あなたが落としたのはどの斧?
春日井わこはうんざりしていた。
家が近所で幼馴染の斧鋸まちとは付き合いが長く、小学生の頃から中学二年になる今に至るまで常に一緒だった。
「わこちゃーん」
屈託ない笑顔でカモのひなのように後をついて回り、同級生でありながら妹のような存在。ちょこちょこと忙しない様子は可愛らしく、自分を慕ってきてくれることは素直に嬉しく思い、彼女と一緒にいることが楽しかったこともあった。
だが、中学に上がった頃から意識が変わった。
わこ以外に友達のいない彼女はどんな時も近くにいた。運動センスのあるわこは部活に入っていないものの、いろいろな部活から助っ人に誘われ、交友関係が広く友達が多い。わこが輪の中心にいる時、まちはその周りをぐるぐると回って待っている。まるで獲物がくたばるのを待つハイエナのようだといつも思っていた。
「わこちゃーん!」
また、小学校に比べて高度になった勉強に頭がついていかず、テストの度に泣きついて縋りついてくる。自分の勉強になるからいいかな、と軽い気持ちで付き合うことにすると、ノートを開けば出てくるのは板書の写しではなく、溢れる意欲からひねり出した物語の設定資料集を書き殴ったものだった。それを見てとりあえず殴っておいた。
テスト範囲のどこを理解していないか洗い出してみれば案の定、何もわかっていない。空っぽの頭からせめて赤点は回避しようとテストまでの数日間を彼女のために費やし、時に睡眠時間を削り、ボロボロになるまで勉強に付き合った。
その甲斐あってまちは赤点を超えることができた。しかし、まちのレベルに合わせた勉強しかできず、当日のコンディションも最悪だったわこは散々な結果だった。
まちの残念さを記すのに枚挙に暇がない。
斧鋸まちという名は体育の時間において忌み名として恐れられる。彼女が入ったチームは種目を問わず必ず敗北を喫し、個人種目だろうと同行者や記録者に何らかの害を被ることになり、運動神経とは何かを考えさせる。
ただ、本人に悪気はなく、懸命なパフォーマンスの結果だということは皆が知るところであり、誰も文句をつけることができない。同じクラスのわこは居たたまれなくなって彼女のフォローに回ることが多く、体育の授業では常人の二倍疲れていた。
ちゃんとしろよと言いたくても、まちはまちなりに精いっぱいやっていることは理解している。
そんなひたむきさが嫌いではない。
彼女のことを嫌ってはいない。
だが、うんざりしていた。
ただただ、うんざりだった。
そんなわこに光明が差したのは、クラスメイトの握須との雑談からだった。
「この前、学校の裏山の池に斧を落としちゃったらさ、女神がでてきたのよ。落としたのは金の斧ですか、銀の斧ですか、なんて聞いてくるものだから普通のですって答えたの。そうしたら金と銀と普通の斧全部くれたのよ。ただの鉄の斧がバージョンアップしちゃった」
なぜ斧なんか持って山に行ったのか気にならないわけではなかったが、わこの興味は別のところにあった。
思い立ったが吉日、放課後になると周りを人工衛星めいて回っているまちの襟首を掴み、さっそく裏山に向かった。
「裏山にくるなんて久しぶりだねぇ。わこちゃんがかくれんぼで迷子になった時以来かな?」
「あれはあんたがかくれんぼ中に行方不明になったから、必死こいて探し回ってたら道がわからなくなったんだろ……ってそんなことはどうでもいい。まち、ちょっとそこに立ってて」
「やあ、懐かしい池だ。わこちゃんがコイを獲りたいって言ってダイブしたことを思い出す」
「あれはお前が池に落ちたから助けに入ったんだろ!」
高い打点のドロップキック。ローファーがまちの背中をとらえ、放物線を描いて飛んでいく。ドボンと池に落ちた。
ひざくらいの水深しかないはずなのにぶくぶくと沈んでいく。サムズアップした手も水の中に消えていくと、元の静かな池になった。
すると、水面が激しく波紋を生み、眩い光とともに女が浮かび上がってきた。
「あなたが落としたのは金の斧鋸まちですか? 銀の斧鋸まちですか? それとも普通の斧鋸まちですか?」
女は神々しくコテコテな女神のイメージそのままの服に身を包み、水中から現れたにも関わらずそれがまったく濡れていない。水面からやや離れて浮かび、吊り下げられてもいない。
向かって右の手には髪が金色のまちを、左は銀髪のまちを抱えている。背中にはいつもと変わらないまちがしがみついていた。
異様で異質な光景。
登場から奇跡を振りまく女神を前にして、わこはガッツポーズをした。
斧を池に投げ入れればアップグレードして戻ってくる。
斧鋸まちを投げ入れれば高性能になって戻ってくると期待できる。
「あなたが落としたのは金の斧鋸まちですか? 銀の斧鋸まちですか? それとも普通の斧鋸まちですか?」
「それはもちろん……」
普通の、と答えようとして踏みとどまった。
(これ、正直に言ったら三人とも戻ってこない!?)
一人でも手に余るまちが増える。明らかにキャパシティを超えてしまう。
金と銀が元からどれくらい高性能になっているか、見た目からでは判断できないので推測するしかないが、普通のまちの分のマイナスを打ち消せる程良質だと期待するのは高望みかもしれない。
「あなたが落としたのは金のまちですか、銀のまちですか、普通のまちですか。さっさと答えなさい」
なおも選択を迫ってくる。しかも催促しだした。
「ち、ちょっと待って。正直に答えたら三人とも帰ってくるの?」
女神は少し悩むように顎に手を当てる。
「本来なら教えることなんてできませんが、どうせ今はもう誰でも知ってますからね。ネタバレしてもいいでしょう。お察しの通り、正直者には全部差し上げる決まりとなってます。この場合、三人ともになりますね」
「それは困るっていうか……。一人で十分なんですけど」
「一人で十分? そんな正直なあなたには」
「待って待って! そうじゃない! まだ回答権使ってない!」
「えー。早くしてくださいよ。水辺って寒いんですから」
生臭な女神だった。
ここでわこが取れる選択は二つある。正直に答えるか否か。
正直に普通のと答えると、三人のまちが戻ってくる。金あるいは銀と答えると全てのまちが没収される。無回答も恐らく同じ結果になるだろう。
「そんなに悩むならお試ししてみたらどうですか?」
女神が言った。両腕がぷるぷる震えている。筋力の限界が近いらしい。
「一人ずつレンタルして、どんな性能か試してみてください。後日改めて答えを聞きますので」
少し考え、悪くない提案だと思った。
「じゃあそれで」
女神は顔をほころばせた。乳酸が溜まって腕の痛みと戦う女神を前に、これ以上の長考は誰にもできない。
「さあ、学校に着いたよ、わこちゃん」
「……」
翌日、まち(金)と共に登校して教室に入り、恥ずかしさのあまり顔を上げられなかった。
まち(金)は普通のまちと比べて力が強い特徴があった。握力は二倍(中学生女子平均と同等)、走力も二倍(中学生女子平均に届かず)と、フィジカルに関して普通のまちを上回っていた。
といっても常識を超える程のものではないので、調子に乗ってわこをお姫様だっこしながら登校すれば何度も取り落すし息も上がる。優雅さはかけらもなく、むしろ罰ゲームのようだった。周りの視線が刺さる。
「ど、どう? 強いでしょ」
疲れを微塵も隠せず、それでもあきらめないで家から学校までの二十分の行程を完遂した。
「今日はあたしがわこちゃんの手足となるからね!」
宣言通り、まち(金)は付き人のように付きまとった。主に力仕事を張り切ってこなした。
先生にプリントの配布を頼まれれば、
「あたしのスピードに任せて!」
「いや手分けした方が早いだろ」
給食の配膳でも、
「あたしの速さは給食を冷めさせない!」
「今日は冷やし中華だよ」
クラスメイトも普段と違うようであまり変わってない不審な様子に、戸惑いを隠せないでいた。
「春日井さん、斧鋸さんどうしたの?」
席が近くの友人、握須が訊ねてきたが返答に困った。
「なんか……黄金期なんだよ」
適当にごまかした。
放課後になり、再び山の池に向かった。
女神とまち(銀)とまち(普通)がたき火を囲んでいた。
「何してんの?」
「この子らをそのままおうちに帰すといろいろとまずいでしょう。しかたないからここで野宿していたのです」
コイがいい具合に焼けていた。
「女神さま、魚釣りがうまいんだよ。魚を見つけて指をくいってやると空中に浮かび上がるの」
「それ、釣りって言える?」
「神の界隈では魚を吊り上げる魚吊りがスマートなホビーとして定着しているのですよ」
今日はまち(金)がここで待機し、まち(銀)を連れて帰って明日を過ごす。
「あたしは普通より頭がいいんだよ。わこちゃんの宿題、代わりにやったげる」
ドヤ顔でそう言うと、わこの鞄からプリントを取り出して自分の鞄に入れた。
別に困るような宿題ではなかったが、まち(銀)の頭の出来を探るチャンスと思い、任せてみることにした。
「ゴメン。持ってくるの忘れた」
翌朝の学校での発言だった。
「いや、ちゃんとやったんだよ? 珍しく間違いもなかったし。ただ鞄に入れるのを忘れたってだけで」
「お前ェぇぇー!」
胸倉に掴みかかるが何も変わらない。結局二人とも宿題を提出できなかった。
ただ、まち(銀)の頭脳が強化されたのは真実だったようで、授業中は積極的に挙手する姿が見られた。
「法然が説いたのは浄土宗。ではその弟子の親鸞が説いたのはなんていう宗派だったでしょう? 先週やったところだから憶えてるかな?」
「はい! 真・浄土宗です!」
「続編っぽいですね」
正解率は四割程度と良い結果といえるか怪しいところだが、まちを基準に考えると大きな変化と言えなくもなかった。
以前やった小テストが返却されると、悔しそうな顔で言う。
「今ならわかるんだけどなー。十八点じゃなくて百点取れるんだけどなー。というわけで実質百点満点だよね?」
「んなわけあるか」
頭が良くなったといっても効果は目に見えにくい。大きな試験があればわかりそうなものだが、次の試験まで一か月以上ある。それまでこのままというわけにはいかない。
近くの席の握須が再び訊ねてきた。
「ねえ春日井さん。やっぱり斧鋸さんの様子がおかしいわよ。どうしたの?」
どう答えたものか。迷った末に答えた。
「なんか、銀……銀幕デビューが決まったらしいよ」
適当すぎるごまかしだった。
学校が終わると、三度目となる裏山への道を歩く。
小学校の低学年の頃はまちとともに遊びに訪れたものだったが、ここ数年はご無沙汰だった。中学生になってこうも頻繁に短期間に足を運ぶことになろうとは思いもしなかった。
「こうやって昔はよく遊んだね」
まち(銀)は昔を懐かしむようにしみじみと言った。
増えたまちも過去の記憶を共有しているようで、本人と遜色ない。
「ねえ、金とか銀とかのまちってどういう存在なの? 分身かなにか?」
生物学的に分裂したクローン。
平衡世界から呼び出されたSF的存在。
理想のイメージが具現化した想像の産物。
わこなりに目の前の彼女を理解しようとしたが、そもそも女神の存在が全てを台無しにするので、深く考えるのをやめた。
「そんなのわかんないよ。わこちゃんはわかるの? 自分のこと」
「そりゃあ、私は春日井わこで中学生で……」
「そう思い込まされている別人の可能性は? 見ている世界の全てがフェイクで穂運等は水槽の中に脳だけが浮かんでいるのかもしれないよ? 実は世界は五分前に誕生したばかりではなく、記憶も全部造られたものではない証拠は?」
「え、ええ……?」
反論しようとしても、自分でも納得できる答えを用意できないと気付いた。
今まで信じて疑わなかった自分という基盤を疑う。
足元が急になくなるような、世界がいかに細くもろい砂上の楼閣なのかを思い知った。
まち(銀)はにこりと笑った。
「大丈夫。わこちゃんはわこちゃんだよ。あたしもわこちゃんが知ってる斧鋸まち。銀なだけ」
知っている通りのまち。普通のまちも本当は人並みに体力があったり人並みに勉強ができたりするのだろうか。金と銀の二人はまちの持つ可能性ということなのだろうか。
だとしたら、わざわざアップグレードする意味なんてなかった。
哲学をしているうちに池に辿り着いた。
池のそばにテントが張ってあり、まち(金)とまち(普通)が水面に糸を垂らしていた。
「あれ、女神様は?」
「なんか飽きたから一旦帰るって。明日もう一回来るってさ」
「て、適当な……」
「次はあたしの番だね。さ、あたしたちも帰ろ。魚と草しか食べてないからおなか減った」
少し疲れが見えるまち(普通)がわこの手を取り、歩きを促す。
「あー……悪かったよ」
「どして謝るの?」
責めている風ではなく、ただの疑問を口にしていた。
「その……私のせいでこうなったんだし」
「別に、悪いことじゃないでしょ。楽しいし!」
眩しい笑顔を直視することができなかった。
翌朝、ギリギリまで寝ていたまち(普通)を部屋に上がってまでたたき起こし、教室で宿題を手伝い、まち(普通)のフォローに駆けずり回った。
「いつもと変わんねーじゃねーか!」
帰りのホームルームが終わり、放課後になった。
「最近物騒だから寄り道しないで帰るように」
先生の注意に教室を見回すと、空席が多かったことに気付いた。
クラスメイトが少ない一方で増えてしまった奴もいる。その問題も今日で解決しなければならない。
裏山の池にまち(金)(銀)(普通)が揃った。
女神からの問いかけにわこが正直に答えれば、三人とも戻ってくる。ウソを吐けば三人とも池の中に消えてしまう。
寓話をなぞるなら結果はこの二つ以外ありえない。
友人を一人失い、負担をゼロにするか。
友人が三人に増え、負担も倍増するか。
「わこちゃんが選ぶならあたしが言うことは何もないよ。今まであたしの方が迷惑かけてきたんだし」
まち(普通)が言うと、二人も頷く。
わこは大きく深呼吸した。土の匂いと水の匂いが鼻をくすぐった。
「……よし、覚悟決めた。私も後悔しない。……女神さまは?」
「まだ来てないね」
「あの人は……」
最初に感じた神々しさは地に落ちた。池に落としたいと思った
「これはどういうこと!?」
と、四人二者のどれでもない声が上がった。
振り返ると、そこにいたのは見知った顔だった。
「握須さん!?」
クラスメイトの握須は大股で近づいてくる。両手に金の斧、銀の斧、背中に鉄の斧を背負っていた。
「春日井さんに近づく悪い虫を駆除してたのに、一番の害虫が増えてる!」
「が、害虫?」
「春日井さんは人が良すぎるの! だから虫がたかっちゃう。部活の助っ人なんか頼んでくるのよ」
助っ人、害虫、駆除。そんなキーワードがホームルームの先生の言葉を思い出させた。
「握須さん。みんなに何をしたの?」
「駆除したって言ってるでしょ。あんなのはあなたのためにならない。あんな奴らはいらないのよ。小バエがいなくなったから大きなバカバエを駆除しようとしたらなんか三人になってるし!」
まち(銀)が口を挟んだ。
「ハエって意外と頭いいんだぞう。後ろから近づいても広い視野の複眼で見つかっちゃうし」
「いやそういうことじゃない」
一応突っ込んでおいた。
「でも問題はないわね。血がつくとなかなか斬れなくなるけど、三本もあるから一人一本ずつ使えるわ」
「この場合、対応する斧だと威力が二倍になったりするのかな?」
まち(普通)が呑気に言う。
「握須さん、どうしてこんなことを」
「全ては春日井さんのため。春日井さんとわたしの邪魔になるものは排除しないと」
「いやそんなこと望んでないから」
「いいのよ無理しないで。わたしが一番あなたを理解している。去年クラスが一緒になったあの日からずっと愛してる。何も言わなくてもわかるのよ。周りの連中に迷惑してたんだって」
話がかみ合っているようで合わない。やばい奴だと思った。
ドン引きしたわこに代わって前に出たのはまち(普通)だった。
「ちょっと待って。わこちゃんのことが好きなのはあたしだってそうだよ。そこは誰にも譲れないね」
とんでもないことを言った。
それを握須は鼻で笑った。
「はん。いつもおんぶに抱っこのあんたが何を言うか。どうせあんたの鳥頭に、世話を焼いてくれる春日井さんが親鳥だと刷り込まれただけでしょう。恥を知りなさい。あんたが増えたのだって、愚鈍さを重荷に思った春日井さんが矯正しようと池に落としたからなんじゃないの?」
わこは何も言えなかった。
まち(普通)は怯むことなく、誇るように言う。
「「「そう、落とされた。もっともっと昔、小学生の頃にはもう恋に落ちたのさ! あたしはわこちゃんにオトされてたんだよ! 年季が違うね年季が!」」」
斧鋸まちは異口同音に言った。
まちからの純粋な好意に胸が熱くなる。そして、わこはその気持ちの正体を知った。
(ああ……私も、この子が好きだから世話を焼いてたんだよな)
好きだから放っておくことができない。好きだから構いたくなる。まちが恋に落ちた時、わこもまた恋に落ちていた。
「し、小学生……。小さい頃の春日井さんを知ってる……。た、たかが幼馴染の分際で……うらやましい!」
握須は池の方を見て、はっとした顔になった。
「そうだ……春日井さんを増やせばいいんだ。二人の春日井さんはわたしがもらう。そうすれば二倍の思い出作りができるわ。同じ春日井さん好きに免じて、せめて一人は斧鋸さんにあげる。いい話でしょ?」
「はあ!?」
ナイスアイデアとばかりに膝を打ち、一人で舞い上がる。
「だから、ちょっとだけ我慢してね、春日井さん!」
狂った目で斧を振り回し、駆けてくる握須。
前に立ちはだかったのはまち(普通)だった。
「わこちゃんを増やして好きにするなんてそんなこと…………そんなことさせない!」
「ちょっと悩んだろいま」
「行くよ、あたしたち! わこちゃんを助けるんだ!」
勇気を振り絞って前に出たまち(普通)の脇からまち(金)が躍り出て、金の斧を持つ手を封じた。さらに反対側をまち(銀)が捕え、両腕を押さえた。
「ありがと、まち。どのまちも、私のためにありがとう。後は私がやるよ」
わこはまち(普通)の肩にぽんと手を置いて退かせると、金銀のまちたちが握須の体を振り、わこに向かって飛ばす。
腕をぐるぐると回し、叫んだ。
「握須さん、あんた重いんだよ!」
肘を曲げた豪快なラリアット。
またの名をアックス・ボンバー。
「ぐへえ!」
顔面に激しい衝突を受け、握須はぐるんと一回転し、どぼんと池に落ちた。
すると、水面がごぼごぼと波打ち始める。大きな水泡が弾け、中から女神がせり上がってきた。右の腕には金髪の握須が、左の腕には銀髪の握須が抱えられている。さっきのような狂気じみた目ではなく、きれいで澄んだ瞳をしている。
「がぼごぼっ」
女神の足にしがみつく手が見えた。普通の握須が水の中にいた。
「あなたが落としたのは虫も殺せない人のいい金の握須ですか? 息も殺せないにぎやかな握須ですか? それとも自分を殺せない、人を殺した握須ですか?」
間髪を入れず答える。
「人のいい金の握須さんです!」
女神はにっこりと笑った。
「ウソ吐きには何も返しません」
ぶくぶくと再び池の中へ沈んでいった。その際、
「オノれえええぇ!!」
地獄の底からの怨嗟の声が響いてきた。
水面の泡が弾け、すぐに声が聞こえなくなった。
悪の握須は消え去った。
まち(金)が手を繋いでくる。反対側をまち(銀)が取る。まち(普通)が正面から抱きついてきた。
両腕が埋まってもなお余る三人のまち。それがわずらわしいと感じない。
(ああ、この子のことが好きなんだな)
自分の気持ちを再発見した。
「そろそろ答えを聞かせてもらいましょうか」
池が輝き、姿なき女神の声が降り注ぐ。
「あなたが落としたのは金の斧鋸まちですか? 銀の斧鋸まちですか? それとも普通の斧鋸まちですか?」
答えはわかりきっている。悩むことなんてなかったのだ。
大きく息を吸い込み、告げる。
「私が落としたのは普通のまちです!」
「正直者には全て与えましょう」
まちが三人になって何の問題があるだろうか。今ならどんな障害も些細なことに感じる。
二人で四人は顔を合わせて笑い合った。
「あー、やっと終わった。じゃ、そういうことで」
最後に神々しさを根こそぎ伐採していき、水面の光は消えた。
静かになった池のほとりで、まちが口を開く。
「ね、キスしよ」
「はあ!? 何言ってんの!」
「一段落ついたらちゅーするもんでしょ? 映画とかで」
まち(普通)が上目づかいで見る。その頬がほんのり赤くなっていた。
桜色の唇に吸い込まれるように魅入る。
「ずるい! あたしだってしたい!」
「右に同じ!」
金と銀のまちがそれぞれ、普通のまちを押しのけようと暴れる。
「お、おいおい」
落ち着かせようと伸ばした手が勢い余ってとん、と押し出してしまった。
「あ」
「あ」
バランスを崩し、連鎖するように三人のまちが同時に池に落下した。
ばしゃんと高い飛沫が舞い、収まる頃には彼女らの姿はなかった。
「まさか……」
わこの背中に冷たい汗が流れる。
それを呼び水にしたように、池が荒く波立って、眩く光を放った。
ざばぁ、と水を割って人影が浮かんでくる。
「あなたが落としたのは金の斧鋸まち(金)ですか? 銀の斧鋸まち(金)ですか? 普通の斧鋸まち(金)ですか? 金の斧鋸まち(銀)ですか? 銀の斧鋸まち(銀)ですか? 普通の斧鋸まち(銀)ですか? 金の斧鋸まち(普通)ですか? 銀の斧鋸まち(普通)ですか? それとも普通の斧鋸まち(普通)ですか?」
台車に九人ものまちが積み重なって乗っていた。
この問いに正直に答えるとどうなるか、さすがに想像もしたくない。
唖然とするわこに、女神は繰り返す。
「あなたが落としたのは金の斧鋸まち(金)ですか? 銀の斧鋸まち(金)ですか? 普通の斧鋸まち(金)ですか? 金の斧鋸まち(銀)ですか? 銀の斧鋸まち(銀)ですか? 普通の斧鋸まち(銀)ですか? 金の斧鋸まち(普通)ですか? 銀の斧鋸まち(普通)ですか? それとも普通の斧鋸まち(普通)ですか? さっさと答えなさい」
「オーノー!」
驚きか後悔か、あるいは歓喜の声が木霊した。
(了)