04
「どういう事なんですか、これ?」
昨晩の通り魔事件の記事を見ながら、七海が聞く。
「それはあたしが聞きたい」
杏子の仏頂面は、先程から一向に変わる様子がない。
「昨日の翔太には無理だぜ」
大人の目もある、と章悟が庇う。
その言い分も尤もではある。
世間では翔太に関するニュースで持ちきりだ。
お陰で同時に起きた通り魔被害の扱いは小さい。
犯人が捕まった訳でもない続報だ。
今更これまで以上に驚けという方が無理なのかもしれない。
だとすれば、妥当な温度差ともいえる。
翔太の方は、過去の失踪事件から既に二年近く経過している。
その間誰の目にも触れず、少年はどこで暮らしていたのか?
これは誰だって気になる。
翔太は一躍時の人となった。
そんな彼が、再び姿を消したという話は出ていない。
あれば大騒ぎだ。
つまり今も無事に警察の監視下に置かれている筈。
最初の発表からここまで、翔太の姿は一切出てきていない。
それだけ厳重かつ丁重に扱われていると見るべきか。
どうあれ、当面の疑問は一向に解消される気配がない。
通り魔の目撃者は今回もなし。
だからこそ同一犯という扱いになっているのだ。
しかし前述の通りそれはありえない。
その事を、三人だけは知っている。
もう暫くは夜間の外出はないと思っていた。
それなのに今日も今日とて見回りである。
考えられるのは模倣犯の出現。
あるいはそもそも翔太が通り魔ではなかったか。
考えてみれば夜間に襲われたからそうだと決めつけていただけだ。
全くの誤解であるという事を、すっかり見落としていた。
翔太の能力は犯行に適していた。
そして、あまりにもそれらしい状況証拠。
彼を犯人とする要素がありすぎたのもまた事実。
だが、言ってしまえばそれだけだ。
翔太自身が認めた訳でもない。
記憶は曖昧なままなのだ。
あくまでも本人の言を信じるならだが。
全て振りだしに戻った。
とはいえやる事は変わらない。
歩き回るのもいつもの事。
「翔太君、今も警察署にいるんですかね」
「いや、近くの病院に移された」
「何で知ってるの?」
「実は昨日、あれから気になって様子見に行ったんだ」
託してからも見守っていた訳だ。
「お兄ちゃん、心配しすぎでしょ」
にやにやしながら杏子が肘で小突く。
「しゃーないだろ。で、丁度移送される所だったから後を追った。さっき見たら気配はあったから動いてないぜ」
「その気配って、何なの?」
翔太が影の中を移動する際にもそれを読み取っていた。
「さあ。でも似たようなのは姉さんらもあるんだぜ」
「何それ」
初耳、と目を丸くする。
「正確には姉さんらの持ってる道具の方に妙な気配があるんだけどな」
「あ」
何かに気付いたように七海が声を上げる。
「もしかして、帰り道で私に声掛けてきたのも」
「いや、あれはいじめやすそうな奴がいたから捕まえただけだ」
「えぇ……」
いじめっ子気質が遺伝子レベルで染み込んでいる。
「冗談だ」
願うばかりである。
「道具単位でも気配が違ったりするの?」
「するな。だから一度会った奴はまず間違えない」
それはある意味得難い技能である。
「じゃあ例えば、相手が逃げた後でも残り香みたいなものは感じる?」
「あー、モノによる」
曖昧な顔で首を振る。
「直前までいたとかなら問題ない。一分とか経ってると無理だな」
「距離は?」
「少なくとも目視できる範囲ならまず間違いない」
もし逃げられても、現場に居合わせればいい。
犯人の特定がかなり楽になる事は確かだ。
「後はとにかく歩くだけだね!」
杏子が握った拳で掌を叩く。
「え?」
一方怪訝な七海の顔。
「どうしたの」
「いえあの、この人、気配でわかるんですよね?」
章悟を指差しながら。
「随分他人行儀じゃねーか」
もう数日の付き合いになるが、未だに呼び方を決めかねている。
「お兄ちゃんて呼んでいいぞ」
「いえ……」
絶対に嫌だった。
「章悟君とか」
「じゃあ、常盤さん」
これでもまだ抵抗があった。
「今日はやけに反抗的だな」
章悟に睨まれると、七海は杏子の後ろに隠れた。
「あんたも茶々入れんじゃないの」
続けな、と杏子が先を促す。
「はい。だったらこの人は駅前みたいな人の多い所でホルダーを見つけて、そこから身辺調査みたいな事をすればよくないですか?」
自分達の様な見回りもいいが、章悟はまた違った側面から攻められる。
便りもなしに探るより、ずっと成果が望める筈だ。
「おお」
「確かに」
市内のホルダーを把握しておけば、いざ追う時も役に立つ。
追跡がばれたとしても、章悟なら無事に切り抜けられる。
「偉いぞチビスケ。ご褒美にハグしてやる」
「いえいいですほんと」
即答。
それは褒美ではなく罰だ。
「なん――だと?」
愕然と呟く。
あまりにも真に迫った顔だった。
「?」
しかしふざけている様にも見えず。
七海の拒絶に対するものではない。
夜道に投げた視線がそれを、仄めかすように告げていた。
「章悟?」
杏子も気付いて怪訝な顔で。
章悟の身が沈む。
瞬間、全身が変貌を遂げた。
深緑の皮膚。
体が服を破らんばかりに肥大する。
脂肪ではない。
全身これ筋肉と誇示するような隆起。
初めて会った時の、怪人の姿である。
「先に行く」
言って、弾かれたように地を蹴る。
人間の身体能力ではありえない速度だ。
「ちょ」
どうしたのかと聞く暇もない。
二人で慌てて後を追う。
とはいえ段違いの機動力だ。
見失うのは時間の問題――かに見えたのだが。
「あ」
角を曲がった途端に杏子が立ち止まる。
「ふやっ」
背後に付いていた七海が背中にぶつかる。
「あ、ごめん」
「……いえ、それより」
問題は章悟だ。
杏子の横から顔を出して様子を見る。
まず目に入ったのは章悟の背中。
酷く小さい。
そう見えたのは直前までの変身を解いていたからだ。
「どうして出てきた」
背中が語る。
その向こう。
街灯の下に、子供がいた。
その顔を、肩まで伸びた長髪ですっぽり覆っている。
三墨翔太。
間違えようがない。
しかしなぜここにいるのか。
章悟の疑問も尤もだ。
「翔太?」
少年は答えない。
答えぬままに、数歩退く。
街灯の明かりから外れる。
途端、その身が黒く染まっていく。
暗がりに身を置いたから、だけではない。
「ヒッ」
せき込むように漏らしてから、翔太が章悟へ飛び掛かる。
「くそっ」
舌打ち交じりに変身。
腕を振るって翔太を弾き飛ばした。
しかし体を捻って難なく着地。
「姉さん、七海を頼む」
「あいよ」
杏子が鞭を出す。
「七海、下がってな」
「はい。でも……」
翔太に何があったのか。
あれではまるで別人だ。
――別人。
最初に会った時、少年は別人のようだったと章悟は語った。
これがそうかと合点する。
しかしであれば鎮圧出来る。
章悟は一度勝っているのだ。
翔太の身が影に沈む。
どこから出るか。
予測は殆ど不可能である。
しかしこれはあくまで常人には、という注釈が入る。
翔太が背後から体を出すと、章悟もすぐさまそちらに気付く。
どこにいるか、どこから出るかは気配でわかる。
章悟は、翔太にとっての天敵である。
「うお!」
再び翔太が影に潜ると、章悟が前屈みに呻く。
振り返る。
その腹には、小さなナイフが刺さっていた。
どこから持ち出したのか。
(――あ)
答えは目の前、というか周囲にあった。
影を自由に移動出来るなら、近くの家から持ち出す事も可能である。
となれば凶器はどこにでもある、という事になる。
「クッソ」
腹に刺さったナイフを抜いてへし折る。
そのまま捨てたら再利用されるからだ。
だがこれでも章悟に対しては決め手に欠ける。
常人であれば重傷だろうが、章悟には桁外れの再生力がある。
今も深々刺さった筈が、滴る程の出血もない。
翔太にとってはとことん相性が悪い。
「隠れてても俺は倒せねーぞ」
わざとらしい挑発。
呼応するように響く破壊音。
「え?」
見ると、唐突に電柱が砕けた。
飛散した破片のいくつかが章悟を叩く。
が、それだけ。
掠り傷にしかならない。
(違う)
着目すべきはそこではない。
考えるべきは、なぜ電柱が砕けたのかだ。
誰からの干渉もなく、まるで独りでに爆ぜた様に見えた。
しかし自然にそうはならない。
「今の、翔太君が?」
影に潜るだけではないのか。
全身に纏う黒い影も気になる。
「あれがあの子の隠し玉かね」
問題はどうやっているかだ。
まさか念動力でも使うのか。
「あ」
呟いて、杏子が指を差す。
そして見た。
影から生えた手が、別の影を掴むのを。
影を引き剥がす。
まるで布でもを捲る様に。
それが何の影だったか、街灯がへし折れてから気付いた。
明かりが消える。
全くの暗闇ではないとはいえ、慣れるまでの数秒視界が奪われる。
中ほどから折れた街灯の先端が、章悟に向かって落ちていく。
飛び退く。別の街灯の下へ。
「は、こんなもんか?」
直後、その左肩が裂けた。
血が噴き出す。
「ぐっ!」
笑みがすぐさま苦悶に変わる。
足元を見ると、そこに翔太の手が見えた。
剥がしているのは章悟の影だ。
肩口から、べりべりと。
体の損傷はそれに合わせて起こっている。
その手を、杏子の鞭が掴んだ。
影から釣り上げる。
「章悟!」
「おう!」
宙吊りになった少年を、振りかぶってから殴りつけた。
小さな体が吹き飛ぶ。
鞭を使って引き寄せる。
「どうだ?」
章悟が肩を押さえながら来る。
千切れかけた傷はもう殆ど治っていた。
「わかんない。見て」
警戒しているのか、杏子も自分の手では抱き抱えない。
鞭を釣り竿の様にして宙吊りのままだ。
「おーい、翔太ー?」
頬をぺしぺし叩いて確認。
「うぅ」
苦しげな声。
生きてはいる。
続いて嘔吐。
胃の内容物が、地面にびしゃりと広がった。
「うお」
驚いた章悟が一歩下がる。
全て吐き出してから、少年の体を覆っていた影が剥がれ落ちていく。
「兄ちゃん、やりすぎ、だぜ」
息も絶え絶えといった調子で。
「お、戻ったか?」
「お陰様でな」
妙だった。
声や姿は翔太のものだが、口調が違う。
元々そういう性格だったのか。
吊るされたまま、器用にくるりと回る。
「姉ちゃん、腕がいてーよ」
あの少年はこんな喋り方はしなかった。
年上相手に畏まっていたのか。
ありえない話ではない。
「お前、翔太だよな?」
章悟や杏子も訝しげに見ている。
「いや――少し違う」
猫を被っていた、という可能性は即座に否定された。
「俺は、三墨翔太が生んだ別の人格で、名前はねーんだ」
多重人格。
その疑いは、以前からあった。
「全部話すよ。だから、いい加減降ろしてくれ」
「まぁ俺も、全部知ってるって訳でもないんだけどな」
口角を片方だけ吊り上げた、皮肉げな笑み。
大人しかった少年の面影は跡形もない。
七海達はあれから、章悟の家に移動した。
あちこち壊れた道端に、いつまでも居座っている訳にはいかない。
「知ってる事だけでいい」
章悟が短く答える。
「お前、翔太の体を使って何やってんだ?」
「ああ、別の人格ってのは信じてくれてんだ」
「一応な。疑ってても先に進まないし」
「ありがてぇ」
頷きながら。
「俺が何をしてるかって所だけど、別に何もしてねんだわ」
「あ?」
章悟が眉を寄せる。
「別にはぐらかしてる訳じゃないぜ。ちゃんと順番に話すよ」
両手を軽く上げながら。
「まず俺みたいのは、かいり何とかって言うらしいな」
「解離性同一性障害な」
杏子が答える。
いわゆる多重人格だ。
「流石年長者」
物知りだな、と指を差す。
「茶化すんじゃないよ」
「ごめんごめん。でな、何でそうなったかっていうと、あいつ、いやこいつか」
親指を自分の胸に当てながら。
「こいつの親の虐待からだ」
「――受けて、たのか」
章悟が呻くように呟く。
家庭内は円満だったと聞いている。
「あぁ。表向きは上手く隠してたけどな」
所詮は人の噂だ。
扉一枚、壁一枚隔てた先で行われている事にまで目は届かない。
「両親から?」
「いや、母親は味方だった。つーか一番の被害者だな。あいつが家にいる時は、いっつもビクビクしてたよ」
当時を思い返すように語る。
その顔には、何の感情もない。
そうなるまでに、一体どれ程のものを犠牲にしてきたのか。
「暴力の大半は母さんが受けてた。俺は学校があったから。そういうのはやけに気を使うクズでな。代わりに何かとネチネチいびられてたぜ」
その圧力に、子供の心は耐えられなかった。
「んで、俺が生まれた。小学校に上がる前だったかな」
まぁこの辺はどうでもいいか、と本人自ら切り捨てる。
「親父の虐待は年々酷くなっていった。母さんは服の下の痣が消えなくなったし、家の中は壊れた家具で目立つようになってきた。俺もそろそろ我慢の限界だった。翔太とは違ってこんな性格だしな。俺は包丁を持って親父に斬りかかった」
それは、失踪事件当日。
「けどまぁ、返り討ちだ。所詮は子供と大人だからな。先っぽが刺さった程度で、その後は血を吐くまでぼこぼこにされたよ」
「だから母親は、あの晩救急車を呼んだのか」
「母さんが?」
意外そうに目を見開く。
「知らなかったのか?」
「あの時は殆ど何も聞こえなかったからな。死ぬんだと思ったよ」
しかし死にはしなかった。
どころか――。
「その時に、また新しい人格が生まれた」
「そいつが――」
親を殺したのか。
章悟もそこまでは聞けなかった。
「多分な。けどそいつが表に出てる時の事は、俺もよくわかんねぇんだ。翔太が表に出てる時みたいな記憶の共有が出来ない。だから覚えてるのは、親父が真っ黒になっていく所だけだ。母さんは」
わからない、と首を振る。
翔太の能力は、その時に初めて発現したのだ。
第三の人格と共に。
「気付いたら知らない大人達と一緒に車に乗せられてて、次に目が覚めたら妙な施設にいた」
それは、朧気ながらも翔太から聞いている。
「どんな所だった?」
「病院みたいな場所だったな。あと、俺や兄ちゃんみたいな奴が大勢いた」
「ホルダーが?」
「姉ちゃん達みたいな道具持ちはいなかったけどな」
「そこで、何をしてた?」
「さあ?」
首を捻りながら。
「俺らの力は危険だから、抑える研究をしてるとかで、たまに検査はされてたけど他は基本的に自由だったぜ」
確かに先程の翔太を見る限り、危険である事に間違いはないだろう。
「それから母親には?」
「会ってない。周りの大人に聞いても何も答えてくれない、つーか知らない感じだった」
「こっちへは、それを調べに戻ってきたのか?」
「違う。襲撃があったんだよ、その施設。その混乱の中で、またあいつが表に出てきた。そんで気付いたら兄ちゃんに捕まってた」
「襲撃って?」
「わからん。大人達が騒いでて、窓の外で爆発が起きて、子供達もパニックになって、後はもう滅茶苦茶だよ。銃声も聞こえたなそういや」
「銃声」
それは日本での出来事なのか。
「翔太にも聞いたけど、場所はわからないのか?」
「そういうのはさっぱりだな。悪い」
「新顔の人格とは話せるか?」
「無理だ。発作みたいにいきなり出てきて一頻り暴れたらどっか行く。その時の事は、兄ちゃんの方が詳しいんじゃないか」
確かに、会話が成立する様子はなかった。
そもそも言葉が通じているのか。
先程の戦闘ではそれすらも定かではない。
「翔太はお前や新顔を認識してるのか?」
「いや。あいつはストレスが嵩むと眠りにつくだけだ。場合によっては何日も起きないから、日付が飛んでてよくビビってるぜ」
愉快そうに。
あまり笑いごとでもないだろうが。
月曜の夜に寝て、起きたら木曜になっている。
そんな日常では、とても正気ではいられない。
「なるほどな」
翔太が自分の歳を間違えた理由も、これで納得がいった。
「大体わかった。それで翔太――いや翔太じゃないのか」
章悟が頭を掻きながら。
「別に、お前とかでいい」
もの扱いされる事に慣れた顔。
「名前、つける?」
「いいよ別に。今更」
「いやでもずっと名無しってのもなぁ」
「翔太の名前から取る?」
「偏に羊がありますね」
「羊太?」
「三水足した方がそれっぽくない?」
「洋太か」
トントン拍子に決まっていく。
「だからいいって」
「いや、洋太でいく。今日からお前は三墨洋太だ」
困惑の体を隠さず苦笑い。
「わかったわかった。好きに呼んでくれ」
「それで洋太。お前なんで外に出てきた?」
「俺だって出たくて出た訳じゃない。新顔君が暴れ出しそうだったんでな。病院の中じゃ都合が悪いから一旦抜け出して兄ちゃんを探してた。予兆くらいはわかるから」
「あぁ、それで」
章悟は一度勝っている。
暴走を止められる相手を頼るのは当然の選択だろう。
「あいつも暫くは出ないだろうから、もう帰るよ」
「待った」
立ち上がるのを、章悟が制する。
「そいつが出てきたのは、今日だけか?」
「は?」
何を急にと首を傾げる。
「そうだけど。何で?」
「昨晩は?」
「ずっと翔太だよ。大人にあれこれ聞かれて疲れてたけど、それだけだ。俺やあいつが出張るような事はなかった。仮にあいつが知らない間に出てたとして、周りが無事で済む筈もないからな。そこだけは保証する」