ヴァイデ村の四人家族【2】
狐の毛皮の帽子が二つ、おぼつかない足取りで雪中の森を進んでいる。
ぎゅっぎゅっと雪を踏む足音が二人分。ソリが雪上を引きずられていく音が、追いかける。
「な、なんで……こんな寒いんですか!?」
エルフリーデは髪の色と同じくらいに頬っぺたを赤くして、思わず叫んだ。
静謐な森に、エルフリーデの悲鳴まじりの声が木霊する。
突然響いた子供の声に驚いたのか、高い木の上の枝上から逃げるようにして小鳥の集団が飛び去った。
慣れない雪道で、何度もすっ転んでは雪に突っ込んだために、落ち葉色だったエルフリーデの帽子の毛皮はすっかり雪に染まり、凍り付いてしまっている。
いや、帽子どころか、身体中が雪まみれだった。
「なんでって……今が冬だからだよ、おねえちゃん」
メルヴィはキョトンと首を傾げる。
そして一拍遅れて──そういえばおねえちゃんは忘れちゃってるんだった、と一人で納得して、頷く。
メルヴィは手慣れた様子で足元の木の枝をいくつか拾い、小さな子ども用のソリに放った。
吐いた息が白く、空気に溶ける。
エルフリーデは知らなかったが、今は冬の盛りの時期だ。
森の中には砂糖のようなサラサラとした雪が子供達の膝の辺りまで積もり、木々の枝から時折雪がこぼれ落ちてくる。
村の中は大人たちの手で除雪されていたが、森の中は全く手が入っておらず、ふわふわした兎の毛皮が内側に縫われたブーツが無ければきっとあっという間に爪先が凍ってしまうに違いない、と、慣れない足取りでメルヴィの後を歩きながら、エルフリーデは思う。
彼女にとっては十分寒く、冷たくて、銀色の世界は驚くばかりだったが、ヴァイデ村は国のどちらかと言えば南寄りに位置し、そこまで冬の厳しい土地ではなく、雪もこれ以上深くなることはない。
そのため、枯れ枝や雪の重さで折れた枝を森で拾い集めるのは子供達の冬の間の仕事だった。
拾ってきた枝は寒さを凌ぐために薪にして暖炉にくべたり、冬の手仕事として木工細工に使われたりする。
子供達にとっては外を歩きまわる口実にもなっていて、メルヴィはこの仕事が好きだったが、記憶喪失のエルフリーデにとってはただただ寒さが強烈で、いままで好きだったのか、これから好きになれるのか、皆目見当もつかなかった。
「えっとね、冬は風の精霊が、国の北にあるおーきな山のてっぺんから氷の精霊をつれてきちゃうから、土の精霊も凍っちゃって野菜が作れなくなるの。だから冬の間は畑のお仕事ができなくなるから、畑のお手伝いはおやすみなの」
「せいれい……?」
エルフリーデはきょとんと首を傾げる。
「ちいさいのは見えないけど、たまーに、ふわふわーって、光の塊が飛んでたりするんだよ! いろんなことを助けてくれるけど、ちゃんとお話のし方を知らないとひどい目にあうから、子供は近づいちゃダメなんだって」
メルヴィはピッと人差し指を立ててゆっくりと弧を描く。きっと精霊の動きを模しているんだろう。
当たり前の様に語るメルヴィに、エルフリーデはなるほど、と頷いた。
きっとそれは常識なのだと頭に刻む。
「でも、おねえちゃんなら大丈夫なのかも」
太い木の枝を雪から掘り起こして、額についた雪を袖で拭いながら、メルヴィは呟く。
重さもあるのか、よいしょよいしょと苦闘している妹に駆け寄り、エルフリーデは枝を持ち上げた。
二人で大人の腕ほどの大きさの枝を抱えて、ソリに乗せる。
下敷きになった小枝が軋む音が妙に大きく聞こえた。
「……大丈夫って?」
「おねえちゃんはきっと”花の蜜”だから、精霊に大事にしてもらえるんだと思う」
はなのみつ、とエルフリーデが繰り返すと、メルヴィはじっと姉のペパーミントグリーンの瞳を見つめる。
その色は森の傍を流れる川の色によく似ていた。そして、父の瞳と同じ色だ。
「ずっとずっと昔からあるお話でね、妖精の女王さまが気に入っちゃった赤ちゃんの魂を妖精の国に連れて行っちゃうの」
「ようせい?」
再び雪の中の枝を拾い集めながらメルヴィは少しずつ話し始めた。
帽子を被るために首のあたりで二つに結った髪が、彼女が屈むたびに揺れる。
「光ってるだけじゃなくて、ちゃんと目に見える姿がある精霊を妖精って言うんだって。まだ見たことないんだけど」
チョウチョとかカナブンとかハチの形をしてたり、犬とか猫とかヤギとか人の姿をしてたり混ざってたり、と説明しながら、メルヴィは小枝で雪に絵を描く。
以前パパが森の外れで見たという妖精は、確か鳩の頭と翼を持った小人だったはず、と思い出しつつ描いた彼女の絵は、どうにもちぐはぐな印象の絵で、こんな不思議な生き物がいるのか、とエルフリーデは頭をひねるしかなかった。
「……あんまり上手に描けなくてごめんね」
「えっ!? う、ううん! きっと雪の上だから難しいんですよ! そ、そんなことより続きを話してください! ほ、ほら!」
しょんぼりと肩を落とすメルヴィを励ましたくて、エルフリーデはわたわたと手を動かした。
くいくいとコートの裾を引っ張って続きを促すと、メルヴィはなんとか頷く。
「……それでね、妖精だけの国が木漏れ日の向こうにあって、妖精や精霊しか”木漏れ日の向こう側”には行けないんだって」
木々の枝葉の隙間から薄い布の様に差し込んだ金色の光の向こうには、人ならざるものの国がある。
その国は沈まぬ日の光に照らされ、花が狂い咲き、苔むした大地に千年を生きる老獪な木々が精霊をそそのかしては悪戯をさせるのだという。
それがメルヴィ達の住む国に伝わる伝承だった。
事実、妖精も精霊も存在するのだが、妖精の国に人は立ち入ることができないため、その国の在る様は妖精達の口伝えによるものだったが、大人も子供もその美しい光景に一度は想いを馳せ、あるいは夢に見る。
しかし、そんな夢の片端にあるような幻の国に、数十年に一度招かれる者があるという。
──それが、”花の蜜”と呼ばれる赤子だ。
「でも、お母さんは私は花の蜜じゃないって……」
「連れて行かれちゃった赤ちゃんの魂は、向こうの国で大事にされて、七つの誕生日に帰ってくるんだって。それまでは入れ替わりに精霊の種が植えられてて、向こうの国とそっくりに育つの。だから急に帰ってきて、急に全部忘れちゃうんだって村長が言ってた。……ほら、おねえちゃんと一緒でしょ?」
いまの自分が置かれた状況とよく似た話に、エルフリーデはごくりと唾を飲んだ。
──それじゃぁ、私は家族の記憶を失くしたんじゃなくて、そもそも知らなかったんだ。
今までずっと別の世界で生きてきたなんて、想像もつかない。
エルフリーデは愕然として、自分の小さな手のひらを見つめた。
この小さな体に今まで宿っていた精霊の種はどうなってしまったのだろう。
もしかして自分が帰ってきたせいで、メルヴィのおねえちゃんをしていた”精霊の種”が消えてしまったんじゃないか?
そう考えたとたん、血の気が引いて、背筋が震えた。
おねえちゃん、寒いの? と背中を撫でてくれるメルヴィの小さな手が暖かい。
暖かいがために──胸が痛んだ。
エルフリーデは恐る恐る顔を上げて、メルヴィを見た。
「メルヴィは、今までの私が良いのではないですか?」
思い切って尋ねると、彼女は少し迷ってから、小さく頷いた。
少し傾き始めた日が木の枝越しにメルヴィを、足元の雪を照らす。
反射した光が眩しくて、エルフリーデは目を細めた。
「……おねえちゃんが……大好きだった」
聞き漏らしそうなほど小さく、掠れた声が、それでも確かにエルフリーデの耳に届いた。
悲しそうな声に、泣かせてしまっただろうかと一瞬慌ててしまったが、メルヴィは笑っていた。
「でもね、精霊の種は、おねぇちゃんを映す鏡なんだって、ママが言ってた。だから、いままでのおねえちゃんも、今ここにいるおねえちゃんも、きっと同じおねえちゃんだよ」
「私には……わからないです」
エルフリーデはそっと目をそらして首を振る。
妹の期待に応えられるのか、自分の事が分からなくて、まっすぐメルヴィを見ることができなかった。
「メルヴィにもわかんないよ。でも、きっとそうだと思う! えっと、オンナのカン!」
メルヴィは胸をそらし、えっへんと腰に手を当て、にっかりと笑った。
これではどちらが姉なのか分からないなぁ、とエルフリーデは励まされている事に気付いて苦笑した。
「メルヴィは良い子ですね」
思わずポツリと漏らした言葉に、メルヴィは目を見開いた。
しばらく驚いた様にエルフリーデを見上げて、そして、少し俯いた後、寂しそうに目を細めた。
「それ、おねえちゃんがよく言ってくれてたよ」
ぱちぱちと瞬きして、エルフリーデは自分を見つめるメルヴィを見つめ返し、少し迷った後、雪まみれの手袋で狐の毛皮の帽子に包まれた頭を撫でた。
「わ、わ、雪が付いちゃう!」
「ふふっ。私とお揃いですね」
ほら、とエルフリーデは自分の雪まみれの帽子を取ってみせるが、メルヴィはぷくっと頬を膨らませて拗ねる。
「おねえちゃんがいっぱい転んだからそうなったんでしょっ! お揃いでもうれしくないもん」
「そうですか? 残念です」
冗談交じりにエルフリーデが肩をすくめると、その言い草もおねえちゃんらしいよ、とメルヴィはそっぽを向いて呟いた。
何とかむくれてしまった妹の気を逸らそうと、エルフリーデは必死に頭を回転させる。
「えー、えーっと、そういえば、どうしてお母さんは私を『花の蜜なんかじゃない』なんて言ったんでしょうか?」
「戻ってきた花の蜜は、精霊にとって……えっと、トクベツ? だから、王子さまかお姫さまになって、お城でいつまでもしあわせに暮らさないといけないんだって」
帽子についた雪をポフポフ払いながらメルヴィはちょっと御機嫌斜めな顔で唇を尖らせながらも答えてくれる。
王子様かお姫様になる、というくだりで、エルフリーデは理解できずに首を傾げた。
「あの、”王子様”と”お姫様”が何かは分かりますけど……なろうとしてなれるものじゃないと思います」
メルヴィも同様に首を傾げて、ううん、と唸って手袋をはめた手を頬に当てた。
「わかんないけど、そう決まってるって村長が言ってた。ママもそれを知ってるから……『花の蜜なんかじゃない』って言ったんだよ」
「でも、身内にお姫様になる人がいるのは……すごいことですよね? なれるかどうかは置いておいて……」
まだ分かっていない様に眉を寄せるエルフリーデに、メルヴィは顔を近づけて、キッと睨んだ。
「ママはおねえちゃんにどこにも行ってほしくないの! メルヴィも、パパも、だいだいだーい好きな! おねえちゃんと! ずっといつまでも一緒にいたいから!お城で暮されたら会いに行けなくて困っちゃうのっ!!」
「ご、ごめんなさい! ごめんなさい!」
どうしてそんなこともわかんないの!? と完全におかんむり状態のメルヴィに慌てながら、エルフリーデは何度も謝る。
自分が大事に愛されてきたんだなということはなんとなく察してはいたが、どうやら思ったよりも愛情が深いことに気づいて、照れくさい様な嬉しい様な複雑な気持ちで、やっぱり雪まみれな手袋で、エルフリーデはメルヴィの頭を撫でた。
「えっと、メルヴィが私をとっても大好きなことはよーく分かりました。でも、花の蜜だという事をずっと秘密にしていれば大丈夫ですよね? 何か調べられたりするんですか?」
「うん、七歳の誕生日になったら、その月のうちに”花祝い”って言うお祝いを村でしてもらって、その時に分かるときは分かる……みたい?」
「はないわい、ですか?」
「花祝いはね、すっごくすーっごく楽しいお祭りなんだよ!」
花祝いという言葉にすっかり怒りをひっこめてしまって、メルヴィは楽しい話題に食いついた。
きらきらと瞳を輝かせて、ちょっと大げさに、どんなに楽しい祭りなのか、メルヴィはうっとりしながら全身で語る。
エルフリーデは妹の勢いに気圧されながらも、うんうん、と一生懸命頷きながら相槌を打った。
「村長が村の精霊石を使って、精霊のすごい力で”花の蜜”なのか調べたあとは、お花の刺繍飾りがついた綺麗な花祝いの衣を着て、いーっぱいご馳走を食べて村のみんなでお祝いするんだよ!」
今月はお姉ちゃんしかいないからお姉ちゃんのお誕生日の三日後にお祝いがあることになってたんだけど、と言うメルヴィに、「ん?」とエルフリーデは首をかしげる。
自分の誕生日は確か一週間前だったはずでは。
「村長さんのところにはいつ行くんですか?」
「あ」
そういえば、と、まんまるな目をさらにまんまるにして、メルヴィは振り返った。
ぼた、と抱えていた枝が雪の上に落ちてしまい、慌ててそれを姉妹で拾う。
どうやら、すっかり忘れてしまっていたらしい。
無理もない、と、エルフリーデは誕生日からの数日間を振り返って目を閉じる。
「で、でも、村長さんのところへ行ったら……分かっちゃうんですよね? 精霊さんによるすごい力で」
「うん、きっと精霊さん的なすごい力で分かっちゃうんだと思うの。だ、だから、ご馳走がお預けでも、おねえちゃんの花祝いの衣がお預けでも、仕方ないんだよ。うん!」
両手を握って悔しそうに歯を食い縛るメルヴィの姿に少し呆れてしまいながら、エルフリーデは頭の片隅でふと思う。
そんなに大事なお祝いをすっぽかして、村の誰も気付かないものかしら、と。