繰る指は、物語の最初の頁へ。
暁の王国──人と妖精が互いに利用し合い、共存する国。この国に、一人の姫騎士が彗星のように現れた。
騎士となり得るのは勇猛果敢で忠誠心厚い”男子”のみ。
これが暁の王国の騎士団の取り決めだったので、まさに青天の霹靂だった。
本来は守るべき対象の姫君が守る側に回るなど、前代未聞だ。
王城は驚愕と混乱の渦にポーンと放り込まれたように誰も彼もが大慌てだったが、誰が何と言おうと、後の祭りである。
エルフリーデ姫は妖精の女王ティターニアへ名を捧げ、彼女の末子、冬の化身──ヴィンターを手に入れたのだから。
もう引き返すことはできない。それは許されない。
誓いを反故にした騎士に待っているのは死だ。
自らの立てた誓いを破れば、妖精に魂を喰われてしまう。
これが騎士の運命なのだから。
だからこそ、なってしまえばこちらのものだ、と姫君は画策したのだった。
妖精を連れて王城の自室に戻った姫君に官吏達が詰め掛けたが、王女は「もう決まったことですので」と一蹴した。
とりつく島のない彼女に殆どの官吏は諦めて踵を返したが、それでも一人の官吏が食い下がった。
どうしてこのような事を、と跪いた彼は取り乱す。
流石に良心が痛んだ姫君は、彼を追い返すことはしなかった。
それでも自分を曲げることはできなかったので、彼を真っ直ぐに見つめて、静かな声音で答える。
「お兄様をお守りしたいのです」
王女にとっては、本当にただそれだけのことだった。
「女の騎士がいないのであれば、私が一人目になります。いえ、なりました。なったのです。既成事実と言われようと知ったことではありません。お兄様のためならば、私は、手段を選ばないと決めているのです」
「しかし、エルフリーデ様──」
「試験を勝ち上がったのですから、実力も問題ありませんでしょう?」
実際に姫君は騎士団入団選抜試験を勝ち抜いたので、その年に入団する新人騎士の誰よりも強いということは、闘技場にいた誰もが承知の事だった。
これも姫君の狙い通りだった。
王城の人間だけでなく、民の目にも王女が騎士たり得る実力を持っていることを知らしめれば、それでもって騎士の誓いを果たした姿を見せつければ、"姫が騎士となった"事実は完成すると踏んだのだ。
──もしも、エルフリーデが王女でなければ。
身分詐称の罪で縄を掛け、牢にでもポイと放り込んでしまえば済む話だったのだが、生憎と彼女は王が溺愛する、彼の唯一の義妹だった。
自分が誰にも裁けない立場にあることを姫君は知っていて、彼女は己の立場を利用したのだ。
多少汚い手を取ったとしても、妹姫は兄王を守る為に──どうしても、騎士になりたかった。
「貴女は今代の”花の蜜”であらせられるというのに、何故御身を危険に晒すのですか!?」
「無礼者めが」
声を荒げた官吏を、王女に寄り添うようにして立つ彼女の妖精が睨みつける。
麗艶な男の姿をしている妖精はただでさえ迫力があるというのに、地に響くような声で凄まれたものだから、かわいそうな官吏は蛇に睨まれた蛙のように竦み上がってしまった。
「この私が、エルフリーデを守りきれぬとでも?」
比喩ではなく、一瞬にしてその場の空気が凍りついた。
床に霜が走り、官吏の口から白息が、カチカチと歯が震える音が、漏れる。
天井に小さな氷柱ができ始めたところで、姫君は妖精の手を掴んだ。
「やめてください、ヴィンター」
む、と拗ねたように妖精は顔を眉を寄せ、軽く舌打ちすると、その力を収めた。
氷柱や霜が、瞬きの間に霧散する。
「やりすぎですよ」
姫君は腰に両手を当てて──妖精はスラリと背が高いので、見上げるようにして軽く彼を睨め付ける。
「少し張り切り過ぎてしまったようだ」
と、そう曰って、妖精は悪びれもせず肩をすくめた。
「少し?これが少しなんですか?」
姫君が睨みつける目を細めて口をへの字に曲げるが、それでも妖精は反省の色を見せなかった。
それどころか、開き直ったように口端を上げる。
「仕方がない。私はお前の隣に立つ日を十年待った。十年をこのように長く感じるとは、予想もしなかったが」
妖精は姫君の髪を一房掬って、はらりと落とした。
「母上が花の蜜であるお前を、人の国へ帰したあの時から──私はずっと待っていたのだ、エルフリーデ」
姫君は、妖精が言う"あの時"を覚えてはいない。
思い出そうとしても不自然に頭に靄がかかったようになるばかりだった。
「私は、何も覚えていません」
「それはそうだろう。十年前、お前の記憶を奪ったのは私だ」
妖精が目を伏せると、長い睫毛が影を作った。
自分が記憶を奪ったと言っておきながら僅かに傷ついた顔をする妖精から、エルフリーデは目が逸らせず──じっと彼を見つめる。
「エルフリーデはここか!?」
──突然部屋の扉が大きな音を立てて開け放たれた。切羽詰まった声が、室内に響く。
床に跪いていた官吏は、彼の声を聞くとほっと胸を撫で下ろし、逃げるように部屋を退出した。
入れ替わりに入ってきたラズベリーレッドの髪をした青年は、姫君の義兄──アレス王だった。
彼はすれ違った官吏に目を向けることもせず、妹姫の傍に立つ妖精に目もくれず、王女の手を掴んで抱き寄せた。
「何という、無茶な真似をしたんだ……」
自分を抱きしめる兄の腕が震えていることに気づいて、王女は胸が針で刺されたように痛んだ。
できれば、兄の心を傷つけたくはなかった。けれど、彼を守るためだ。仕方なかったと、姫君は自分に言い聞かせる。
若い王は今に至るまで、茨の道を歩んできた。
鋭い棘にその身と心を何度も切り裂かれながら、それでも彼が足を止めずに生きてきた事を、妹姫は知っていた。
だからこそ、兄が望まないと分かっていても、彼女は彼を守りたかった。
「其方さえ傍で笑っていてくれれば……僕は……どんなに傷付けられようと、立っていられるのに……」
妹の頭に顔を埋めながら、兄王は呟くように言った。
王女は兄の背に腕を回して、彼の背を宥めるように撫でた。
彼がきっとそう言うだろうということも、彼女には分かっていた。
「お兄様、私は傷ついた貴方を慰めるだけの自分は嫌なのです。これ以上お兄様が傷付けられることが耐えられない。身も心もお守りできるようになりたいと、”あの日”にそう願ったんです」
ハッと顔を上げる兄王のラベンダー色の瞳を見上げて、王女は言葉を続ける。
「願いは決意に、そして誓いになりました。見ていてください、お兄様。私、立派な騎士になって、きっと貴方を守ってみせますから」
哀しげに瞳を揺らす兄の頬を、彼女は背中に回した手を解いて、柔らかな掌で包み込んだ。
「……その娘は最早、貴様の籠の鳥ではない」
今まで口を閉し、成り行きを傍観していた妖精が、徐に口を開いた。
兄王は妹を抱きしめていた手を離し、彼に対峙する。
妖精の女王の末息子に対して礼を欠く事は、王であるアレスであろうと許されない。
それでも、彼は両手を握りしめ、冬の化身を睨み据えた。
「仰る通り。騎士の誓いを立ててしまった以上……どうあがいても結果を変えることはできまけん。彼女の魂は貴方の物となりました。だが、命運が尽きるその時までは──僕のエルフリーデだ」
妖精は氷のような、見る者を凍らせるような目を向けて兄王と束の間、睨み合う。
しかし青年は怖気付きもせず、その瞳は不動にして揺るがない。
無意識に、妖精の口の端が上がった。
「……ああ、エルフリーデはこの国と貴様に命を捧げると誓った。最期の時が来るまでは、この私共々、貴様に預けておくとしよう」
ヴィンターは皮肉を込めた笑みを浮かべ、膝を折って跪く。
その隣に、エルフリーデも並び、跪いてアレスに拝礼した。
──こうして一人の妹姫が、愛する兄王のために騎士の道を歩みはじめた。
どれだけアレスが望まずとも、エルフリーデの天命は十年前、兄妹が出会うよりも前に下されている。
彼女の七つの誕生日の夜、エルフリーデが妖精の国を去った──その時に。