2話、好奇心は狂気に出会う。
放牧地帯が終りに差し掛かり、集落はもうすぐそこにまで迫っている。
もうだめ。
もうだめ。
もう、腹減りすぎてだめ〜!
と心の中で絶叫していた青年は、言い争っている声を聞きつけた。
―うん?
何だか、いや〜な雰囲気?
青年は近寄らないことが賢明であると思ったが、少しばかりの好奇心が自然と声の方へと体を引っぱっていく。
どうやら、家畜小屋の付近で話しているようだ。
家畜小屋に近づくにつれ、耳にキンキンとくる甲高い声と、くぐもった低い声が聞こえてきた。
耳を澄ますまでもなく、会話は只漏れだ。
「この子も買ってくれてもいいだろう?」
甲高い女の声が不服そうに声を荒げ、
「おいおい…よしとくれよ。うちは、牛馬しか買わないって言ってるだろう。」
迷惑気に男は素っ気なく返していた。
問答を繰り返している様子が気になり、青年はひょいっと、相手の姿が見えるぎりぎりの所まで近づいた。
さして、何かを思ったわけではない。ただ、
この子って、さっき見た羊か?
牛馬以外は買わないという男の声に、青年は確認のために顔を近づけただけだった。
「銅貨1枚でもいいってんだから、いいじゃないか!」
怒鳴りつけるように女は続ける。
―銅貨1枚なんて、タダ同然じゃないか!!
小さいパンすら買えん。
パンは1番小さなものでも、銅貨10枚というのが一般的だ。
かなり安くても、7枚。
大人が昼食として食べるなら少なくとも2つ以上は購入するため、最低でも銅貨20枚払うことになる。
しかし、パン2つの食事なんて、とても満足するようなものではない。せいぜい、小腹を鎮めるぐらいが関の山だ。
普通に腹が満たされるモノを、と思えば食堂で銅貨50枚以上は払う。
羊をそんな少額でやりとりするのか?変じゃないか??
青年は首をかしげながら、もしそうだったら、速攻買っちゃうかもと懐具合をちらりと確認する。
そこには、銅貨5枚しか入っていない。
つまり、青年は小さなパンすら、現在買うことができないわけである。
そんなことをつらつら考えていた青年の益体もない思考は、男の怒号で遮られた。
「うちは奴隷商じゃないんだ!
子供なんか受け取れるわけないだろう!それに、あれは……」
男は始めは激昂して唾を飛ばしていたが、最後の方はもごもごと口を噤んで視線を彷徨わせた。
― 子ども!!!
ちらりりらりと男が彷徨わせる先には、離れたところで周りを牛に囲まれた子どもが立っていた。
一見しただけでは、男か女かわからない。
ひどく、痩せた子どもだ。
男が落ち着かないところに、女がゆっくりと口を開いた。
「……家畜を看る番にでも役に立つよ。
この前、番を探していると言ってたじゃないか!
…………もちろん、あんたが次の町で売ったっていいんだよ。」
女は子どもをちらりとも見ることなく、話している。
その声はひどく冷たく投げやりとさえ思えるが、罪を被せる人間を見つけた愉悦を隠しているようにも聞こえた。
「――そんなことは、無理だ。」
そんな女に、男が声を落して言ったことに、
― うんうん。あんなに小さな子を家から追い出すことに加担なんてね〜
と胸を撫で下ろしかけたが、次の言葉でそれは裏切られた。
「あんな化け物、無理に決まってる。
次の町に行くまでに、俺が燃やされる!!
俺はっっ……」
男は、恐怖で顔を引きつらせた。その様子は尋常ではない。
そんな男に、女はくくっと薄く笑う。その目には狂気が透けている。
「…大丈夫さ。
神官様に“口封じの法”をしてもらっている。
あれは、今は何もできやしないのさ!」
その女は、こんな長閑な集落にはあまりにも似つかわしくなかった。
その女の言葉は、青年は凍りつかせるには十分だった。
“口封じの法”というのは、罪人への刑罰の1つともなっているものだ。
もしくは、敵対するものに法術・精霊術を使わせないためだとか、魔獣に対して使うものであって、普通の生活をしている者に施すようなものではない。
青年が見つめる先にいる子どもは、10才になるか、ならないかぐらいの子だ。
―こんなに小さな子に…
呆然としていた青年を置いてけぼりにして、なおも2人の会話は続いていた。
「口を封じたところで、何になる!!
あれは、災禍の取替えっ子!親殺しの化け物じゃないか。
大事な家畜の番を任せることなんかできやしない!!
そんなこと、わかりきったことだろ…みんな知ってることじゃないか。
たとえ、売ろうたって、あんな化け物売れないどころか、
罰金として俺のかわいい仔たちが奪われちまうじゃないか!!!」
男が興奮した口調でまくし立てるが、女は狂気を帯びた目つきで男を見ているだけだった。
その視線は薄ら寒いものを感じさせる。
その目を見た瞬間、青年はダメだと思った。
何が、ダメなのかも分からなかったが、とにかくダメだと思ってしまった。
そして、青年は我知らず2人に向かって歩いていた。