第3話 取引と交換材料
男はヘンリクスと名乗った。彫りの深い顔と髭のおかげで、威圧的な印象を醸し出しているが、話してみるとごく普通の中年男性である。
「古屋敷を売ってくれるって、どういう意味なんだ?」
ジョバンニが問うと、ヘンリクスは頭を掻きながら答える。
「そのままの意味だ。俺はな、誰も住まない「空き家」を持ってる。住みたいというやつがいるなら、とっとと売ってしまいたいと常日頃から思っていたのさ」
正直に言うと、それはうさんくさい話だった。
たまたま近くに座った男が空き家を偶然持っていて、それを自分に売ってくれるなどという話があるだろうか。
ジョバンニの心には疑いが広がっていく。家を追い出されたばかりで、すぐに信用しろという方が難しい。
少し目を細め、ジョバンニは尋ねた。
「ふーん……ちなみに聞くけど、その家の値段は?」
「おぉ、安く譲ってやるぞ。5万トランだ。それで権利書を渡してやろう」
家の値段としてはあまりに安すぎである。
新しい家を建てるとなると、数百万トランはかかると聞いたことはある。それを考えれば破格すぎる。5万トランとなると、大きなテーブルが1つ買えるくらいの金額だ。
「なんじゃそりゃあ。いくらなんでもそんなワケないだろ。あまり人をおちょくるな」
「まあ待て、最後まで聞け。安いのには理由があるんだ」
疑うジョバンニだが、ヘンリクスはさらに続ける。
「順を追って話そう。俺は数年前、死んだ親戚からある屋敷を受け継いだんだ。その屋敷ってのがいわく付きでね」
ヘンリクスは声を潜めた。
「何でもその屋敷は、50年以上前、どっかの貴族が別荘として建てたものらしい。しかしその貴族は運悪く、病気になって死んでしまった。そして取り残された屋敷は、マゴニアに住む別の富豪の元へと渡った。しかしその富豪も商売がうまくいかなくなり、借金のカタで屋敷を手放した……。そうやってどんどん色々な人の手に渡るうち、屋敷はボロボロになり、誰も欲しがらなくなっちまった、というわけらしいんだ」
その声色は、まるでおとぎ話を語るかのようだ。
「事実、それは大きな屋敷だ。ただし、むちゃくちゃなボロ屋敷なんだよ。ところどころ雨漏りはするし、窓も割れちまってる。誰も引き取ってくれないから仕方なく手元に置いてるだけだ。しかも、屋敷の中に魔物まで住み着いてるようなんだ」
「おいおい、大丈夫なのかそれは」
魔物の棲み処となると、近所にも被害が及ぶかもしれない。とんだ訳あり物件だ。
「俺だってどうにかしなきゃとは思ってるさ。住居に魔物が出たら、その建物の持ち主がどうにかする責任があるからな。ただ俺じゃどうにもならん。金が無いんだ。誰かに依頼することもままならねぇ」
ヘンリクスの声に元気がなくなっていく。
「俺ぁ、うっかり賭け事に手を出しちまって、借金を抱えてる最中なんだよ。早いとこ金を用立てなきゃならねぇ。だからもう、あんなボロ屋敷は今すぐ格安で売っちまいたいんだ」
説明するヘンリクスの目は真剣そのものだ。額の汗をぬぐいながら、必死で身振り手振りを交えて話をしている。
話を聞くに、その屋敷は明らかに住み心地は悪そうだった。ポジティブな単語がまるでない。
普通ならば信用できる話ではないだろう。
だが、自分でも驚くべきことに、ジョバンニはその屋敷に興味を持ち始めていた。
この雨の中、あてもなく街をさまよい、自分に当てはまる物件を見つけられる自信がまるでなかったのだ。
考え込んでいると、女店主が話に割り込んできた。
「その男の話、嘘ではないと思うよ。そいつは嘘がヘタだからね」
その言葉を受け、ヘンリクスも安心したように首を振って頷く。
「そ、そうともさ。俺は正直者で有名な男だ」
「ヘンリクスは何をやってもすぐ顔に出るからね。そんなだからギャンブルで負けるんだよ」
「うるせぇよ」
その言葉で、疑いの気持ちは少し消えた。この女店主は、ずぶ濡れの自分を嫌がらずに料理を提供してくれた。その人の言葉なら、信じてみてもいいのかもしれない。
ジョバンニから見ても、ヘンリクスの態度は必死そのもので、心の底から困っているのだろうと思えた。ジョバンニ自身も居場所を奪われた人間だ。何か通じるところがあるのかもしれない。
――雨を凌げる居場所が今すぐに欲しい。今のジョバンニが考えることはそれだけだ。
「魔物がいる家を売りつけるなんて、本来なら断るところなんだろうな」
ジョバンニが言うと、ヘンリクスは眉を上げた。
「だがその話……興味がある。どんなボロ屋敷でもいい。俺ならその魔物を倒せるかもしれない」
「本当か?!」
ヘンリクスは分かりやすく色めき立った。
「俺は風魔法が得意なんだ」
ジョバンニは財布から金貨を5枚取り出し、呪文を詠唱する。
「――テンペスト・ウィンド」
途端、店の中に風が吹き、金貨を空中に浮かび上がらせる。
「ほぉ……」
ヘンリクスは目を丸くする。女店主も身を乗り出して見物を始めた。
5枚の金貨は、ジョバンニの意思に従い空中を舞う。金貨たちはまるでサーカスの曲芸のような動きで宙を踊り狂い、最後はジョバンニの手のひらにちゃりんと綺麗に収まった。
父親とは、よくこうやって金貨を空中浮遊させて遊んでいたのだ。
「すごい、すごいねぇ」
女店主は上機嫌になって拍手してくれた。ヘンリクスも面白そうに笑っている。
「まあこんな感じで、魔法にはそれなりに自信がある。魔物退治も込みってことで、俺に家を売ってくれないか?」
「そりゃ頼もしいぜ。へへ、そう言ってくれるなら決まりさ。よし、早速家まで案内するぜ」
本来はもっと吟味すべきなのだろう。
だが、ジョバンニはとにかく安心が欲しかったのだ。
それが本当に最善の判断か――そんなことはどうだっていい。目の前に「居場所」を獲得できるチャンスがあるなら、それを全力でつかみ取るのが、今のジョバンニにとっての最善なのだ。
「よーしよし、それじゃついてこい。5万トランの屋敷まで案内してやる」
ジョバンニは席を立ち、女店主に一声かけた。
「それじゃ俺は行くよ。代金はここに置いとく。料理ありがとう。うまかった」
「なんだかあんたも大変そうだね。気を付けなよ」
店の外は、いつの間にか雨がやんでいた。かすかに風が吹いて、ジョバンニの背中を押した気がした。
自分の居場所。一度は失ってしまったそれを、今度は自分の力で手に入れる。少なくともそのチャンスは手にできた。
(――やってやる。うまくいくかは分からないけど、きっと成功させてやる)
そんな決意が、ジョバンニの胸で燃えていた。