冒険者ギルド「サザンライオン」にて
カルミアンの空が茜色に染まり、港からの海風が夜の気配を運び始めた頃。 冒険者ギルド「サザンライオン」の重厚な扉が、軋んだ音を立ててゆっくりと開かれた。
その瞬間、酒場の喧騒が一瞬だけ途切れた。 入ってきた二人の姿があまりにも異様だったからだ。全身が泥と乾いた血にまみれ、まるで沼の底から這い上がってきた亡霊のようにも見える。腐敗臭と、焦げた火薬の匂いが鼻をつく。 だが、彼らが引きずっていた「それ」を見た瞬間、静寂はどよめきへと変わった。
「おい、あれを見ろ……!」 「ベノム・ベヒモスの牙か!? あんなデカいもん、見たことねぇぞ!」
カイとリオが持ち帰ったのは、災害指定級魔物の長大な牙と、鋼鉄のように硬い背中の皮の一部だった。 それをカウンターへドサリと投げ出すと、リオは酸欠の魚のように大きく息を吐き出し、カウンターに突っ伏した。
「……死ぬかと思った。いや、半分死んでたな」 リオの声は掠れている。いつもの軽薄さは鳴りを潜め、ただ疲労だけが滲んでいた。
受付嬢が悲鳴に近い声を上げ、慌てて奥へと走っていく。 その背中を見送りながら、カイは静かに周囲を見渡した。突き刺さる視線。そこには驚愕、称賛、そして露骨な嫉妬が入り混じっている。 (……見世物じゃないんだがな) カイは小さくため息をついた。
しばらくすると、リオが顔を上げ、周囲の注目を浴びていることに気づいた。 「へへっ……見ろよカイ。みんな俺たちを見てるぜ。これが英雄の凱旋ってやつか?」 リオはにやりと笑い、近くの席にいた冒険者に親指を立てて見せた。 「おいそこのおっさん! 俺たちが湿原の主を狩ってきたんだ! 一杯奢ってくれてもいいんだぜ?」
調子のいい言葉を吐いているが、カイは見逃さなかった。 カウンターの縁を掴むリオの指先が、小刻みに震えているのを。死線を越えた恐怖の余韻は、そう簡単に消えるものではない。それを悟られまいと、必死に虚勢を張っているのだ。 カイは何も言わず、ただ無言でリオの背中を軽く叩いた。
その時、受付嬢が戻ってきた。顔を紅潮させ、震える声で告げる。 「ギルドマスターがお呼びです。……執務室へどうぞ」
* * *
ギルドの二階、最奥にある執務室。 部屋の中は、階下の喧騒とは隔絶された静謐な空間だった。壁には大陸全土の地図が貼られ、棚には高価な魔導書や骨董品が並んでいる。部屋全体に漂うのは、高級な葉巻の甘い香りと、古びた紙の匂い。 その中央、マホガニー製の巨大な執務机の向こうに、ギルド長ガレス・ローディンは座っていた。
「……お帰り。若いの」 ガレスは書類から目を離し、二人を見上げた。その瞳は灰色の猛禽類を思わせる。 「無事で何よりだ。正直なところ、五体満足で帰ってくるとは思っていなかったがね」
「期待を裏切ってすみませんね」 リオが皮肉っぽく言いながら、近くのソファに倒れ込むように座った。 「あんな化け物がいるなんて聞いてないぞ、マスター。詐欺で訴えたい気分だ」
「情報は鮮度が命だ。湿原の状況は刻一刻と変わる」 ガレスは悪びれもせず肩をすくめ、カイに向き直った。 「カイ、報告を聞こうか」
カイは直立したまま、淡々と事実を述べた。 「商隊は全滅。生存者の痕跡なし。馬車と荷物は破壊され、金品は手付かずのまま残されていた。襲撃者は災害指定級『ベノム・ベヒモス』。……俺たちで討伐しました」
「災害指定級を二人で、か」 ガレスは感心したように髭を撫でた。 「大したものだ。ヴァリスタの正規軍でも被害が出る相手だぞ。……で? それだけか?」
ガレスの目が細められた。試すような視線。 カイは一瞬ためらったが、リオが懐から「それ」を取り出し、テーブルの上に放った。 「これが見つかった。商隊が運んでた『何か』の欠片だ」
カタリ、と乾いた音が響く。 湿原で見つけた、魔法文字が刻まれた黒い石片。 ガレスはそれを手に取ると、表情を一変させた。先ほどまでの余裕のある笑みが消え、鋭い眼光が石片を射抜く。 「……ほう」 ガレスは指先で文字をなぞり、小さく唸った。 「古代エルフ語か。しかも、この魔力の波長……封印具の一部だな」
「封印具?」 カイが眉をひそめる。
「ああ。それもかなり強力なやつだ。……なるほど、商隊が襲われた理由はこれか」 ガレスは石片を机に置き、組んだ手の上に顎を乗せた。 「これを運んでいた商隊は、ただの商人じゃない。どこかの国の息がかかった運び屋だ。そして、それを奪おうとしたか、あるいは破壊しようとした勢力がベヒモスをけしかけた」
「けしかけた? あんな化け物をか?」 リオが身を乗り出す。
「ベヒモスは縄張り意識が強いが、特定の匂いや音波で誘導することは不可能ではない。……だが、今は『誰がやったか』よりも、『これが何なのか』が問題だ」 ガレスは二人をじっと見据えた。その瞳には、ギルドマスターではなく、策謀家の色が浮かんでいた。 「お前たちにその答えを教える義理はない。だが……知りたいか?」
「もったいぶるなよ。ここまで首を突っ込んだんだ」 リオが苛立ちを隠さずに言う。
「よかろう」 ガレスは机の引き出しから一枚の羊皮紙を取り出し、二人の前に広げた。 「追加の依頼だ。この破片を持って、エルミラ王国へ行け」
「エルミラ王国……エルフの森か」 カイが地図上の森を睨む。 「人間が立ち入るには厳しい制限がある場所だ。それに、この破片を持ち込めば、俺たちが犯人扱いされる可能性もある」
「その通りだ。だからこそ、正規の外交ルートでは動けない」 ガレスはニヤリと笑った。 「国が動けば戦争になる。だが、どこの組織にも属さない『冒険者』なら、何かあっても『勝手にやったこと』で切り捨てられる。……お前たちは、実に使い勝手のいい駒なんだよ」
あまりに露骨な物言いに、室内の空気が凍りついた。 カイは拳を握りしめ、ガレスを睨みつける。 「俺たちを捨て駒にするつもりか」
「言葉が悪いな。私は『チャンス』を与えているんだ」 ガレスは両手を広げた。 「この破片は、世界の均衡を揺るがす火種になり得る。その正体を解き明かせば、ギルドとしても、お前たち個人としても莫大な利益になる。……どうだ? 湿原で拾った命、もう少し高く売ってみないか?」
カイとリオは顔を見合わせた。 危険すぎる賭けだ。だが、二人の中にある「冒険者」としての本能が、この先に待つ何かを求めて疼いていた。
「……条件がある」 沈黙を破ったのはカイだった。 「エルフの領内での安全を保証する通行証、それと十分な旅の物資を用意しろ。それから……」
「報酬の増額! あと、ギルドランクの昇格だ!」 リオが横から割り込んだ。 「俺たちは災害指定級を倒したんだ。ランクCのままじゃ割に合わない。一気にA……いや、せめてBランクへの昇格を認めろ!」
ガレスは二人の要求を聞き、喉の奥でクックッと笑った。 「強欲な若造どもだ。……いいだろう。通行証は私のコネで手配する。ランクもBへの昇格手続きを進めよう。その代わり、必ず成果を持ち帰れ」
ガレスが右手を差し出す。 カイは一瞬躊躇したが、その手を強く握り返した。 その手は分厚く、老いてもなお、万力のような力強さを持っていた。
「交渉成立だ。……毒を食らわば皿まで、というやつだな」
ガレスとの会談を終え、一階の酒場に戻った二人は、喧騒から少し離れた壁際の席を確保していた。 テーブルには、湯気を立てる羊肉のシチューと硬いパン、そしてエールのジョッキが置かれている。周囲では他の冒険者たちが、湿原の主を倒した「英雄」たちの噂話で盛り上がっていたが、当の本人たちの間には重苦しい沈黙が漂っていた。
「……食わないのか?」 カイがスプーンを動かしながら、向かいのリオに声をかけた。 リオは頬杖をつき、ジョッキの泡を指でつついている。 「食欲がないんだよ。あんなタヌキ親父と腹の探り合いをした後じゃな。『捨て駒』か……言い得て妙だけど、面と向かって言われると腹が立つね」
「事実だ。俺たちは組織に守られていない。死ねば代わりが補充されるだけだ」 カイは淡々と答え、パンをシチューに浸して口に運んだ。味気ないが、腹を満たすという目的においては合理的だ。元傭兵としての習慣が、彼に食事を義務として摂取させている。
リオはため息をつき、ようやくジョッキを煽った。 「お前さ、怖くないのか? 利用されるのも、死ぬのも」
「怖いとか怖くないという問題じゃない」 カイは手を止め、リオを見た。 「俺は戦場しか知らない。平和な街でパン屋を営む未来も、家族を持って老いていく未来も想像できないんだ。……だから、冒険者として死に場所を探しているのかもしれない」
それは、カイが初めて漏らした本音だった。 過去の戦場で多くの部下を失い、自分だけが生き残ってしまった罪悪感。それが彼を危険な依頼へと駆り立てている。
リオは意外そうに目を丸くし、それからふっと柔らかい笑みを浮かべた。 「なるほどなぁ。相棒は哲学者かと思ったら、ただの死にたがりだったわけか」 リオは悪戯っぽく笑ったが、その瞳の奥には共感の色があった。 「俺も似たようなもんだよ。金、金って言ってるけどさ、別に豪遊したいわけじゃない」
「じゃあ何のために稼ぐ?」
「……『場所』を買うためさ」 リオは空になったジョッキをテーブルに置いた。 「俺はハーフエルフだ。人間からもエルフからも爪弾きにされてきた。金があれば、誰も俺を追い出さない、俺だけの居場所が作れる気がしてな。……ま、ただの夢物語だけど」
カイは黙って聞いていた。 行き場のない元兵士と、居場所のない混血児。 背負っているものは違うが、抱えている「空虚な穴」の形は似ているのかもしれない。 「……悪くない夢だ」 カイが短く言うと、リオは照れ隠しのように鼻をこすった。
その時だった。 カイの首筋に、冷たい針で刺されたような感覚が走った。 (……視線?) カイはスプーンを置く動作に紛れて、自然に店内を見回した。 酔っ払い、賭け事に興じる男たち、給仕に絡む客。いつもの風景だ。だが、入り口近くの影に、目深にフードを被った小柄な人影が一瞬だけ見えた気がした。 その影は、カイが視線を向けた瞬間に、音もなく店の外へと消えていった。
「どうした?」 リオが怪訝そうに尋ねる。
「……いや、何でもない」 カイは警戒心を解かずに答えた。 気のせいではない。あの視線には、明確な「観察」の意志があった。 (ガレスの手の者か? いや、それなら隠れる必要はない。……他国の密偵か、あるいは商隊を襲わせた黒幕の関係者か) どちらにせよ、自分たちはすでに「舞台」に上げられているのだ。
「リオ、明日は早朝に出るぞ。準備を怠るな」 「へいへい、分かってるって」
二人は残りの酒を飲み干し、それぞれの夜へと戻っていった。
* * *
翌朝。 カルミアンの空はまだ薄暗く、朝霧が石畳を濡らしていた。 北東の城門前に現れたリオは、昨日とは打って変わって上機嫌だった。
「見てくれよカイ! ガレスから巻き上げた前金で新調したんだ!」 リオが自慢げに見せびらかしたのは、最高級の革で作られたブーツと、魔法耐性が付与された灰色のマントだった。 「このブーツ、音が出にくい特別製でね。それにこのマント、ちょっとした火の粉なら弾くんだぜ。これでもう泥だらけの湿原も怖くない!」
「……目立つな」 カイは呆れ顔で一瞥した。彼自身の装備は、昨日までと変わらない。手入れされた長剣と、使い込まれた革鎧。ただ、腰のポーチには携帯食料と解毒薬、そして砥石が補充されている。
「相変わらず愛想がないねぇ。装備は冒険者のロマンだろ?」 リオが口を尖らせていると、城門の守衛所から一人の男が歩み寄ってきた。 ギルド長ガレスだ。早朝の見送りにしては、仰々しい。
「精が出るな、二人とも」 ガレスは眠そうな様子も見せず、二人に封蝋のされた書状を手渡した。 「約束の品だ。カルミアン自由都市連合発行の『特別通行証』。これがあれば、少なくともエルフの森の入り口で即座に射殺されることはないだろう。……中に入ってからは、お前たちの交渉術次第だがな」
「へぇ、感謝感激だね。これで即死は免れるってわけか」 リオが皮肉っぽく書状を受け取る。
「それともう一つ」 ガレスは声を潜め、二人に近づいた。 「昨夜、街に奇妙なネズミが入り込んでいるという報告があった。ヴァリスタ帝国の密偵か、あるいはもっと得体の知れない組織か……。お前たちの動きを嗅ぎ回っているようだ」
カイは昨夜の視線を思い出した。 「……心当たりがあります。昨夜の酒場で」
「勘がいいな。とにかく、背後には気をつけろ。エルフだけでなく、人間も敵になるかもしれん」 ガレスはニヤリと笑い、カイの肩を叩いた。 「死ぬなよ。お前たちが死ぬと、私が投資した分が損になる」
「商売熱心なことで」 カイはフンと鼻を鳴らし、書状を懐にしまった。
城門が開かれる。 その先には、広大な平原と、遥か遠くに霞む「永遠の森」の影が見えた。 二人はガレスに背を向け、歩き出した。
「さて、行こうか相棒。エルフの美女が待ってるぜ!」 リオが軽快な足取りで先を行く。 カイはその背中を見ながら、ふと口元を緩めた。 一人ではない旅。それは、カイが長く忘れていた感覚だった。
「遅れるなよ、リオ」 「誰に言ってるんだ! 置いてくぞ!」
朝日が二人の影を長く伸ばす。 湿原の死闘を経て結ばれた奇妙な絆は、新たな陰謀の渦中へと、その一歩を踏み出した。
ギルド長:ガレス・ローディンの紹介
基本情報
名前: ガレス・ローディン
年齢: 58歳
身長/体格: 175cm / 恰幅のいい体型
出身: カルミアン自由都市連合
職業: 冒険者ギルド「サザンライオン」長
性格: 洞察力が鋭く、狡猾で計算高い。だが、根底には冒険者たちへの敬意と、大陸の平和を守るための強い責任感を持つ。冷徹な判断力を見せることもあるが、必要以上に情を切り捨てることはしない。
信念: 「駒がどう動くかは指揮者次第だ。だが、駒も盤の一部として価値を見出せば強くなる。」
一人称: 「私」
口調: 柔らかいが核心をつく物言いを好む。場を支配するような声色と話術を持つ。
外見
優雅に整えられた白髪と髭が特徴的。オールバックに整えられた髪と、鋭い灰色の瞳が年齢以上の威厳を放つ。顔立ちは整っており、かつては「紳士的な冒険者」と呼ばれたほどの美貌だったが、今は年齢を重ねた重厚さが勝っている。
高級な装飾が施されたローブを身に纏い、革靴は常に磨き上げられている。だが、その姿勢は決して威圧的ではなく、「貫禄」と「包容力」のバランスが絶妙。




