晶魚大陸異聞 4
アルスは先に本宅を訪ねる。とりあえずの形式であるが、案の定、反応はなかった。離れに移動すると、その途中で鋼琴の音色が聞こえた。幼馴染は鋼琴が弾けるのだった。離れ家の戸を叩く。中から物音があり、まもなく少しだけ開いた。仄かな緊張が彼に起こる。
「セ、セレン……」
隙間から顔を覗かせたのは、長い金髪の少女だった。彼女は澄んだ浅瀬を思わせる色味を嵌めた目を丸くして見開いた。
「アルス!久し振り」
彼女は扉を吹き飛ばしそうな勢いですべて開く。
「ひさしぶり。えっと……リーザは?」
アルスは宙を見回して、落ち着かない様子で彼女の婚約者について訊ねるのだった。
「今日は調子が好いって。会っていく?驚くと身体に響くから……ちょっと訊いてくるわ」
セレンという同い年の幼馴染には病床に臥している婚約者がいる。彼女は部屋奥に消えたが、すぐに戻ってきた。
「ぜひ会いたいって。アルスは、時間、ある?」
「ある、ある。暇だったくらいだし」
彼女はアルスを悩ませる可憐な微笑を浮かべて中へ案内する。婚約者のリーザは寝台の上にいた。上体を起こし、アルスのほうを向いて歓迎している様子だった。腕や首には包帯が巻かれている。
「ひさしぶり、リーザ」
「ひさしぶりだね、アルス。元気にしていたかい」
「かなり。リーザは?今日は調子が好いって、さっきセレンが言っていたけれど」
セレンは台所にいた。果物の皮を剥いているらしい。
「晴れている日は調子が好いよ。それとも君が来てくれたからかな」
「またそんなことを言って」
この者は気障なことを平然といい、また嫌味がない。
「ロレンツァに居たんだっけ。どうだった?観光地に暮らすってどんな気分なんだい」
話しながらリーザは近くにある折り畳み式の椅子を勧めた。
「3日で飽きたよ。湿気がすごくって。あと洪水。観光客も結構うるさくてさ」
アルスは勧められるまま、答えながら腰を下ろした。
「じゃあ今度案内してもらおうかな。療養ついでに、行くよ」
「どちらかっていうと、テュンバロのほうに詳しくなっちゃったかな」
世間話に花を咲かせていると、セレンが梨を加工したのを持ってきた。
「商店街の青果屋さんで買ったの。よかったら食べて」
「ありがとう。いただくよ。ごめん。気が利かなくて。何も持ってこなかった」
セレンに言ったつもりだったが、リーザが答える。
「そんな気を遣わないでくれよ。オレもずっと寝てばかりなのだし、何ももてなせなくてすまないね」
彼女は自分の婚約者の言葉に同意を示してから、器具を片付けに台所へ戻った。リーザがその途端、意味ありげに前のめりになったため、アルスは耳を寄せる。
「青果屋さんの若い店員が、彼女に惚の字でさ。彼女は気付いてないみたいだけれど。1人で出歩かせられないね」
穏やかな口調である。何故かアルスは自分が叱られているような心地になって、目線を落とし、その顔に表情はない。しかしすぐに莞爾として、リーザから離れた。そして近況や観光地住まいのことについて話した。それから話が王子のことに移ったとき、ちょうどセレンも戻ってきた。彼女も帰ってきたばかりでもう1人の幼馴染について最近の様子は知らないのだろう。アルスは家政士から聞いた話をした。第5区画にレーラの最近を知ることのできる何かがあるらしかった。
「セレンも行ってきたら。もちろん、君の体力次第だけれど。大事な幼馴染のことだろう」
アルスはセレンよりもリーザを見ていた。リーザのほうでも、その視線の意味が分かったらしい。
「アルスと一緒ならオレも安心だし」
アルスは思わず目を逸らしてしまった。そしてそれを誤魔化しているのか否か、幼馴染に問う。
「どうする?」
セレンはいくらか遠慮がちに婚約者と幼馴染を交互の見遣るが、彼女の気持ちを察したのか、リーザが口を開く。
「行ってらっしゃいよ。オレは平気だから。アルスも、セレンを頼むよ」
「うん」
そうしてアルスはセレンを連れて第5区画を目指した。
そこは田園風景が特徴的な場所であるが、住宅地として居住区域がまとまっているだけで、人口はそこそこある。
家政従業員のいう”親衛隊のなんとか”いうのは確かに住宅地の中にいた。四叉路の隅に佇立していた。アルスはその者を知っていた。王と王子の警備として地位もそう低くない、華憲七将の1人を配備しているところをみると、何か大きなことが王子を取り巻いているらしい。
赤茶色の紙を三つ編みにした、一見10代半ばの少年に見える華憲七将の1人はアルスとセレンに気付くと、おざなりな辞儀をする。
「お帰りになすったんで?」
「そうです。オレはついさっき」
王都で七将に数えられる1人の彼は、セロト・マルスといった。彼は茶毛混じりの赤髪を掻く。アルスほどは赤くない。ゆえに王子の髪とは大いに異なり、染髪令も出ていないのである。
「ここに来たってことは、王子のことでしょうな」
「はい」
アルスよりも若い少年の外貌をしておきながら、態度は横柄である。況してや実際の、厳密な身分からいうと、或いはアルスのほうが上にいるかもしれなかった。
「他人様の国の王子のことを悪く言うのは気が引けるが、王子は人の道を踏み外したな」
セロトはまるで他人事のように言った。彼は、彼の背後にある屋敷を面倒臭そうに後屈し、首を仰け反らせて示す。
「どういうこと?」
「この屋敷に住まう婦人の監視を任じやがりましたんで。心労で気がおかしくなったんだと思いますぜ」
アルスは差された屋敷を見つめる。大きな建物で白い枠組みにレースカーテンの垂れた出窓がついている。ただ、塀を見上げても覗けるほどに蔦が伸びて瀟洒な煉瓦の壁を覆っているのが気になった。庭木の手入れもされていないようで、城の木々同様に複雑な形を作っているのは分かっていたが、そこから枝や幹が伸びて造形が崩れている。
「レーラが……?」
「しかも既婚者ときてますぜ。品行方正、国民の鑑であるべき王子サマも、その正体は19の青少年。多少の火遊びもしてみたくなるのやも分かりませんな」
かくいう人物の外見の推定年齢は10代半ばであり、”19の青少年”という年頃にはまだ至っていなそうなのである。
「どういう人なの、ここのご婦人は……」
アルスが訊ねると、セロトは肩を竦めて答えはしない。そこには冷嘲がある。
「マルス将軍」
「王子が気に掛けるような御方ですぜ、旦那。そう易々と答えられませんがな。それが影武者サマであろうとね」
黙っていたセレンが口を開く。
「ここのご婦人は知っているの?監視されていること」
「王子は気が変になったんで。何故かって?ここは廃墟だからな。いくら説明してもムダでさ。王子は亡霊に惚れて、何も手につかない。おかげでオレはこうして暇をしてるわけ」
アルスはセレンと顔を見合わせる。
「将軍は最近、レーラと会いましたか」
「会いましたとも。いくら廃墟といても聞いちゃくださらない。だからオレは、ここには例のご婦人が住んでいることにしたんでさ。日に日に作り話ばかり巧くなる。このまま憲兵から文筆家にでも転向しようと思っているんだがね」
「マルス将軍から、レーラに会えるよう取り次げませんか」
セレンが言った。セロトの彼女を見る目が光る。
「婚約者はお元気で?」
「……はい」
そこには異様な威圧があった。セレンは躊躇しているかのような控えめな返事をする。マルス将軍はその威圧的な空気を消すとアルスを向いた。
「どうしても会いたければ宰相にお願いするか、王子の自室まで侵入するこってす。ま、前者は無理でしょうな。儀式がそろそろあるでしょう。城内も胡椒を噛み潰したみたいにぴりぴりしてるってわけで。オレは生憎、その日もここの監視なんですがね。血税をなんだと思っているやら」
セロト将軍は退屈げにそう話す。
「ここにお宅さんたちの聞きたいことはないぜ。とりあえず城に行け、城に」
「実際そうして断られてしまいました。だからここに来たのですが……」
「王子のトモダチのアルス令君が直接赴いて面と向かって直談判をしても取り次いでもらえないのだとすると、もう他の手段は無理でしょうな」
彼は嫌味たらしく言葉を重ねる。そして2人を追い払う仕草をした。アルスたちは結局、レーラに会うことは諦めて、リーザのもとへと帰っていった。