の前には空を覆い尽くすほどの巨木が壁のようにそびえ立っている。樹齢数百年、あるいは数千年を超えるであろう神木群。その枝葉が織りなす天井は太陽の光を遮り、森の中は昼間だというのに薄暗い。
そして何より異様なのは、「音」がないことだった。 風の音も、虫の羽音も、鳥のさえずりもない。ただ圧倒的な静寂と、肌を刺すような重圧だけが満ちている。
「……ここが、『永遠の森』の入り口か」 リオが立ち止まり、ゴクリと喉を鳴らした。 先ほどまでの空元気は消え失せ、その表情には隠しきれない緊張が滲んでいる。
「結界が張られているな」 カイが森との境界線に手をかざす。 目には見えないが、そこには濃密な魔力の壁が存在していた。不用意に踏み込めば、侵入者を感知し、森中の精霊や守護者に位置を知らせる警報装置のようなものだ。
「ああ、ビンビン感じるよ。……歓迎されてないってのが、肌で分かる」 リオが自身の胸元を押さえた。 彼が懐に入れている「古代の破片」。それが森の魔力に共鳴しているのか、服の上からでも分かるほど微かに発光し、熱を帯び始めている。
「どうする? このまま入れば、すぐに囲まれるぞ」 カイが警告する。
「行くしかないだろ。ここで待ってても、向こうから招待状を持ってきてくれるわけじゃないしな」 リオは深呼吸を一つすると、震える指先で結界に触れようとした。
「それに、僕には半分だけエルフの血が流れてる。もしかしたら、少しは大目に見てくれるかも――」
ヒュンッ!
言葉は、風切り音によって遮られた。 リオの鼻先数センチ。 地面に一本の矢が突き立った。 矢羽がまだ震えている。石畳をも砕くほどの強烈な一撃。もしあと一歩踏み出していれば、リオの眉間を貫いていただろう。
「……冗談だろ」 リオが顔を引きつらせて固まる。
「下がるな、リオ!」 カイが叫び、リオの前に躍り出て盾となる。 森の奥、薄暗い枝の上から、冷徹な殺気が降り注いでいた。
「これ以上進むな。人間」 鈴を転がすような、しかし氷点下の冷たさを持った声が響く。 「ここはエルミラ王国の領域だ。許可なく入る者は、誰であれ排除する」
声の主が、音もなく枝から舞い降りた。 月光を織り込んだような銀色の長髪。深い森の色を映したエメラルドの瞳。 その手に美しい曲線を描く長弓を携えたエルフの女戦士が、二人を冷たく見下ろしていた。
承知いたしました。 エピソード3の完結編となる**【パート2:銀閃の拒絶と、招かれざる客】**を執筆いたします。
ここでは、リオが抱える「どこにも居場所がない」という孤独の核心に触れる重要なシーンを描きます。エルフの守護者ルナリアの冷徹な言葉と、それに対するカイの行動にご注目ください。
エピソード3:エルミラ王国への道中記
【パート2:銀閃の拒絶と、招かれざる客】
銀髪のエルフ、ルナリア・フェイヴァルは、弓をつがえたまま、氷のような視線を二人に浴びせていた。 その立ち姿には、一片の隙もない。ただ立っているだけで、周囲の空気が張り詰め、肌が粟立つような威圧感を放っている。
「おっと、待ってくれよ。排除なんて物騒な話をする前に聞いてほしい!」 リオは頬を引きつらせながらも、両手を挙げて笑顔を作った。 「僕たちは敵じゃない。ただ、エルミラ王国の助けが必要で――」
「黙れ」 ルナリアの唇から紡がれた言葉は、短く、そして鋭かった。 彼女のエメラルドの瞳が、カイを通り越し、背後にいるリオを射抜く。その瞳に宿っているのは、敵意ですらなかった。 それは、汚物を見るような――あるいは、見てはならない禁忌を目撃したかのような、生理的な嫌悪だった。
「人間が欲に駆られて森へ迷い込むことはある。だが……お前のような『混ざりもの(ハーフ)』が足を踏み入れることは、森への冒涜だ」
リオの笑顔が凍りついた。 街道での商人の罵倒とは、重みが違う。彼が心のどこかで「母の故郷」として憧れ、受け入れられることを夢見ていた同族からの、完全なる拒絶。
「汚れた血よ。お前の中に流れるエルフの血が、私には腐臭のように感じられる。……去れ。二度とこの神聖な土を踏むな」
リオが口を開きかけたが、声が出ない。喉の奥で言葉が詰まり、いつもなら軽快に出てくる冗談も、反論も、すべてが凍りついていた。 彼がどれほど明るく振る舞おうとも、この瞬間のために積み上げてきた心の防壁は、あまりにも脆く崩れ去った。
ルナリアが再び弓を引き絞る。 弦が軋む音が、死の宣告のように響く。
「待て」 静寂を破ったのは、カイだった。 彼はリオを背に庇ったまま、一歩も引かずに前に出た。剣は抜かない。抜けばそれが「開戦」の合図になると分かっているからだ。 だが、その灰色の瞳は、ルナリアの威圧に正面から対抗していた。
「口数が多いな、エルフ。見た目で判断するほど愚かではないと言ったのは、どこの誰だ?」
ルナリアの眉がピクリと動く。 「人間風情が……私に説教をするつもりか? 命が惜しくないようだな」
「命は惜しい。だからこそ、無駄な争いは避ける」 カイはゆっくりと、敵意がないことを示すように両手を見せながら、懐へと手を入れた。 「俺たちは、お前たちの嫌いな人間や半端者かもしれない。だが、この森にとって無視できない情報を持っている」
カイが取り出したのは、湿原で見つけた黒い石片だった。 薄暗い森の中で、その石片は呼吸をするように青白い光を明滅させている。
「これを見ても、俺たちを追い返すか?」
ルナリアの視線が石片に注がれた瞬間、彼女の無表情な仮面が崩れた。 目を見開き、息を呑む。弓を持つ手がわずかに震えた。 「それは……まさか……」 彼女は警戒を解かずに、しかし吸い寄せられるように一歩近づいた。 「その紋様、そしてその禍々しいまでの魔力……『封印の楔』の一部か?」
「湿原で壊滅した商隊が持っていたものだ。これを狙って、災害指定級の魔物が暴れていた」 カイは石片を掲げたまま、冷静に告げる。 「この破片が何なのか。なぜ湿原にあったのか。そして、誰が封印を解こうとしているのか。……それを知るために、俺たちはここへ来た」
ルナリアは唇を噛み締め、葛藤するように視線を巡らせた。 人間とハーフエルフ。本来なら即刻排除すべき対象だ。だが、彼らが持ち込んだ情報は、森の存亡に関わる重大事だった。もし封印が人為的に破壊されつつあるなら、一刻の猶予もない。
長い沈黙の後、ルナリアはふぅっと息を吐き出し、弓を下ろした。 だが、その瞳から鋭さは消えていない。
「……分かった。一度、長老のもとへ案内する」 彼女は冷たく言い放ち、背を向けた。 「だが勘違いするな。お前たちは客ではない。監視対象だ。もし妙な真似をすれば――」 彼女は肩越しに鋭い視線を送った。 「その瞬間に、心臓を射抜く」
「肝に銘じておこう」 カイは短く答え、後ろのリオを振り返った。
リオはまだ、呆然とした顔で立ち尽くしていた。 カイは無言で彼に近づき、その肩を強めに叩いた。 「……行くぞ、リオ。仕事だ」
その衝撃で、リオはようやく我に返ったようだった。 彼は瞬きをし、無理やりに口角を持ち上げた。 「あ、ああ……そうだな。仕事、仕事」 その声は乾いていた。いつもの覇気はない。
二人はルナリアの後ろにつき、結界の中へと足を踏み入れた。 肌を刺すような魔力の膜を通り抜けると、そこは別世界だった。 巨木が立ち並ぶ森の内部は、外よりもさらに静かで、神聖な空気に満ちている。足元には見たこともない発光する苔が群生し、木々の間を小さな精霊たちが飛び交っていた。
息を呑むほど美しい光景。だが、リオは俯いたまま、ただ機械的に足を動かしていた。
「……ありがとな、カイ」 ふと、蚊の鳴くような声が聞こえた。
「何がだ?」 カイは前を向いたまま問う。
「庇ってくれてさ。……正直、足がすくんで動けなかった」 リオは自嘲気味に笑った。 「情けねえな。口では偉そうなこと言ってても、いざとなるとこれだ。やっぱり僕は、どこまでいっても半端者なんだろうな」
カイは少しの間沈黙し、それから淡々と言った。 「半端者かどうかは知らないが、湿原でお前の罠が俺を救ったのは事実だ。……胸を張れ。お前はここまで自分の足で歩いてきたんだろう」
リオは驚いたように顔を上げ、カイの横顔を見つめた。 カイは相変わらず無愛想な表情だったが、その言葉はどんな慰めよりもリオの胸に響いた。
「……へへっ。相変わーズ、格好つけやがって」 リオは鼻をすすり、今度は少しだけ力強く地面を踏みしめた。 「ああ、そうだな。ここまで来たんだ。タダで帰るつもりはないぜ」
前を行くルナリアは、二人の会話が聞こえているはずだが、一度も振り返ることはなかった。 一行は深い森の奥、エルフたちの隠れ里へと進んでいく。 そこで待つ真実が、世界の命運を左右することになるとは、まだ誰も知らなかった。




