晶魚大陸異聞 1
大陸フェメスタリアは巨大クリスタルを介し晶魚リヴァイアトラウトに突き刺さっていると信じられてもいた。 残酷な描写でのR-15設定。【破壊の種 滅亡の花】作り直し。 替玉主人公/巫ヒロイン/陰気王子/信仰/クリスタル/精霊
水の都・ロレンツァは白と金の建物が特徴的だった。区画を描く河川のエメラルドグリーンに濁った水が純白の壁に反射しているかと思えば、それは苔である。滑りやすいレンガ敷きの街並みが優雅で、景観条例が定められるほどにこの都市は観光地として根強い人気を誇っていた。だがそれも外地から、あるいは遠方から訪れた者だけの楽しみであろう。
現にこの地に家を借りたアルス・セルなどは、この都市の美しさに耽ることができたのは移住初日くらいなものである。景観条例に基づいて、まずは花の水やりから1日がはじまる。ロレンツァの住民となると、土地には必ず芝生の繁茂した庭がつき、集合住宅、貸家、複合住宅であろうとも容赦なく鉢植えを与えられるのである。さらには服装だ。アルスは裏通りの住宅地に住んでいるからまだよかった。観光客が多く行き交う表通り、このロレンツァでいうと河川沿いの遊歩道に面して家を持つ者などは、家の資材や色合い、窓辺のインテリア、花にまで街から指導が入る。
こうして地域ぐるみで観光客をもてなしていた。
そういう街で赤い髪に黒い毛の混じった少年が、海へ釣り糸を垂らしていた。彼がアルスであった。ここはロレンツァの外れである。あらゆる建物が彼に背を向けていた。すぐ傍にあるのは倉庫らしいが、これまでも白い壁に金色の意匠で統一されている。裏口がアルスと同じ方向を向いていたが、木箱が積み上げられて塞がれていた。夜間にうっかり、狭い通路を真っ直ぐ渡りきって、海へ転落するからであろう。設計を誤ったに違いない。
彼は紙片をもう一度確認した。
ロレンツァ シーバス 2尾
ロレンツァ シーブリーム 1尾
これが明後日までにアルスに課された仕事である。少し離れたところにある学園都市テュンバロに届けることを考慮すると、明日にはこの3尾を釣っておきたかった。容易な注文ではないが、かといって難易度の高いものでもない。彼の今までの経験からいうとロレンツァシーバスなどはよく釣れる。魚が掛かれば殆どの割合でこれだ。
観光地の喧騒を背に魚を待つ。天気は良かった。温度も悪くはない。暑い日などは蒸れて仕方がなかった。河川沿いの家々の壁などはカビが生えている。
青い空が橙を差してきたとき、彼はやっと今日やることを終えた。鉄板魚籠にはすでにロレンツァシーバス1尾とロレンツァのシーブリーム2尾が入っている。後者のほうが先に片付いてしまったのは予期していたのと反対の釣果である。
明日には学園都市テュンバロに赴き、納品できるだろう。
釣竿を肩に掛け、亜鉛鉄板の魚籠を提げる。そしてふと海を振り返った。深い碧は、特にどうという感慨も与えない。この都に移り住んでからは慣れた光景である。湿気の多い生活もまた。
だがそろそろ、また移住することになるのだろう。
明くる日、アルスは学園都市テュンバロに向かった。そこは水の都ロレンツァと同様に、レンガ敷きで、しかし河川によって区画整理されているわけではないため、建物は密集していた。行き交う人々はどこかしらの教育機関、研究施設に属しているらしい服装をしている。
納品先は王立宝晶研究大学魔工学部オルタクリスタル技術学科のゼミ室である。一体、ロレンツァシーバスとロレンツァシーブリームを何に使うのかまでは、アルスにも知らされていなかった。
来学証明書を発行され、彼は学舎に入っていった。黒地銀刺繍の制服に身を包む学生たちとすれ違う。彼等、彼女等もゆくゆくは王都の城に仕えるのであろう。王立ということはそういう進路を指す。王都の城といえば、アルスの育った土地である。生まれた土地ではないが、彼の記憶の最も古い場所は王都であった。そしてあと数日もすれば、ある用事があって、この育った故郷を訪れる予定だった。
魚の依頼をしてきた人物に会う。その者は学生だった。活標本を制作するらしい。魔工学芸術の講義の課題で提出するという話だった。ロレンツァの魚はとりわけ見目、特に鱗の艶が良いと語っていたが、アルスには王都や、このテュンバロ圏で獲れるものとどう違うのかまったく分からなかった。
報酬を得て、活気と英気に溢れた施設から出る。彼には関わることのない界隈である。学園の中心部に築かれた大きなクリスタルのモニュメントの下の掲示板を帰り際に覗いていった。多くは学内者向けの知性や専門性を問われる内容であるが、ときには学外の者を対象に含んだものもある。
アルスはロレンツァにある小さな工房で雇われているが、大した仕事がないときは、このようにして自ら職を探し、小銭を稼ぎつつ、1日1日を潰していた。今回の釣りは、工房の主人からの頼まれ事だ。釣竿も鉄板魚籠も借り物である。雑用として割り振られたのだ。
ロレンツァの自宅に帰る頃には、すでに日が暮れていた。しかしこの都市は眠りを知らない。夕暮れは夕暮れの華美さでその様相を呈する。学園都市で見上げるよりも空は広いが、雲の模様だけが斑になって薄らと濃紺に浮かび、天の耀きは捕捉できない。観光客の賑々しい声、彼等を歓迎する都営楽団の演奏、船頭の威勢、店の売り文句などが表通りからよく聞こえた。しかしこれらも慣れてしまえばただの自然音であり生活音であった。うるさく思えた頃が懐かしい。
アルスは自宅の扉付けの郵便受けに差し込まれた封書を見つけて手に取った。送り主を確かめる。幼馴染からだ。一字一字しっかりとした綺麗な筆跡で、真面目な彼女らしい。
気が急くあまり、封留を剥がすつもりが、フラップ部分を破いてしまう。
幼馴染の少女は今、旅に出ている。旅立つ前、ある予定のために王都で待ち合わせをしたのだ。彼女はそれを旅の途中であっても忘れずにいたに違いない。さりげなく交わした口約束で、彼女も忙しかったはずである。アルスから手紙でもう一度勧告したことはないにもかかわらず、覚えていたのだ。
文を引っ張りだす。未晒しの更紙で、手に繊維の粗い質感が残る。青い墨で記された字が安定して並ぶ。均等な大きさで、空間の対称性がある。
内容はというと王都教育にありがちな手紙の書き出しである。つまりくどくどとした天気だの気温だのという説明と、自身の近況からはじまる。それから宛先への労いがはさまり、やっと本題だ。これは筆記具に困らないほどの即物的、文化的王都の豊かさをそれとなく主張した嫌味な慣習であるとは、雇われ先の工房の主人の言だった。
幼馴染は王都の近くの町から、この手紙を認めているらしかった。この書簡が届いているということは、今頃は王都に着いているかも知れない。
彼女は日輪の巫である。それは生まれながらに定められた責務であったが、彼女はその務めを降りることを選んだ。旅はそのためのものだ。ところが、これから王都で開かれる行事には、この日輪の巫の力が必要であった。日輪の巫は、王都に於いて彼女ただひとりというわけではなかったけれど、催事の中心人物となる2人の共通の友人―つまり王子は、彼女を王都へ呼び戻した。
本題といえば、このことだ。兄弟のように育った王子の王位継承の儀とともに催されるまた別の儀式のことである。これに参加するために、彼は王都に行くつもりだったのだ。
幼馴染がすでに帰ってきているのかと思うと、明日にはここを出たくなった。手紙をしまい、アルスは置いていかれたロレンツァシーブリームの入った鉄板魚籠と釣竿、その他借り物を持って、今度は工房へ向かった。その足取りは一仕事終えてきたにもかかわらず軽かった。