第7話 ノーバスルーム・ノーライフ
ルチアナが向かったのは、玄関ホールの片隅だった。
先ほど出現したスライムの残骸が、水たまりとなって床にわだかまっている。
しゃがみこんで水たまりを観察していたルチアナだが、やがて得心したように声を上げた。
「やーっぱりそうだ。このスライム、「金物食い」って言われる奴っすよ」
「かなものぐい……?」
「こいつらは、人間や動物だけじゃなく、金属も喰っちゃうんすよ。武器屋なんかは蛇蝎のごとく嫌われてるんすけどね。自らの体液で少しずつ金属を侵して取り込んでいくんすよ」
言いながら、ルチアナは懐から小さなナイフを取り出した。わずかに汚れやサビが付着している。
「ただ、こいつらの体液は、場合によっちゃプラスに働くこともありましてね」
水たまりと化したスライムの体液を少しナイフに付け、ハンカチで丁寧に磨いていく。するとナイフの汚れが少しずつ取れていく。
「見ての通りっす。こういう風に、こいつらの体液は、金属の汚れとかサビを浮かせる効果があるんすよ」
「おいおい、すげぇな……! こいつらがいれば、サビ取りいらずじゃないか!」
魔物の体液にそんな効果があるとはジョバンニも知らなかった。アンジェラも興味津々そうに頷いている。
「ただ、この体液は数日で劣化しちゃうんすよね。だからほとんどサビ取りとして使われることはないっす。殺した魔物で武器磨きだなんて、気色悪いしね。でも――――」
「今のこの状況なら、これは大いに役立ちますよ! ルチアナさん!」
「そういうことっす」
「……倒した魔物を利用して、浴室の掃除をしようってか。すごいことを言い出すな。でもいいアイデアだ!」
ジョバンニは水たまりに向けて風魔法を詠唱する。期待と、祈りを込めて。
「――テンペスト・ツイスター」
つむじ風が巻き起こり、スライムの体液を空中に巻き上げる。
一滴たりともこぼさないように気を着けながら、つむじ風を浴室に向かわせる。浴室のドアを開けて、スライムの体液ごと中にいれ、しっかりとドアを閉めた。
「よーし。スライムの体液がどれだけのものか、やるだけやってみるか!」
ジョバンニは締め切った浴室の中で、つむじ風をむちゃくちゃに暴れさせた。中は見えないが、嵐のように激しい音が浴室に響き渡る。
5分ほどそれを続け、ジョバンニは風魔法を解除した。3人で顔を見合わせ、ゆっくりと浴室のドアを開いた。
見違えるように浴室は綺麗になっていた。埃もサビも綺麗にはがれ、真っ白で美しいバスルームがよみがえっていた。後は丁寧に水をかけていけば、完璧に綺麗にできるだろう。
「おぉぉーーーーーーーーーーっ!!!!」
3人の歓声が、屋敷に響き渡った。
知恵と知識と挑戦心で、汚れに勝利した瞬間だった。
清潔になった浴室は、先ほどとは全く別の空間だった。透き通るように真っ白なカベに、装飾の施された鏡。まるで貴族の屋敷のような豪華さだった。
ジョバンニは家政魔法の札を手に持ち、「湧け」と命じる。その瞬間、蛇口から暖かいお湯が勢いよく噴出した。
再び3人が「おぉーっ」と声を上げた。今の自分たちには何よりもありがたいものだ。
「この札、マジで効果あるんすねー。こりゃいいや」
「勝手にお湯が出てくるなんて……すごい……! まるで魔法のようですね!」
「アンジェラ、魔法みたいとかじゃなく、実際これは魔法なんすよ」
「そうでした」
アンジェラは目を輝かせてお湯を見つめている。魔物を倒した時の凛とした表情からは想像もできないほど緩んだ顔だ。
「ジョバンニさん、これはどうやったらお湯を出したり止めたりできるのですか?」
「札に向かって命令すればいい。湧けと言えば湯が出るし、止まれと言えば止まる」
へええ、とアンジェラは何度も頷いた。
声だけで命令を下せるのが家政魔法の札の便利なところだ。しっかりと作動することが分かり、ジョバンニは胸を撫で下ろす。
「この札だけでも無事で、本当によかったです。こんな素敵なものがこの世にあるなんて……」
「アンジェラの村には無かったのか?」
「はい、こういった便利なものはあまりありませんでした。小さな村でしたので」
首を横に振り。アンジェラは答える。一瞬寂しそうな表情を見せたが、すぐに笑顔になり、別の話題を振った。
「ジョバンニさん、ルチアナさん、先に浴室をお使いください。私は最後で構いません」
「いいのか?」
「ええ。お気になさらず」
「んじゃ、ウチもジョバンニに譲るっすかねぇ。ほら、一応ここの家主はジョバンニになるわけだしだしね?」
「それはありがたい。じゃ、お言葉に甘えて」
折角なのでジョバンニはそうすることにする。入浴できる――それだけでジョバンニの心はこれ以上なく安堵していた。
◆◆◆
湯舟に湯を張り、存分に熱い湯を浴びる。それだけ気持ちがすっと落ち着いた。
細かいこと、難しいことをはひとまず明日考えればいい。目の前の問題はとりあえずクリアできた。ならこれでいいじゃないか――と、肩の荷が下りた気分になれた。
十分に温まってからジョバンニは入浴を終え、風魔法で全身を乾かした。
ルチアナが入れ替わりで浴室に入り、ホールにはジョバンニとアンジェラだけとなる。アンジェラは鎧を脱ぎ、普段着になっていた。
「お、鎧脱いだのか」
「はい。今は戦う用事もなさそうですし、脱がせていただきました」
黒いブラウスにベージュのスカートという落ち着いた服装だ。こうしてみると、本当にどこにでもいそうな少女である。
「……それにしても。スライムを一刀両断できるなんて、剣の腕があるんだな。さっきは助かったよ」
「いえいえ。もったいない言葉です。襲われている人を助けるなんて、当たり前の事なのですから。こちらこそ、こんな私を仲間にしていただいて感謝しているのです」
感謝を伝えたはずが、逆に感謝されてしまった。
ジョバンニが、アンジェラについて知っていることはまだ多くない。とりあえず、心にぱっと浮かんだことを質問してみることにした。
「アンジェラの鎧と剣、なかなか迫力があるよな。あれ、重くはないんだよな?」
「はい、特殊な金属でできているそうなのです。頑丈な割に、とても軽くて動きやすいのですよ」
普通の金属ならば、着ているだけでずっしりと重いはずだ。あの俊敏な動きは、装備の軽量さによるところもあるのだろう。
「私は取り柄の少ない人間ですが、魔物を退治することは得意でした。あの鎧と剣は、15歳の誕生日に村の人から贈られたものです。私の命を何度も救ってくれました」
「宝物ってわけか」
「そうですね。宝物……と言ってもいいのかもしれません」
女性に剣と鎧のプレゼントというのは似つかわしくないようにも思えるが、アンジェラは嬉しそうに微笑んでいる。彼女にとって大きい拠り所であることは間違いないのだろう。
「ジョバンニさん。あなた方をお守りできて……私はとても嬉しいのです。ありがとうございます」
「おいおい、それはこっちのセリフだよ。危ないところを助けてくれて感謝してる」
アンジェラはそれを聞いて、満面の笑みで頷いたのだった。
そうやって話し込んでいると、ルチアナが髪を拭きながらホールにやってきた。
「はーい、風呂終わったっすよー。次、アンジェラちゃんどーぞー」
「あ、はい、それでは失礼します」
入れ替わりで、アンジェラが立ち去っていく。ルチアナはソファにどっかり座りながらジョバンニに注文する。
「あー、そうだ、ジョバンニさぁ、ちょっと風魔法かけてくんないっすか? 髪を乾かしたいんすよね」
「やれやれ、しょうがねえな……動くなよ」
手をかざし、微風をルチアナへ送る。「うひょー」と言いながらルチアナは風を受け、髪を整えた。
「いやー、助かる助かる。最初はボロい屋敷かと思ったっすけど、どうにかなるもんすね」
「全くだ。なんとか生活だけはできそうだな」
「ありがたいっす。安心できる居場所があるってのはいいっすね。ウチみたいなのはたまに嫌われるっすからね」
「そうなのか? ルチアナは世渡りがうまそうな気がするが」
ルチアナは「いやいや」と手を振る。
「ダークエルフってのを、嫌う連中もいるんすよ。禁じられた暗黒魔法を使うとかなんとか言ってね。まったく下らねーっすよね」
「そういうヤツがいるのか」
「たまにっすよ。たまに」
「嫌なもんだな。そういうの」
「まあね。でも私は切り替え早いほうっすから大丈夫っすよ。楽しいことをいっぱい考えるのが、この世の荒波を乗り越えるコツっすからねぇ」
笑って、ルチアナは答える。まるで清涼剤のようにすっきりとした表情だった。
ダークエルフというと、ジョバンニにとっては、何を考えているか分からない不気味な印象があった。だがルチアナはそのような雰囲気は特にない。
実際に会って話してみないと分からないもんだ、としみじみ思う。
そうやってソファに座っているうち、少しずつジョバンニに眠気が差してきた。リラックスしているうちに疲れがまとめてやってきたのかもしれない。
半日の間に驚くほど色々なことがあった。だが悪いことばかりではなかった。明日はもっといい方向に進めるはずだ、とジョバンニは信じる。
――今はボロ屋敷だが、それでも俺の居場所だ。
きっとどうにかなる。どうにかしてみせる。簡単に諦めたりはしない。くじけずに行動してみれば、自分の人生を少しずつ取り戻していける。
そんな風に、ジョバンニの心に静かな決意が染み渡っていった。
そうやって目をつぶっていると、浴室の方からアンジェラの慌てた声が聞こえてきた。
「す、すみませ--んっ!! お湯が止まらなくなってしまったのですが、どうやって止めたらいいのでしょうか?!」
何事かと振り向くと、タオル一枚だけ巻いたびしょ塗れのアンジェラが血相を変えて走ってくる。
――一瞬、その場の空気が止まった。
「お……おい! ちょっと待て! その恰好でここに来るのはやめとけ!」
「す、すみません、でもどうしたらいいのかっ」
咄嗟にジョバンニは顔を赤らめ、目を背ける。異性の裸は嫌いではない。だが知り合って間もない人の裸体を見つめるのは申し訳なさすぎる。
あわあわと慌てるアンジェラを、ルチアナが素早く浴室に連れ去っていく。
「ちょーっと別室に移動してみるっすかね、アンジェラちゃん。ジョバンニはちょっと浴室を調べてくれないっすか」
「わ、分かった」
慌ててジョバンニは立ち上がった。
◆◆◆
調べたところ、原因はすぐに分かった。
家政魔法の札は古くなっているため、たまに命令を受け付けないことがあるのだ。そういう場合は慌てず、何度かはっきりと命令を発音することで問題なく使用できる。
「そ……そういうことだったのですね。お騒がせしました」
しっかりと服を着たアンジェラが、恥ずかしそうに詫びた。
「いや、いいんだ。不明な点はすぐに確認してもらえりゃそれでいい。しかし裸で飛び出してくるのはちょっといかんぞ」
「裸で人前に出てくるのは良くないことなのですね。承知しました」
「いや、それくらいは常識というか……親とかに教わるもんだと思うんすけどね」
「お二人とも、すみませんでした。しっかりと覚えておきます」
アンジェラは、しゅんとうつむいてしまっている。見ているこちらが気の毒になってくるので、ジョバンニはぽんと肩を叩いてやった。
「まあ、次から気を付けてくれたらそれでいいんだよ。失敗は誰にでもある。俺の親父もそう言っていた」
「はい。そうします」
少し表情が和らいだ。色々あったが、とりあえずこれで良しとすることにした。ひとまず入浴と言う目的は達成されたのだ。
それと一つ分かったことは、アンジェラは、思ったことが顔に出やすいということだ。顔が口ほどに物を言うタイプなのかもしれない。
「とりあえず、風呂には入れたんだ。それで良しだ。夜も遅いし、そろそろ寝るとするか」
「賛成っす。色々あって疲れちゃったっすねぇ。ふわぁ」
ルチアナが大きなあくびをする。
「2階の寝室を使ってくれ。寝るくらいなら問題なく使えるはずだ」
「はい、お世話になります」
ボロ屋敷でも、体を横たえて休むくらいのことはできる。それで充分だ。
安心して眠れる場所がある。壁があり、屋根があり、床があり、寝具がある。それだけでも今のジョバンニにとっては安心できることだった。
お読みくださりありがとうございます。次話更新は9/15です。