金花寮【5】
ところで、今更確認するまでもないが、イスラ・ガザールは鹿の獣人である。
牡鹿の角は春の頃には細かな毛が生えていて柔らかく、丸みを帯びており、袋角と呼ばれる。
夏の終わりにその表皮が落ち、秋には成長しきって樹木のようにゴツゴツと硬く骨と化して、春を前にしてポロリと落ちる。
要は、彼の角は毎年生え変わるのだ。
しかし、エルフリーデはすっかり狼狽えてしまっていたので、図鑑でちらりと見た程度の鹿の生態のことなんて頭から抜けていた。
鹿がオスかメスか見分けるなら立派な角を目印にする。
それなら牡鹿にとっての角は雄の沽券に関わるものではないか?
それを損なったとなると、将来この王子様はきっとすごく困ってしまう! と、そう思い至ったのだった。
そんなわけで、エルフリーデは決死の覚悟でイスラを見据えると、ツカツカと彼に歩み寄って、角を手にした彼の手首を両手で握った。
もうすぐ十五になる彼の腕は、エルフリーデのそれよりも幾分か太く、がっしりとしている。
勢いよく掴んだので、灰白色の枝分かれした立派な角はイスラの手から離れ、カランと音を立てて床に転がった。
エルフリーデはすぅっと息を吸い込み──声を張り上げる。
「責任を取って、お嫁さんに貰いますから……!」
しぃん、と、たっぷり三拍ほど談話室から音が消えた。
アレスもイスラも目が点になって、身動きできないでいる。
あれ? とエルフリーデは首を傾げた。
「ライネちゃん──ええと、精霊塔の知り合いに借りた小説の一節に、傷をつけてしまった異性に対して責任を取るにはお嫁にもらうしかないって……書いてて……何か違いました?」
イスラは言葉を失ったまま、不安そうに自分を見上げるエルフリーデを見下ろした。
彼が黙っているので、エルフリーデは次第に威勢の良さが影を潜めて、うろうろと瞳を彷徨わせる。
じわじわとこみ上げてきた笑いを堪えられずに、とうとうイスラは顔を背けて吹き出した。
「くっ……ぶははははは!! まさかそうくるとは……っ! ふ、ふふっ! 俺がお嫁さんか! あははははは!!」
アレスはエルフリーデの宣言を聞いて石化したように固まってしまっていたが、イスラの笑い声でハッと自分を取り戻す。
二人へ大股で近づくと、イスラの頭に容赦無く手刀を落とした。
「いッ──てぇ!」
「いい加減にしろ。これ以上僕の妹で遊ぶな。もう一方の角も折られたいのか?」
「お、お兄様!?」
刺々しい──と言うのも生易しく感じてしまう、ぎらりと光る刃のような語気に、エルフリーデは目を剥く。
アレスはエルフリーデをイスラから引き剥がすと、そのまま彼女を背に隠して彼を睨みつけた。
「エルフリーデ、こいつの角は一生物ではない。毎年生え変わる。鹿だからな。馬鹿の間違いじゃないかとも思うが」
「言ってくれるな、お義兄様」
「黙れ」
ぐわり、とアレスからどす黒い炎のような怒気が立ち上ったような気がして、エルフリーデは震え上がった。
怒髪天を衝くとは、きっとこういうことを言うのだ。
しかしどういうわけか、真正面から青筋を浮かべたアレスと相対しているというのに、イスラにはちっとも悪びれた様子がなく、頭の後ろで手を組んで飄々としている。
──もしかして普段からこんな調子でアレスに怒られているのだろうか?
エルフリーデは呆れて物も言えなかった。
「しかしどうするかね、俺の角。毎年角が取れるのは冬が終わる頃だから、あと数ヶ月はこのどうにも半分側だけ軽い頭でやり過ごさなきゃならんじゃないか」
「知らん。お前がちょっかいを出したのが悪いんだ」
「はいはい、悪うござんした。……そもそも、お姫さんの細腕であれほど見事に投げ飛ばされたのが信じ難いんだが──エルフィはシロクマの獣人……なんてことはないよな?」
なるほど、髪が白くふんわりと広がっているからシロクマか。
アレスはエルフリーデに真っ白な熊の耳としっぽが付いている姿を想像して、それはそれで愛らしくて良いかもしれないと、怒りを納めて──頬が緩んだ。
つい先程まで触れれば切れる鋭い刃のような目をしていたくせに、ほんのり頬を染めてニヤける口元を片手で抑えているアレスにエルフリーデは多少思うところがあったが、それには触れないでおこうと決めて、イスラに自分の影に潜む妖精の写身の事を掻い摘んで話した。
「ははぁ、なるほどな。さっき言ってた”猫さんが”ってのはそういうことか。俺は知らずに虎の尾を踏んでしまったわけだ」
虎というか猫というか。
エルフリーデは自分の影に向かって出てくるように促したが、すっかり機嫌を損ねたらしく、黒猫は返事すらしなかった。
「お願いすれば、たぶん喜んでもう一方の角も折ってくれると思いますよ」
「そりゃ丁重にお断りしておこう。いくら不格好でも雄の鹿の獣人にとって、角は力の象徴なんだ。頭の上に何もない方が情けない」
イスラは寂しげに笑って残った方の角を指先でなぞる。
「悪かったな、エルフィ、アレス。”猫”も。ちと揶揄いが過ぎた」
「わ、私も投げ飛ばしたりして……」
「おっと、お前は謝るなよ」
イスラはエルフリーデの口に指先を突きつけた。
思いがけない言葉に、エルフリーデは目を瞬かせる。
「でも……」
「力の強いやつに手を出した俺が悪い。虎の尻尾を踏んで喰われた奴がいたなら、尻尾を踏んだ方が悪いってことだ。獣人ってのはそういう考え方なんだよ。半分獣だからな。喰われるのが嫌なら、慎重に生きろってな」
それで納得していいものか、エルフリーデにはよく分からなかった。
何も返す言葉が思いつかずにいたが、イスラは気にせずエルフリーデに一歩近づいた。
「ま、だからって俺に慎重なんて言葉は似合わない。このまましおらしくしてるつもりはないぜ? お前は見ててもつついても面白いからな!」
エルフリーデが唖然として固まると、その表情すら愉快と言わんばかりにイスラは笑みを濃くして、つんつんと彼女の頬を突いた。
「明日からよろしく頼むぜ、婿殿」
エルフリーデの脳裏にクラウスの言葉が蘇る。
『白峰の国の第二王子、イスラ・ガザール殿下です。……できるだけ、仲良くなさってください』
あの微妙な間は、きっとイスラの性格を知っていてのことだったのだ。
「同寮の同級生なんだ。勿論仲良くしてくれるよな?」
イスラは満面の笑みで僅かに首を傾けて見せる。
大人しく頷くのがなんとなく癪に感じてしまう顔だ。
やっぱりおちょくられている。
嫌な人だ。すっごく、嫌な人。
エルフリーデは頬を膨らませて、しかし首を振るわけにもいかず、頷いた。
イスラは満足そうに頷いて、後ろで見ていたアレスは苦い溜め息を吐く。
お兄様に心配をかけないためにも、これ以上彼に遊ばれるわけにはいかない、と、エルフリーデは心の中で自分を奮い立たせるのだった。
◆ ◆ ◆
まだたった一日目だというのに、頭が重く、じんじんと疼いてくるほど疲れ切ってしまった。
エルフリーデは、お風呂を済ませて寝室に戻ると、そのままベッドに倒れこもうとして──文机の上に手紙が置かれていることに気づく。
大きな硝子窓から差し込んだ月光が艶やかな机の天板に反射して、白い封筒が淡く光るように見えた。
「シーラが置いて言ってくれたのかしら」
学問塔に入ってからもエルフリーデの身の回りの世話を任されているのは侍女のシーラだった。
きっと部屋を整える際に、届いていたものを置いていってくれたのだろう。
まだ入学初日だというのに、一体誰から?
エルフリーデはどうにか柔らかなシーツの誘いを断ち切ると、文机に向かって足を引き摺る。
指先に触れた封筒は滑らかで上質な紙だった。
特に何の模様も入っておらず白いだけの封筒は封蝋で閉じられて、精霊塔の刻印がつやりと光る。
封筒の表に記されている宛名は、もちろんエルフリーデの名だ。
裏にはフリートヘルムの名が記されている。
わざわざ精霊塔の印璽が押されている手紙なんて、一体何の御用だというのか。
一見公的な文書にしか見えない封筒を恐る恐る開けてみると、便箋一枚に美しい字をした文がつらつらと綴られていた。
「これ、ただの手紙じゃないですか」
エルフリーデは脱力して、ふっと吐息混じりに笑った。
手紙を読みながら足を動かして、ベッドに仰向けに倒れこむ。
サイドテーブルに備え付けられた精霊具のランプを点けて、仄かな灯りを頼りに文字を追う。
拝啓 エルフリーデ様。
学生相手にカナリアを送ることは禁止されているので、面倒ですが手紙をしたためてみました。
学問塔へ私をお連れしてくださらなかったこと、恨めしく思います。
先生方と色々意見を交換したかったのですが、阻止されたことが残念でなりません。
──と、冗談はここまでです。本当に、冗談ですよ?
寮生活は楽しくなりそうですか?
留学生は随分と愉快な人物だとアレス殿下から聞いています。
いじわるされたり揶揄われたら、三倍返しにするといいでしょう。
困ったことがあったら何でもクラウス義兄上へ言いつけるとよろしいですよ。
無表情ですが、あれで優しい男には違いありませんから。
それでもどうしても困ったり、義兄上にも言いづらいことがもしもあったなら。
その時は、学問塔の最上階、学長の部屋の向かいにある蛇食鷲の像の冠羽に触れて”ルカ”の名を三度呼びなさい。
きっとエルフリーデ様の助けになるでしょう。
彼は否応無しに貴女《花の蜜》を気に入ることになりますから。
──ただし、この話は誰にも内緒にしてくださいね?
アレス殿下にも内密に。
追伸
音声でやりとりできないなんて非常に面倒だと思いましたが、手紙は手紙で趣があって良いかもしれませんね。
また、書くことにします。
フリートヘルム・ドレヴァンツ
「ルカ……?」
手紙に記されていた見知らぬ名前を読み上げる。
聞き覚えが全くない名前だ。
誰にも言ってはいけないなら、誰に聞くこともできないので、エルフリーデはそれ以上深く考えることはやめた。
ランプが置かれているサイドテーブルの引き出しに寝転んだまま手を伸ばして手紙を仕舞うと、暖かい色をした明かりを消し、エルフリーデは肩まで布団に潜り込んだ。
返事はまた、明日にしよう。
呟いたつもりで、声になっていなかった。
エルフリーデはそのまま泥のように眠って、翌朝シーラが起こしに来るまで微動だにせず眠りこけたのだった。




