ハッピー・バースデイ
姫騎士と青年王の物語を語るには、随分と頁を遡らなければならない。
何しろ、二人の歩んだ道は平坦とはとても言えず、記憶の頁は傷や染みの痕がいくつも刻まれ、分厚く重なっている。
本来守られてしかるべき姫君が剣を取る──その決意の重さを知るには、過去の二人の道のりを避けて通ることはできない。
──始めるならば、そう。この頁だ。
姫君が騎士の道に足を踏み入れたあの日より、遡ること十年と少し前。
雪がしんしんと降り積もる、冬の夜。月のない日。
その日は、いずれ暁の王国の姫君に迎えられる運命が与えられた──とある村娘の、七つの誕生日だった。
ふと気がつくと、その少女には記憶がなかった。
目の前にある、白いクリームと苺で飾られたケーキと、七つの小さなロウソクの灯り。
それが、真っ新になった少女の物語に記された、最初の頁になった。
まず、あれ?と少女は首をかしげた。
ほんの一瞬前までの記憶が、なんの前触れもなく、少女の中から消えてしまったのだ。
今まで自分が何をしていたのか、どうして目の前に苺のケーキがあるのか、どうしてこんなに居間が暗いのか、どうしてテーブルの上いっぱいに美味しそうな匂いの料理が並んでいるのか、ちっとも思い出せない。
それから──眩しそうにこちらを見つめる知らない男の人と女の人と、小さな女の子の事も、記憶になかった。
「おねえちゃん、お願い事はきまった?」
薔薇色の髪の小さな女の子が、身を乗り出してきらきらと目を輝かせる。
少女はびくりと肩を震わせた。
おねえちゃんというのは自分のことだろうか、と少女は混乱する頭で考えて、けれど女の子に何も答えられないまま、視線だけうろうろと落ち着きなく彷徨う。
「ほら、ロウソクの火を消して。一息で吹き消すんだぞ。七つのレディならできるさ」
ペパーミントグリーンの瞳の大柄な男が、彼の大きくて手豆だらけのゴツゴツした手を少女の肩にそっと置く。
火を消して、何が起こるというのだろうか。少女は目をパチクリとさせた。
ただでさえこの目の前のケーキのロウソクしか灯りがないのに、消してしまったら真っ暗になってしまう。
もしかして、女の子が言っていたお願い事に関係するのだろうか。と考えが及んだところで、温かくて大きな手が頭に触れ、慈しむように優しく撫でた。
「フリーダ、あなたがこんなに素敵な女の子になってくれてとっても嬉しいわ」
小さな女の子と同じ鮮やかな髪色の女が、少し日に焼けた指先で少女の髪を梳く。
自分も同じ薔薇色の髪だという事を、少女はこの時、初めて知った。
愛おしげに頭を撫でる女性は、真っ直ぐに少女を見つめている。
”フリーダ”という名前はどうやら自分のことらしいと少女は思い至って──けれど、拒否感が込み上げた。
ちがう、ちがう、と絞り出すような声が何度も頭の中に響いて、少女は頭を押さえる。
「おねえちゃん、大丈夫!?」
「顔が真っ青だぞ、フリーダ!」
「どうしたの、頭が痛いの? フリーダ?」
自分に触れる三人の手の感触を少女は覚えていなかったが、不思議と嫌な気持ちはせず、怖くもなく、ぐわんぐわんと頭の中で響く声は次第に収まっていった。
「落ち着いた?」
少女の顔を覗き込んで、女が心配そうに彼女を見つめる。
何か、言わなくては。
少女は小さく息を吸って、こわばる喉を震わせた。
「……ここは……どこ?」
凍りついた顔がロウソクに照らされる。
小さな女の子は状況がわからずに首を傾げ、男は肩に触れた手を強張らせ、女は目を見開いた。
フリーダ、と掠れた声が男の口から漏れて、しかし、やはり少女はその名前に聞き覚えがなく──思わず、ちがう、と口にしていた。
「ちがう……ちがいます。私は、私の名前は……」
何かが乗り移ったように少女の口はひとりでに動き、小さな胸に蜃気楼のように浮かんだ、たった一つの名前を声に出す。
「エルフリーデ」
その瞬間、小さな針に左の胸の内側から刺されたような痛みが走って──少女は、意識を手放した。