第2話 雨とレストラン
ジョバンニは自分の荷物をまとめた。荷物袋に持っていける私物を入れると、ちょうどズタ袋一つ分だった。
「もう二度と会う事もないでしょう。まあ、お達者でね」
リチャードはにこやかにそう言った。表情とは裏腹にひどく冷たい声だった。
「……ああ、こっちこそ二度と会いたくないね」
荷物袋を持ち、吐き捨てるようにジョバンニは言う。
「リチャード、あんたみたいな奴にはいつかきっと報いが来るぞ。いつか絶対に痛い目を見るぞ」
「はは。分かりました、覚えておきますよ」
それで話は終わった。
扉は閉められ、即座にカギがかけられた。さっきまでは自分の居場所だった建物は、もうジョバンニが立ち入ることも許されない。自分の家からの、自分の居場所からの追放だった。
「……くそ、くそっ、ちくしょう!」
思わず怒気がこぼれた。口の中に苦い唾がたまっていく。ぶつけようのない怒りが言葉になってほとばしるが、やがて何の言葉も出なくなった。
ジョバンニはズタ袋から財布を取り出し、所持金を確認した。幼いころに父親からプレゼントされた小さな財布だ。
財布には、大きさの違う金貨が入っている。「10000」「5000」「100」などと刻まれた金貨は、トラン金貨と呼ばれるこの国のお金だ。
それらを全て合計すると、おおむね7万トランほどだった。それが全財産だ。
切り詰めながら食事と宿でお金を使っていけば、一か月は過ごすことができるだろう。
ただし、それまでに新たな家と仕事を見つけなければならない。それが叶わなければ、いずれどこかで野垂れ死にだ。
あてもなく歩いているうちに雲行きが変わり、雨が降り始めた。すぐに土砂降りになって、ジョバンニは雨を凌げる場所を探すことにした。
「くそぉ、ついてねぇよ。何もこんな時に降らなくたっていいだろ!」
なるべく木陰を選んで歩いた。しかし体は少しずつ冷えていく。そうこうするうちに空腹になってきた。疲れてはいないはずなのに、体中が泥のように重かった。
そのうち、雨が強く振り始め、ジョバンニは歩みを止めて近くの家の軒下に隠れた。体が濡れると体力が奪われる。それは避けておきたかった。
ジョバンニは上着を脱いで木の枝にひっかけ、風魔法を詠唱した。
「――テンペスト・ウィンド」
小さな風を起こす魔法だ。途端にそよ風が吹き、上着をはためかせた。しばらくそうしていれば、上着は乾く。完璧に乾燥はできなくても、それなりにマシになるはずだ。
風魔法。それは文字通り、風を操り、大気に命令を下す魔法である。ジョバンニは初めはそよ風程度の風しか起こせなかったが、何度も訓練するうちに自在に風を発生させることができるようになった。
訓練を始めてから3年後には、真空の刃を発生させ、離れた場所にある木の枝を寸断することも可能となった。
だが今は、服を乾かすくらいしかできない。
「ついてねぇなぁ」
地面にしゃがみこみ、小さく漏らす。こんな時、父親なら何と言うだろうか。未来の見えない状況で、どうやって自分を奮い立たせるのだろう。
一人で雨を見守っていると、背後から嫌な気配を感じた。
「……?!」
振り向くと、目をぎらつかせた野犬がいた。体中が汚れており、呼吸が荒い。
「グルル、グルルルルゥゥッ」
唾液を滴らせながら近づいてくる野犬は、明らかに自分を標的としている。ジョバンニの体中にぞくりと悪寒が走った。今、自分は襲われる対象と見なされているのだ。
「おい、近づくな! 失せろ!」
「グル、ガルゥゥォォォッ!!」
断る、とでも言いたげに野犬が飛び掛かってきた。躊躇している暇はない。ジョバンニは早口で呪文を詠唱する。
「失せろと言ってる!! テンペスト・ツイスター!!」
瞬間、野犬の体が浮かび、強いつむじ風に巻き上げられて遥か彼方へ飛び去った。
小型の竜巻を生じさせる魔法である。野犬は吹っ飛び、再びジョバンニ一人になった。ほっと息を吐きだし、ジョバンニは木を背にしてずるずるとしゃがみこんだ。
「くそっ、俺は結局こうなる運命なのかよ」
奪われ、襲われ、拒否され、誰かの踏み台にされる。そうなりたくなくても、そうなってしまうのだ。
ジョバンニは、幼少の頃の、父との会話を思い出す。
「なあ父さん、なんで俺を拾ってくれたんだ?」
「拾った理由か。うむ……実を言うとな、お前を拾ったのは、そんな深い理由はなかったんだ」
「えぇ? そうなの?」
「ああ。あの時は夜だった。仕事の帰りに空を見たら、満天の星空でな。こりゃ綺麗だと思って歩いてたら、うっかり赤ん坊のお前を踏んづけてしまったんだ。お前が泣き出すもんだから、俺はそりゃもうびっくりしたさ。で、俺は仕方なくお前を家に連れ帰って、怪我がないか調べた。そしたらお前が俺に懐いてしまったんだよ」
「そんな理由だったんだ」
「ああ、そんな理由だ」
今にして思うと、自分がこれまで平和に暮らしてこれたのは幸運だったのだろう。
クラムに拾われていなかったら、今のように野良犬に襲われ、幼い自分はとっくに死んでいたはずだ。
(俺は家に住むことを当たり前だと思ってたが、きっと違う。親父に巡り合えたのは奇跡だ。居場所があるってのは、本当に恵まれたことなんだ。今わかった)
雨音を聞きながら、ジョバンニはそう思う。
――居場所が欲しい。何の心配も痛みもなく、安らげる自分の居場所が欲しい。「家」が欲しい。そのためなら、きっと自分は何でもできる。
そんな、渇望にも似た感情が、ジョバンニの心にも雨雲のようにたちこめていくようだった。
◆◆◆
雨が小降りになってきたので、ジョバンニは再び歩き始めた。するとやがて、目の前に灯りの付いた建物が見えた。レストランという看板が見える。雨宿りできるならばどこでもいい。その一心でジョバンニは迷わずそのレストランまで走り、扉を開けた。
狭いレストランだった。席があまりない。しかし清潔で、落ち着いた店だった。
店の中にはもう一人客がいた。髭を生やした武骨な男だ。日に焼けていて体格がいい。
ジョバンニはカウンターの一番奥に座る。
「いらっしゃい。何にしますか」
奥から女性の店主が現れた。ローブをかぶった気怠そうな女性だ。表情や佇まいは倦怠感が溢れていたが、よく通る声をしていた。
ジョバンニはメニューをざっと見て、ひとまず一番安いものを注文することにした。
「……それじゃ、このミニパスタを一つ頼む」
「はいよ」
10000トラン金貨が1枚あれば、このミニパスタがたらふく1週間は食べられる。節約を心掛けつつも、とにかく今は空腹を満たしたかった。
店主は奥へと引っ込み、ジョバンニは一人になった。
外は叩きつけるような雨が降り続いている。ジョバンニの心は重かった。これからどうすればいいのか全く見当がつかない。
体はずぶ濡れで、腹ペコで、心がしぼんでいくのを感じる。
(だめだ、こんな状態で前向きなアイデアなんて浮かぶわけない。今は食事を待つことに集中しよう)
なすすべなくうつむいていると、店主が料理を持ってきた。
「ミニパスタだよ」
「ああ、ありがとうございます」
量少なめのパスタだった。野菜や貝が申し訳程度に添えてある。一口食べてみると、想像以上に美味しかった。
「……うまいですね」
「そりゃどうも。いやあ、この雨で客も少なかったんでね、助かるよ」
店主はニヤリと笑った。
パスタを口に運ぶうち、少しジョバンニの心に余裕が出てきた。いつまでも悩んでばかりもいられない。これからどうすればいいかを考えなければならない。ジョバンニは店主に尋ねた。
「なあ、少し聞いてもいいかな」
「何だい、お客さん」
「変な質問かもしれないが……実は家を探しててね。いろいろ事情があって、今住んでいる家を離れなきゃならなくなったんだ。そういう時はどうすればいいのかな」
「ふむ、家ね。大通りの隅に、住む場所を斡旋している不動産屋がある。そこで相談してみればいいんじゃないかね」
頷くジョバンニだったが、店主は険しい顔で続ける。
「ただ、どうかねえ。この街の不動産屋は、金持ちじゃない奴に、ひどい物件を案内することもあるそうだ。人を見て判断されちまうのさ」
「そんなことが……」
「あんた、あまり金持ちって風じゃないだろう。それに若い。良くないアパートを紹介されるかもしれないね」
それを聞いて心がまた沈んだ。結局自分は足元を見られてしまうのかと暗澹たる気持ちになった。
「全ての店がそうじゃないけど、悪い店があちこちにあるんだよ。嫌になるね、全く」
「そうなのか。俺みたいな人間じゃ痛い目を見そうだな」
「かもしれないねぇ」
女店主はカウンターの向こうに座り、静かに頷く。
この雨の中、良心的な店を探し当て、住居を見つけるなどということができるだろうか。ジョバンニは全く名案が浮かばない。
どうしたものかと考え込んでいると、先にカウンターに座っていた男が声をかけてきた。
「おい、あんた、住む場所探してんのか」
「あ、ああ。そうだけど」
髭面の男は水を一気に飲み干し、「ふむ」と考え込む。そして髭をなでながら、こう声をかけてきた。
「贅沢を言わないのなら、俺が持っている古屋敷を格安で売ってやってもいいぜ。お前さんに」
「……え?!」