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06

終わりだにゃん♪

 四人は公園へ移動した。

 いくら続きが気になるとはいえ、道端で話し込む訳にもいかない。

 近くには翔太しょうたの病院もある。

 章悟しょうごの家でもよかったが、これは本人からの提案である。

 いや、翔太ではないのだったか。

 ――僕は、三墨みすみ翔太ではないよ。

 その言葉の真意は、道中では語られなかった。

 揃って同じベンチに座る。

 長めのものを選びはしたが、四人のせいか少し手狭だ。

 翔太の左右を杏子きょうこと章悟で固め、七海ななみは杏子の隣。

 口にこそ出さないが、二人とも翔太の暴走を警戒している。

「OK、話を聞こうか」

 章悟がうながす。

「さっきのはどういう事だ?」

「お兄ちゃん達があいつのせいで勘違いしてるみたいだから、本当の事を教えてあげただけだよ」

 嘘をついている様子はない。

 左右で分けて後ろで髪を留めたので、横顔ながら表情はよく見える。

 溌剌はつらつとした洋太と違い、こちらは控えめだ。

 主張の少ない、内気な子供。

 けれど通り魔はこの少年なのだ。

 そこにどんな狂気を抱えているのだろう。

 七海にはわからない。

 間違いであって欲しいという願いしかない。

「あいつって?」

「お兄ちゃん達が洋太って呼んでる奴だよ」

 章悟の視線が、思案げに虚空を泳ぐ。

「あれが洋太じゃないとすると、誰なんだ?」

 そこが問題だ。

 三墨翔太が父親から虐待を受ける中で生み出した第二の人格。

 それが洋太の筈。

「翔太だよ」

「は?」

「あいつが、翔太なんだ」

「いや」

 言いかけて、章悟は言葉に詰まる。

 理解の追い付かない顔。

 それは七海にしてもそうだった。

 少年は語る。

「あいつは自分の事を父親の虐待で分裂した人格だと思ってるけど、それがそもそもの間違いなんだよ。あいつは父親が好きだった。昔はまともだったから。それがちょっとずつおかしくなってさ、あいつはそれに耐えられなかった。だから三墨翔太じゃない誰かになろうとしたんだ。本人から分離した他人に。そこで代理役として生まれたのが――」

 僕だよ、と皮肉げな笑み。

「あいつが受けるストレスは全部僕に回された。毎日毎日苦痛が積み重ねられていって、父親の性格が移ったのかな。ある時から無性に誰かを傷つけたくなってた。最初は虫を潰したり、野良猫とかを殺したりしてたっけ」

 なぜそんな事を、とは言えなかった。

 人格が分裂するほどの虐待を受けてきたのだ。

 彼もまた被害者である。

 そんな想いが安易な非難を躊躇ためらわせた。

「これ、発作みたいなものなんだよ。自制が利かないの。一度始まったら、どんなに嫌でも衝動をぶつけ終わるまで治まらない。あの人も、多分こんな感じだったんだろうね」

 父親の事を言っているのだろう。

 そこに憎しみはない。

 心底疲弊した者の、諦念にも似た穏やかさ。

「あいつもこの事は知ってたけど、見て見ぬふりをしてたよ。親に虐待を受けてる哀れな子供の逃避行動とでも思ってたんだろうね」

 他人事の様に。

 けれどその呟きに、微かな苛立ちを乗せて。

「能力を使える様になったのは、そんな矢先だよ。最初は何が何だかわからなかった。あの晩だけは、本当に。気付いたら両親はいなくなってて、その後すぐに家に入ってきた大人達に捕まるし、訳がわからなかった」

「洋太の言ってた、施設って奴の連中か?」

「だから洋太じゃ――」

 言いかけて、少年は首を振る。

「まぁいいや。もう僕が翔太でも」

 話が進まないと思ったのだろう。

「そう、施設の人達。先に言っとくと、施設の場所は僕もわからないよ。この街に戻ってこれたのだって、ほとんど偶然みたいなものだったし」

「じゃあ、第三の人格ってのは本当にいないのか?」

「いないよ。あいつが暴走したと思ってる時は、僕が能力であいつを封じ込めてるから、その影響を僕も受けてると思い込んでるだけ。それは僕にとっても都合がよかった。だから便乗させてもらったんだ」

 同一の体。

 同一の能力。

 けれどその根幹から別れた二つの心は、それぞれ異なる技能を身に付けた。

「それは今もか?」

「いや、この会話はさっきからあいつに聞かせてる。出てはこれないようにしてるけど、話したければ変わろうか?」

 一方的な虚言でない事を示すように。

「……頼む」

 思案の末、章悟がうなずく。

 何を話すのだろう。

 七海には掛ける言葉が見付からない。

 しばらくの間、沈黙が降りた。

「洋太?」

 入れ替わった事を気配で察した章悟が、真っ先に声を掛ける。

 その横顔は、呆然としている様に見えた。

「大丈夫か?」

 のぞき込む章悟を、片手で制する。

「平気だよ」

 言った直後に首を振る。

「いや、やっぱそうでもないな」

 半笑いで。

「かなり、驚いてる。情けねーけど、結構心当たりもあってさ。否定出来そうにないや、翔太の言ってる事。いや」

 翔太は俺か、とうつむく。

「折角名前つけてくれたのに、ごめんな」

「いや……」

 章悟からいつもの軽口は出てこない。

 掛ける言葉がないのはみな同じだった。

「あ」

 少年の呟きに、全員の視線が注がれる。

「どうした?」

「いや、あいつが、俺の口から言えって」

 人格間での会話は出来ないのではなかったか。

 拒んでいただけなのか。

「何を?」

「俺を――」

 言いかけて止まる。

 訂正するために。

「俺達を、殺してくれ」

「何を」

 言っている。

 章悟が呻くように呟く。

「さっき、あいつも言ってただろ。自制は利かないって。もういつ弾けてもおかしくないんだ。だから、これ以上人を傷つける前に、お」

 終わらせてくれと、絞り出すように。

「そんな事――」

 章悟が言い終わるより先に、杏子が翔太の頭を殴りつけた。

「いっ――てぇ!」

 これまでずっと沈黙を守っていた杏子だ。

 それがまさか口より先に手を出すとは、誰も思わなかった。

「何すんだよ!」

「軽々しく殺してくれなんて、言うんじゃないよ!」

「軽い気持ちでなんて言ってねーよ! あいつの話、聞いたろ。自分じゃ止められねーんだ。だったらもう、他人に終わらせて貰うしか」

 杏子が翔太の胸倉を掴む。

「確かにあんたは心に怖いものを抱えてるかもしれない。でも、だからって諦めんじゃないよ。あんたが無理なら、あたしが止めてやるよ。何度だって止めてやる」

 服ごと、けして軽くはない筈の少年の体を持ち上げる。

「聞いてるか、もう一人の奴。出てきな!」

 翔太を投げ飛ばす。

 器用なもので、少年は空中で受け身を取って着地する。

「お姉ちゃん、本気?」

 もう人格が入れ替わっている。

 その体を、黒い影が覆っていく。

「ああ。掛かってきな。もうしませんて泣き出すまで可愛がってやるよ!」

 杏子も鞭を出す。

「おい姉さん、ほんとにやるのかよ?」

「いやならそこで見てな!」

 本気だ。

「いや、やるよ。やるって」

 及び腰のまま、章悟も変身する。

「あ、あの。私は」

 七海は更に腰が引けている。

 杏子がそれを一瞥いちべつして笑う。

「最後の一発は残しといてやるから、そこで待ってな」

「はい……」

 頷いて、距離を取る。

「先に言っておくけど、この前の夜より強いよ。今の僕は」

御託ごたくはいいからさっさと来な、クソガキ」

 少年の顔に、不釣り合いに酷薄こくはくな笑み。

 杏子に飛び掛かる。

 殆ど弾丸の様な速度で。

 声を上げる暇もない。

 その体が、杏子の目前まで迫った状態で止まった。

「な」

 驚愕に見開かれる少年の顔を、杏子が躊躇なく殴り飛ばした。

 地面に跳ねて転がる。

 すぐに起き上がる。

「何。今の」

 噴き出す鼻血を拭いもせずに。

 痛みより驚きの方が強い顔。

「足に……?」

 答えを求め、杏子を仰ぎ見る。

 いつの間にか杏子の持つ鞭が、握っているハンドル部分を除いて消えていた。

 短くしている訳ではない。

 完全に消失している。

「立ちな。あんたの腹の虫は、まだ収まっちゃいないだろ」

 口の片端だけ吊り上げて、翔太が笑う。

 影に沈む。

 いや、沈まない。

 肩まで沈んだ所で右手を上げて、飛び出してきた。

「章悟!」

 杏子の声と共に、軌道が真上から斜め下方へ変わる。

 章悟へ飛び掛かる。

 違う。

 杏子の様子から察するに、翔太は釣り上げられたのだ。

 鞭は見えないままだが、恐らく右腕を掴んでいる。

 透明に出来るのか。

 今まで幾度かそんな事があった気はする。

 速すぎて見えないものと思っていた。

「許せ翔太!」

 自らに迫る少年の体を叩き落とす。

 傍目はためにも手加減とわかる攻撃。

 しかし生身であれば、それでも絶大な衝撃をともなう。

 翔太が地面の上を跳ねる。転がる。

「ほら、さっさと立ちな」

 杏子が容赦なく告げる。

 起き上がる様子もないのに。

「おい、やっぱやりすぎたんじゃ」

 章悟が歩み寄る。

「平気か、翔太?」

 伸ばす手が、不意に裂けた。

 血が噴き出す。

「ぐぁっ」

 引いた前腕が、中ほどから千切れかけていた。

 殆どぶら下がっているだけと言っていい。

 すぐさま後退。

「章悟!」

 杏子の声と共に、翔太の腕が持ち上がる。

 再び見えない鞭が掴んだのだ。

 が、今度はそれだけ。

 体を釣り上げるまでには至らない。

「こういう時はどうすればいいか、ずっと考えてたんだ」

 起き上がった翔太が、腕を下ろす。

 その顔までも、影におおわれていく。

「くそ、なんで」

 杏子が手元の鞭を震わせる。

 困惑も当然。

 まだ腕に巻きついているのだ。

 そして持ち上げようとしている。

 先程からずっと。

 なのにびくともしない。

「それは、もう効かないよ」

 荒い息で告げる。

 翔太も無傷ではないのだ。

 足元を指差して見せる。

「僕にはもう、影の動きしか反映されない」

 以前に見せた、影を引き剥がして本体に影響を及ぼす能力を思い出す。

 その応用という事なのか。

「力任せじゃ僕は動かせないよ」

「わざわざ説明してくれるなんて、余裕じゃない」

「お姉ちゃんこそ」

 どちらも言うほど余裕ではない筈だ。

 翔太は変わらず苦しげで、杏子も攻め手が残っているのかどうか。

 章悟の傷は既に治っている。

 しかし二人掛かりという状態を嫌ってか、あまり前には出ていかない。

「章悟、ぼさっとしてんじゃないよ。あんたもちゃんと加勢しな」

「いや、でもよ。翔太もこんなだし」

 章悟の躊躇いを見て、翔太が唯一露出した口元を歪める。

「お兄ちゃんは、本当に優しいね」

 翔太が動く。

 地をうように身を低く、驚く程の速さで。

 ろくに構えてもいなかった章悟の横を通り過ぎる。

「ぐっ」

 負傷を示す出血。

 章悟が腹を押さえる。

「手加減してたら、みんな死んじゃうよ」

 喋りながらも翔太は止まらない。

 それを追って地面がぜる。

 公園の遊具がゆがむ。

 杏子の攻撃が続いているのだ。

 が、当たらない。

 見えてはいるが速すぎるのか。

 一向にとらえる事が出来ない。

 翔太の接近を見て、杏子が横に飛ぶ。

 受け身を取ってすぐ起き上がる。

 拘束出来ないのであれば間合いに入る訳にもいかない

 しかし――杏子が無言で右腕を押さえる。

 地面に数滴の血が落ちる。

 避けきれていない。

「次は足を貰うよ」

 その声はどこまでも楽しげに。

 影が地面を滑る。

 再び杏子へ迫る。

 その足を、緑の怪人へと変貌した章悟の左腕が掴んだ。

「な」

 止まらない筈の動きを止めた。

 驚きを全員が共有する。

 章悟だけが動く。

 振り上げ、叩きつける。

 凄まじい音が響いた。

 地面が揺れたようにさえ感じた。

 同時に章悟の左腕が千切れた。

 宙に放られた翔太の足を、残った右腕で掴む。

「地面に落とすのはまずそうだな」

 激痛を堪えて、引き攣った笑み。

 今度は遊具に叩きつける。

 遊具がひしゃげた。

 影の鎧で衝撃がどの程度緩和されているのかわからない。

 だが無傷という事はなかろう。

 章悟が更に一振り。

 途中、その手から翔太の足がスルリと抜けた。

「あ――?」

 章悟が呆けた顔で己の手を見る。

 目を剥く。

「翔太!」

 章悟の手には、下腿部が血を垂らしながら握られている。

 千切れたのではない。

 自ら切断したのだ。

 章悟の攻撃を耐えきれぬとみて。

(そんな事――)

 不利と見れば躊躇いもなく四肢を切り離す。

 正気の沙汰ではない。

「他人の心配、してる場合?」

 影に潜った翔太が、章悟の影から浮かび上がる。

 章悟の両膝が音を立てて弾ける。

「ぐあっ!」

 再び影に潜る。

(どこに――)

 周囲を見回す七海の背に何かが乗った。

「あ」

 すぐに気付く。

 何かなど、曖昧なものではない。

「ふぅー」

 耳元に吹き掛けられる、深い吐息。

 それだけで七海は動けなくなった。

「翔太!」

 杏子が叫ぶ。

 これで疑いようもない。

 七海は人質に取られたのだ。

「動かないでよ」

 丁度おぶさるような形で告げる。

 自身の体を空中で固定しているのか、重さは殆どない。

 いや、人質として使うかも怪しい。

 翔太が真実己の快楽を優先するような狂人であれば。

「僕もあんまり時間がないからさ」

 言いながら、断たれた右足――右膝を揺らす。

 止血しなければ長くは持たない。

「まさかお兄ちゃんが僕の影に干渉出来るとは思わなかったよ。びっくりした」

 息が荒い。

 翔太に治癒の能力はない。

 苦痛は章悟の比ではない。

「最初からそうしてれば、こんな事にはならなかっただろうね」

 いつの間にかその手には、小さなナイフが握られていた。

「おい、やめろ」

「動かないでよ」

 首筋に添えられる、冷たい感触。

「七海お姉ちゃんの事は、ずっと良いなって思ってたんだ。とっても弱そうで。そういうのに、凄く惹かれるんだ」

 震える事も出来ない。

 首に触れた刃が一旦離れる。

 より深く突き刺すために。

 黒く彩られたナイフが見えた。

(――私、死ぬの?)

 杏子を見る。

 章悟を見る。

 どちらも身動きが取れずにいる。

「僕の事なんか、さっさと殺しておけばよかったんだよ!」

 七海は目を閉じる。

 耐え難い恐怖から目を逸らすように。

 嘘みたいに軽い衝撃に、頭部が揺れる。

 続けてその背に、微かな破裂音。

 痛みはない。

 数秒待つ。

 背に乗っていた翔太が、ずるりと落ちた。

「え……?」

 驚いて振り返る。

 口から血を流しながら横たわる少年の姿が、そこにあった。

「七海、平気か!?」

 章悟に肩を掴まれる。

「えっ、えっ」

 まともな返事も思いつかず、何とか首肯のみで答える。

 何が起こったのか理解出来なかった。

 取りあえず痛みはないし傷もない。

「姉さんか?」

 章悟が振り返って問う。

「そ。あたしの、隠し玉」

 ハンドルだけの鞭を持ち上げながら、暗い顔で。

「この状態の時は、モーションなしでも好きな場所にダメージを与えられる」

 杏子が自分の能力を話すのは珍しい。

 というか恐らくこれが初めてだ。

 もう少しくらい捕捉が欲しい所だが、今はそれどころでもない。

 翔太を見る。

 影の鎧がぼろぼろと崩れ始めていた。

 体にそれらしい外傷はない。

 なのに口から血があふれ出している。

「何、したんだ?」

 それだけでは理解出来ないと言いたげに。

「心臓を潰した」

 鎧をすりぬけ、肉や骨さえもすり抜け、直接臓器を。

 やりすぎだとは、誰も言わなかった。

 そうでもしなければ止められなかっただろうから。

「やれば、出来る、じゃん」

「洋太、か?」

 章悟がかがむ。

 翔太の拘束が解けたのか。

 洋太が左腕を持ち上げる。

「邪魔、してやったぜ」

 その前腕に、ナイフが刺さっていた。

 だから七海に怪我がなかったのだ。

「今からでも病院に行けば。すぐそこだし」

 担ごうとするのを、洋太自らが止める。

「いいよ。このまま」

 もう助からない事を知っている。

 受け入れてもいる。

「これで、やっと」

 続く言葉を求め、全員が口をつぐむ。

 けれどいつまで経ってもそんなものはなかった。

「……最期のは、翔太だ」

 息を引き取った少年を見下ろし、章悟が言った。

 その衝動は、抑制出来ないのだと言っていた。

 自身でどれだけその有り様を憎んでいても。

 これでやっとやめられる。

 止まる事が出来る。

 そんな風に言いたかったのではないかと、七海は思った。

 そうであって欲しかった。

 せめて今際いまわの際は安らぎと共に。

「姉さんも、悪かったな。辛い役目を背負わせて」

「いいさ」

「あ、あの、私」

 七海は涙声でそれだけ絞り出したが、言葉が続かない。

 自分がもっと強ければ。

 自分が人質になどならなければ。

 結果は違ったかもしれない。

 また足手まといだ。

 普段抱えている無力感が、ここに来てまた押し寄せてくる。

「七海も、危ない目に合わせて悪かったね」

「そんな事」

 ない、と言うより先に涙が溢れた。

 抱き寄せられるままその胸に顔を埋める。

 杏子にしてみれば七海は自分が守って当然の存在である。

 常にそのつもりで連れ回しているのだ。

 それを危うく殺しかけた。

 謝罪こそすれ非難などしよう筈もない。

 加えて杏子は自分が止めてみせるとまで啖呵たんかを切っている。

 その結果がこれだ。

 無力感という意味でなら、犠牲を出した彼女の方が大きい。

 もっとやりようがあったのではないか。

 終わってみれば悔いばかり。

「んじゃ、あたしは警察に行くよ」

「えっ?」

 慌てて顔を上げる。

「人を、それもこんな子供を殺したんだ。当然だろ」

「でも」

 殺したくて殺したんじゃない。

 そういう問題でないのはわかっている。

 だが、こんなのはあんまりだ。

「そんな顔すんじゃないよ」

 頭をでられる。

「杏さぁん……」

「あたし達の道具は、一つ間違えれば簡単に人の命を奪えるんだ」

 こんな風に。

「だから、あんた達は間違えるんじゃないよ」

「姉さん……」

 いつか章悟に見せた怒りも、その無自覚に対するものだったのかもしれない。

 思えば杏子が戒めていたホルダーもそうした者達ばかり。

 その末に杏子自身が人を殺めてしまうというのは、何とも皮肉な話である。

 結局、誰も望まぬ形で幕が下りた。

 そう思っていた。

 しかし、これが全ての始まりであった。

「ん」

 最初に気付いたのは章悟だ。

「何?」

「いや、翔太の中にまだ何か――」

 言い終える前に、その亡骸から黒い影が染み出してきた。

「何、これ」

 すぐに全身を覆う。

 影は徐々に肥大していく。

 止まらない。

「下がれ。何かおかしい」

 言われた通りにする。

 章悟が前に出る。

 見守る中、黒い塊が像を結んでいく。

 四足獣を思わせるシルエット。

 やがて覆っていた影が霧散する。

 中から現れたのは、異様な大きさの獣だった。

「あ?」

 ソレが何なのか、誰にもわからなかった。

(犬?)

 というよりは狼に近い。

 けれど規格外の巨体。

 虎やライオンなどより一回りかそれ以上。

 そんなものが、翔太の亡骸から生まれた。

「何?」

 敵か味方か。

 問題はそこだ。

「翔太?」

 ありえない。

 そう知りつつも名を呼んだ。

 声に反応したものか、あるいは呼び名に応じたか。

 大型の獣が章悟をついと見る。

 うなりもせずに歩み寄る。

 が、素通り。

 杏子の前へ。

「あ、おい」

 敵意は見られない。

 それが章悟の戦意を鈍らせた。

 戸惑いも大きかったろう。

 獣がその鼻先を杏子へ寄せる。

 だからこそ、見過ごしてしまった。

 その獣が牙をく一瞬を。

 口が開く。

 白い牙。

 それが、杏子の肩に突き刺さる。

 あっという間だった。

「――え?」

 呆けた声は誰でもない、当事者たる杏子から。

 獣の顔が離れると、左肩が消失していた。

 噛み切られた腕が地面に落ちる。

 そこでようやく、鞭が黒い獣を打った。

 衝撃に巨体が吹き飛ぶ。

「な」

 章悟の時間も動き出す。

「何だよ、こいつ」

 けれど依然いぜん混乱の中。

「この」

 肩から先を失いながらも、杏子だけが果敢かかんに攻める。

 幾度もの打擲ちょうちゃくが獣を襲う。

 ソレの事を、杏子は既に敵と認めていた。

 容赦はない。

 たちまち内部から破壊されていく。

 手足が折れ、地に伏す。

 それでも止まらない。

 内側から肉が爆ぜる。

 しかし出血はない。

 全て終わるまで、ほんの数秒。

 大型の猛獣は瞬く間に黒い肉塊へと変貌した。

 荒い息を整える様を、二人はじっと見つめていた。

「杏さん。その怪我」

 先に七海が気付いた。

 こちらにも出血がない。

 傷口とも言える箇所は黒い何かに覆われている。

「あぁ、痛みはないよ」

「どうなってんだ?」

 章悟が落ちていた左腕を拾う。

 こちらの断面も綺麗なものだ。

「さぁ。こいつが死ねば戻るってもんでもないみたいだけど」

 大事に至る怪我ではない事に、ひとまずの安堵あんど

 それも束の間。

 獣の肉塊がふくれ上がる。

 巨大な手が伸び、杏子の胴体を掴んだ。

 今度は章悟も黙っていない。

 その腕に手刀を振り下ろす。

 しかし僅かに揺らしただけで、杏子の体を離そうとしない。

 変身している章悟より更に太く長大な腕。

 膨れ上がった肉が新たな形を取っていく。

 先程の獣の頭に、人間の様な体。

 異様に長い胴と腕。

 それに比べて極端に短い足。

 身の丈自体は章悟でさえも見上げる程だ。

「くそ、離しやがれ!」

 殴りつける章悟に、獣が無造作に腕を振るう。

 章悟の首が真横に折れた。

 続け様にもう一発。

 ベンチまで吹き飛ぶ。

「七海、逃げな!」

 反射的に見上げる。

 なぜ見てしまったのだろう。

 七海はそこで、最悪の瞬間を見た。

 持ち上げられた杏子の顔が、獣の口に収まる様を。

 バクリと一口。

 杏子の腹から上が消失した。

 残った四肢から力が抜ける。

 七海は、呆然と眺めていた。

 獣が残った体を食べつくすのを。

 次は自分だと思った。

 ――逃げな!

 杏子の言葉がまだ耳に残っていた。

 しかし動けない。

 動けるはずがなかった。

 自分一人が逃げるなど。

 立ち向かう勇気もないのに。

 おのが死と、なす術もなく対峙する。

 しかしその獣は、七海には目もくれなかった。

「……え?」

 のしのしと音を立てて章悟の元へ。

 再生に時間が掛かっているのか、まだ起きる様子はない。

「や」

 止めなくては。

 今動けるのは自分だけなのだ。

 自分が守らなくては。

 しかし、意思に反して足がもつれた。

 何歩も進まぬ内に転ぶ。

「やめてぇ」

 せめて声だけでもと絞り出す。

 それだけで止まらぬ事を知りながら。

 章悟も食われてしまう。

 結果から言えば、これは杞憂きゆうだった。

 獣は彼の握っていた、杏子の腕を取り上げて口に収めた。

 咀嚼そしゃくもせずに一飲み。

 それが終わると、獣の巨体が影に沈み始めた。

「え?」

 どこに行こうとしているのか。

「待って」

 急いで起き上がる。

「返して」

 駆け寄る。

 しかし間に合わない。

 七海には見向きもせずに沈みきる。

 力なくくずおれる。

「お願い」

 獣の消えた影に向かって語り掛ける。

 もうそこには何もいないと知りつつも。

「返して」

 すすり泣く。

「連れてかないで」

 もう二度と戻らぬ者に向けた声。

 吉成七海はこの日、一番の恩人を失った。


正確には続くんですが長くなるので二つに分ける事にしました。

区切りもいいので・・・。

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