01
気持ちは初投稿です
口中に鉄の味が満ちる。
飲み込んでなくなる気配はまるでない。
血が止まっていないのだ。
舌で大きく裂けた傷やぐらぐらと揺れる歯をなぞる。
恐慌をきたす心を捻じ伏せる。
泣き叫んでる暇はない。
体を起こして冷たい地面に額を擦り付けた。
「ごめんらはい」
上手く喋れない。
口から数滴血が垂れた。
後頭部に硬質な感触。
靴だ。
踏みつけられている。
徐々に負荷が増していく。
アスファルトの細かな凹凸が額に食い込む。
「今更それで、許されると思った?」
降り注ぐ声は冷然と。
失敗した。
失敗した。
甘く見ていた。
完全に見誤った。
絶対に敵に回してはいけなかった。
そのツケがこれだ。
吉成七海は、後悔と共に身を震わせた。
凄い物を手に入れた。
七海はその事で有頂天だった。
人生でこれ程浮かれた日があっただろうか。
それは中学一年、秋の出来事。
自分は選ばれたのだ。
知らない男に話しかけられた時は腰を抜かし掛けたが。
情けない話は今はいい。
学校帰りにソレを受け取り、家に帰ってまた驚いた。
魔法の傘だ。
伸縮自在。
畳んだ状態で乗れば空を飛ぶ事さえ出来た。
これだと思った。
最近話題になっていたランナーやウォーカー。
彼らは電車と並走したり、壁を歩いたり出来た。
素性を明かさぬ彼らは、生きた都市伝説として持て囃された。
その原理については今なお様々な憶測が飛び交っている。
だが、これなら出来る。
きっと彼らも似た様な道具を授かったのだ。
これがあれば、自分も都市伝説になれる。
特別な存在になれる。
学校では影の薄い自分が、人々の注目を集められる。
実現したら、どんなに心地良いだろう。
それは七海にとって何より甘美な光景だった。
その場を得る。
何としても有名になりたい。
みんなを驚かせてやりたい。
噂される存在になりたい。
その為には何をしたらいいのだろう?
七海は考え続けた。
先に待つ、輝かしい日々を夢見ながら。
自分という存在を世に放つ方法を。
まさに夢を見ていた。
夢ばかり。
現実が見えていなかった。
既に自分が何か特別な人間であるかのような。
初めてその傘を持って街に出たのは冬休みの事だ。
長かった。
今日から自分は生まれ変わるのだ。
信じて疑わなかった。
実際、駅前付近で夜空を飛び回る七海の事を大勢が指差していた。
まるで自分が世界の中心にいるかのような。
生まれて初めての充足感に酔いしれた。
勿論身元などが特定されないよう顔は隠して行動していた。
いくら浮かれていてもそこまで軽率ではない。
大勢の注目を集めるだけ集めてから、七海はその場を後にした。
その少女を見つけたのは帰り際だ。
彼女は自分と同じ様に空にいた。
何もない空中に佇んでいる。
すぐに気付いた。
自分の様に道具を授けられた人間なのだと。
彼女も選ばれたのだ。
少し、興味が湧いた。
「こんばんは」
近くの雑居ビルに降り立つのを見てから声を掛けた。
自発的に他人に話しかけるなど、普段なら絶対にしない選択だ。
興奮の余韻が七海を後押しした。
少女が無言で見上げてくる。
奇しくもその顔には見覚えがあった。
同じ学校。
同じ学年。
クラスは別だが。
名前は確か。
「――佐倉さん、だよね?」
名前を知っていたのは偶然ではない。
中学の入学式から暫くの間、車椅子で登校していたからだ。
確か、小学校の終わり頃に交通事故に遭ったのだとか。
近くの生徒達が話していたのを覚えている。
校内に車椅子の生徒がいると言うだけで、それなりに目立つ。
いつからか見る事もなくなり忘れかけていたが、治っていたらしい。
「そうだけど」
頷きながらも訝しげ。
その時、七海は気付いた。
この佐倉という同級生は、自分の事が誰かわかっていない。
それもその筈だ。
ピンク色のパーカーに黒のミニスカート。
おまけに下着も黒で統一している。
普段なら絶対にしない恰好だ。
気合を入れたかったのだ。
今日の自分は一味違うのだと。
顔についてもフードを被り、口にはマスクも付けている。
前髪が無駄に長いので目元もしっかり隠れている。
背格好から、同じ学校の誰かという事くらいは察しているだろうが。
どちらにしても、一方的な交渉が出来る。
マスクの下で、七海は笑う。
「佐倉さんの道具は、どれ?」
屋上に降りて問う。
「何が?」
首を傾げる様を見て、七海は軽く目を見張る。
(あれを見られてないとでも思ってるの?)
「いや、空を歩いてたでしょ」
何をぬけぬけと。
言葉尻に非難が点る。
七海は本来内気で、他人と話す時にはアガって上手く喋れない。
しかし今日に限っては違った。
先程までの興奮も手伝っていただろう。
相手が寡黙というのもまた、増長の一因を担っていた。
「見られてないとでも思ったの?」
それらが七海の判断を少しずつ狂わせていく。
「写真も撮ったんだから」
これはハッタリだ。
しかし効いた。
「本当に?」
変化の乏しい顔に浮かぶ、あからさまな動揺。
「本当だよ。学校のみんなにバラされたくなかったら」
バラされたくなかったら。
(何て言おう)
先を考えてなかった。
他人に対する交渉など経験がない。
どこまでの要求なら通るのだろう。
あまり迷っている時間はない。
畳み掛けなくてはいけない。
「その、持ってる道具を頂戴」
欲が出た。
本当なら傘だけでも十分だ。
あるいは似た境遇同士、助け合う道もあったかもしれない。
ともあれ、七海は地雷を踏んだ。
答えはすぐにはなかった。
「……本気?」
やはりそう簡単ではない。
諦めかけた――その時。
「そんなに欲しいなら、持っていけば?」
あろう事か、靴を脱ぎ始めた。
(え?)
危うく口に出し掛けた。
(靴だったんだ)
赤い靴だ。
というか。
(ホントにくれるの?)
ここで拒絶されていれば、七海も食い下がろうとはしなかった。
望外の結果に、思わず口元が緩む。
後になって思えば、佐倉という少女は従順すぎた。
そこに不信感を抱けなかった七海の落ち度でもあるが。
相手が実力を行使してくるなどとは、端から頭になかった。
「はい」
爪先を脱いだ靴に引っかけて、七海へ放る。
緩い弧を描いて胸元へ。
瞬間、視界が揺れた。
一拍遅れて頬骨に痛みが走る。
顔から倒れたのだと知ったのは更に後だ。
「あ、え?」
慌てて起き上がろうとしても体が上手く動かない。
何をされたのか全くわからない。
知らずマスクが外れている事にも気付かなかった。
すぐ目の前に、相手の足が見えた。
脱いだ靴も履き終えている。
状況もわからぬままに蹴り飛ばされる。
「スマホ、出して」
「え?」
何を言われているのかわからなかった。
今度は腹を蹴られる。
「ぐっ」
息が止まる。
咳き込む。
「写真、撮ったんでしょ?」
「あ」
ようやく理解出来た。
「あ、あ、あれ、嘘です」
数秒の間を置いて、また蹴られた。
先程までの自信など、とうに吹き飛んでいる。
体を丸くして襲う痛みに耐えるしかない。
「出して?」
信じてはもらえなかったらしい。
暴力が止むとすぐに従った。
「……撮ってないじゃん」
もう一度蹴られた。
ついでに地面に落としたスマホも踏みつけられた。
中のデータはともかく、液晶画面は使い物にならないだろう。
この時点で七海の中にあるのは恐怖だけだった。
「ごめんらはい」
土下座で謝罪。
許されるためなら何でもするつもりだった。
「今更それで、許されると思った?」
後頭部を踏みつけにされる。
「……お願い、しまふ」
痛みを堪えながらの懇願。
「名前は?」
「吉成、七海です」
「何で私の事知ってるの?」
「あの、同じ、学年、なので」
「そう」
これに関しては証拠を出せと言われても無理だった。
学生証などは家に置いたままだ。
頭に乗せられた足がどく。
「もう顔上げていいよ」
向こうもそこまで追及しようとは思っていないらしい。
緩慢な動作で身を起こす。
「あ、あの。これ、これ。私の」
傘を差しだす。
要求された訳でもないのに。
「いらない」
冷ややかに。
「もういいよ。でもまた絡んで来たら、こんなもんじゃ済まさないからね」
「はい……」
許されるなら何でもよかった。
プライドも何もない。
そんなものはもう粉々に砕かれている。
言うべき事もなくなったのか、踵を返して立ち去る。
背を向け切る直前、
「あと、学校でも話しかけてこないでね」
「はい」
頷く事しか出来なかった。
それからの冬休みは、惨憺たるものだった。
自信は粉々に砕け散り、昼も夜も自室に篭り続けた。
喪失した穴を埋める手段もない。
これまで以上の劣等感に苛まれる日々が続いた。
暗澹たる気持ちで迎えた新学期。
怪我も殆ど治っていたので、休むわけにもいかない。
あの晩は出血に狼狽えたが、手加減されていたのかもしれない。
渋々登校。
当然といえば当然だが、そこには佐倉の姿もあった。
見た瞬間、当時の記憶が蘇った。
肉体はともかく、心は容易に癒えはしない。
悲鳴を堪えただけでも自分を褒めてやりたかった。
その場では相手が気付くより先に一目散に逃げ出した。
とても近寄れるような精神状態ではなかった。
会話など警告されるまでもなく論外だ。
この佐倉恐怖症とでも言うべき症状は、この後も暫く続く事になる。
その為七海はひたすら逃げた。
顔を見る度逃げた。
どれだけ離れていようと目ざとく見つけ、それと同時に逃げ出した。
間違っても顔を合わせてはならない。
そのため校内では極力教室から出ない。
教室を移動する際にも細心の注意を払う。
少しでも偶発的な要素を取り除こうと、相手のクラスの時間割さえ調べた。
七海は避ける事に徹し続けた。
それこそ病的な程に。
学年が変わる時などは必死に祈ったものだ。
もし同じクラスにでもなればとてもではないが心が持たない。
幸いと言うべきか、その事態は避けられた。
それにどれだけ救われたかわからない。
そこで気が抜けたというのもあるだろう。
あるいは時間が経ってトラウマも薄れて来たか。
ともあれ、落ち着いて相手に目を向ける余裕が出来た。
かなり遠巻きにだが。
佐倉朱は、校内では至って大人しい生徒の一人だった。
友人らしい友人もいない。
迫害を受けているというよりは、自ら距離を置いているような。
立ち位置としては七海と大差ない。
実際はあんなにも凶暴なのに。
人の姿をした獣が牙を隠して溶け込んでいるような。
酷く異質なものとして、七海の目には映った。
その日、七海は傘を手に街に出た。
苦々しい惨敗から、実に数か月ぶりの事だ。
このままではいけない。
強くそう思った。
とはいえリハビリも兼ねた巡回のみ。
極力人の目に触れない事を心掛けた。
夜の街をぐるりと一回り。
朱と出会ったビルだけは意識的に避けた。
近づく事さえ躊躇われる。
とてもではないがそこまで癒えてない。
「はぁ」
ただ飛び回るだけなのに、随分疲れた。
適当なマンションを見つけて屋上へ降り立つ。
傘を浮かせたままベンチ代わりに座る。
住人の出入りが出来ない事を確認していたので、完全に気が抜けていた。
そこに、一人の男が現れた。
「え?」
長い前髪の奥で、七海は両目を見開いた。
住人――ではない。
そもそも扉から現れたのではない。
黒い服を着た少年だ。
歳は七海より上。
高校生かもしれない。
それが、他所から飛び込んできた。
隣の建物もあるにはあるが、何メートルも離れている。
人間業ではない。
(私みたいな)
すぐに思い至る。
彼も何かの道具を持っている。
「落ち着けって」
身構えた七海を見て、少年が告げる。
「別に怖がらせようってんじゃない」
無理だ。
他人に話し掛けられた時点で既に十分怖い。
「な、な、何ですか?」
声が震えた。
あの晩の記憶が蘇る。
体までもが震え出す。
「だから落ち着けって」
七海の狼狽を見て、少年が舌打ち混じりに宥める。
「お前ホルダーだろ?」
「……ほるだー?」
「変な男に道具を貰った奴らの事だよ」
言いながら首元から青いネックレスを取り出す。
「その感じだと、初心者だろ? 色々教えてやるよ」
「い、いえ。いいです」
ぶるぶると震える様に首を振る。
「遠慮すんなって」
近づいてくる。
その顔に軽薄な笑みを浮かべながら。
「い、いいです、から」
傘を抱える様に持ち、拒むように背を向ける。
怖かった。
ひたすらに。
(逃げなきゃ)
傘を浮かせる――が、判断が遅かった。
空に上りきる前に足を掴まれた。
「ひっ」
「待てって」
引き戻される。
「言ってんだろ!」
受け身も取れず地上に落ちる。
「うっ」
「舐めてんのかお前?」
「や、やぁっ」
それは、相手の手を振りほどくための動作でしかなかった。
無我夢中の抵抗。
突き出した傘の先端が、少年の肩に刺さった。
「あ?」
瞬間、その体が消えた。
「え?」
目の前に何かが落ちる。
拾い上げて見ると、少年のネックレス。
それと、一括りにされた縄だ。
「何、これ」
理解が追いつかない。
「え、あの人?」
少年が縄に変わった。
そうとしか思えなかった。
(なんで)
傘が刺さった瞬間に変わった、ように見えた。
自分の傘にそんな力があった事を、七海はこの時初めて知った。
(この力があれば)
あの時も勝てたのでは。
考えてから首を振る。
わからない。
敗北の記憶は容易に払拭出来はしない。
不意を突ければあるいは、とも思う。
しかしリスクが高すぎる。
失敗すれば今度こそ許されない。
最悪殺されるかもしれない。
どちらにしても現状では無理だ。
仮に再戦するにしても、もっと力を付けなくては。
自分の持つ道具についてよく知る必要もある。
半年近く経ってようやく他の力に気付くようでは話にならない。
だが成果としては十分。
おまけに新たな道具も手に入れた。
偶然とはいえ得たものは大きい。
(これは何が出来るんだろう?)
試しに使ってみようとした時だ。
「面白い能力だね」
背後からの声。
飛び上がる様な動作と共に振り返る。
少し離れた場所に、長髪の少女が立っていた。
年齢は先程の少年よりもやや上か。
よく見れば背も高い。
「だ、誰、ですか?」
「あぁ、別に怖がらせるつもりは――って言ったらさっきの奴と同じか」
言って頭を掻く。
見ていたのだ。
少年とのやりとりを、恐らくは最初から。
口ぶりからして仲間ではないようだが。
「あたしは安見杏子」
「え?」
まさか名乗ってくるとは思っていなかった。
「あんたは?」
「え、き」
名乗っていいのか。
相手は偽名かもしれないのに。
躊躇いに口を噤む。
「ひょっとして、さっきの奴のせいで警戒してる?」
している。
しすぎて頷く事すら忘れていた。
「こ、来ないで、下さい」
何もしなければ奪われるだけだ。
とてもではないが気を許す事は出来なかった。
信用に値するものなどない。
「いや、来るなっていうなら行かないけど」
どうにかして安心させたいらしい。
(その手に乗るか)
猜疑心の虜だった。
ただでさえ見知らぬ男に襲われて気が立っていたのだ。
偶然収めた勝利も興奮に拍車を掛けている。
(奪われる前に、奪わなくちゃ)
それが、普段の七海からは考えられない攻撃性を引き出していた。
不意を突けば勝てる、かもしれない。
相手を物に変える能力は見られたが、傘の伸縮は見せていない。
こちらは一突きでも当たればいいのだ。
伸ばせるのはおよそ5メートル。
まだ僅かに届かない。
今更ながら相手の接近を拒んだ事が悔やまれた。
あと数歩。
「……わかりました」
一旦は従順な素振りを見せる。
構えていた傘も下ろす。
この程度なら支障はない。
いざ伸ばす時に軽く手首を持ち上げるだけだ。
「本当に、敵じゃないんですよね?」
まずは一歩。
こちらの意図を隠すため、あえて警戒姿勢は崩さない。
「そっちが何もしない限りはね」
足が止まる。
(バレてる……?)
そんな筈はないと言い聞かせる。
「何ですか、それ」
心外であると示すため、わざわざ眉根を寄せてみる。
そんな事をしても前髪で隠れて見えないのだが。
「気を悪くしたなら謝るよ。でも用心に越した事はないだろ?」
言いながら、向こうからも一歩。
(今だ!)
前屈みに腕を突き出す。
同時に傘も伸ばす。
その手から、傘がするりと抜けていった。
「え?」
握りが甘かった訳ではない。
「え?」
いつの間にか、相手の手には二本の棒。
(違う)
片方は七海の傘。
それに絡み付く紐を辿っていくと、もう片方の手に持つ棒に行きついた。
(鞭だ)
突き出した瞬間、傘を絡め取られたのだ。
「あ」
奪われた。
唯一の力を。
相手が平然と近づいてくる。
「あ、あの」
謝らなくては。
しかしそれで許されるのか。
思案に揺れる。
「こりゃ」
迷っていると、頭に拳骨が落ちた。
「あ」
しかし威力はないに等しい。
「え?」
「テンパってるのは見てればわかったから、今回は不問ね」
「あ」
何と言っていいのかわからなかった。
「でもこの傘は没収」
「えぇ……」
泣きそうになる。
「少ししたら返してやるから、そんな顔するんじゃないよ」
「す、少しって?」
使わせろという意味だろうか、と首を傾げる。
一生貸せという類の理不尽な要求だけは勘弁して欲しかった。
「あたしの気が済むまで」
「うえぇ……」
大差なかった。
「あんた、名前は?」
「吉成、七海です」
傘と共に戦意すらも絡め取られてしまった。
「七海、さっきの奴は、元に戻せる?」
「わからない、です」
首を振りながら。
「あんな事したの、初めてで」
「そう」
参ったね、と前髪をかき上げる。
「もう一度刺してみたら?」
傘を一旦返却される。
「えぇ……」
受け取ってから、先程落とした縄を突いてみる。
(戻らなかったらどうしよう)
しかし懸念に反して、傘の先端が縄に触れた途端に元通り。
「あ?」
「ヘイ」
呆然とする少年に、杏子が指を鳴らしてみせる。
「え?」
未だ心ここにあらずという顔で見上げる。
「うわっ」
座ったまま仰け反り、そのまま倒れる。
「お、俺に何した?」
戸惑いよりも怯えの強い顔。
「別に何もしてないから、二度とあたしらに近づくんじゃないよ」
ほら、と少年にネックレスを差し出す。
先程まで七海が持っていたのだが、いつの間にかこれも奪われていたらしい。
「あ、これ、俺の」
「さっさと受け取って消えな」
「あ、ああ」
ぎこちなく頷く。
釈然としない顔で背を向ける。
途中何度か振り返りながら、それでも何も言わずに屋上から消えた。
「悪いけど、狙いはみえみえだったよ」
ぼんやりそれを見送っていると、そんな事を言われた。
「え?」
「さっきの一撃」
自らの胸を指差しながら。
「あ」
「道具の変形の中でも、伸縮はかなり一般的だからね」
「ごめん、なさい」
「別に、責めちゃいないよ」
だからといって開き直れる程七海は図太くない。
「あんた、その傘を貰ったのはいつ?」
「去年の、秋です」
「あたしと同じくらいじゃん」
「え?」
それでここまでの差が出るのか。
暫く使っていなかったせいもあるだろうが。
引きこもっていなければ自分も。
そんな風にも考えてしまう。
「さっきその能力を使ったのは初めてだって言ってたけど、あんまり使わないの?」
「最初は、少し」
そこから先は、あまり思い出したくない。
「でも最近は、全然」
「今日は何で?」
「な、何となく」
としか答えようがない。
一から話すような事でもない。
「ふーん」
疑ったり詮索をしようという素振りはない。
「まともに使いこなせる様になるまで、あたしと練習でもする?」
「え?」
「さっきの奴は、まぁ無害な方ではあるけど、ホルダーの中にはそこそこ危ない奴もいるからね」
(あれで無害……?)
まぐれとはいえ七海が勝てるくらいだ。
確かにその通りではあるのだろう。
「期限は一人前にまるまで。どう?」
「うぅ」
悪い話ではないかもしれない。
どころか良い。
躊躇いは、偏に七海が他人から厚意を受ける事に慣れていないせいだ。
信じていいのかわからない。
どれ位頼っていいのかもわからない。
受けた恩に対して、返せる物が何もない。
「あー……迷惑だった?」
その沈黙は、拒絶と受け取られた。
「あっ、いえ」
誤解だ。
七海自身、変わりたいとは思っているのだ。
いつまでも弱いままでいたくない。
「あの、お願い、します」
ぎこちない動作で頭を下げる。
得た力をどう使うかはわからない。
ただ、今よりはましになる気がした。
「うん。任せな」
これが七海にとっての恩人、安見杏子との出会いだった。