3rd.イヤガラセ
涼しい風が丘を撫でる草原にポツリと生える大樹の下。一人の少年と一人の女性が向かい合って座っていた。
少年は睨むような目で女性を見、女性の方は満面の笑みで少年を見ている。
「整理したいんだけどさ、ルーシーは何のためにこの世界に俺を連れてきたわけ?」
「えっとねぇ、まず君の態度になーんか腹が立って、『死にたいとかほざいてるから死なせないようにすればいいやぁ』って思ったって感じかな」
既にその時点で二、三箇所突っ込みたい。
なんだ、「なんか腹が立って」って。通り魔か何かか。
そして腹が立ったからして欲しいことの逆のことをすればいいって、子供か。まごう事なき子供の理論だ。
「まぁ通り魔的なクズの反応とガキみたいなアホな発想はひとまず置いとこう」
「なんかアマネってば急に発言が辛辣になったねぇ。なんかあった?お姉さんに相談してもいいのだよ?」
「相談なら胸に手を当てて自分とでもしててくれ。
それより続き。その理屈でなんでわざわざ異世界になんて連れてきたのさ」
「えー」と口を尖らせてその場に寝転ぶルーシー。
彼女の身体をサクッという軽い音とともに草原の背の低い草たちは抱きとめる。
ルーシーは気持ちよさそうに目を閉じ木漏れ日を顔に受けくすぐったそうな顔をしている。
草原と木漏れ日とそこに寝転ぶ美女、絵になる光景だ。尤も寝転ぶ美女の性格を知らなければの話だが。
ルーシーはだらけた姿勢のままで艶やかな唇を動かして言った。
「言ったろ?ボクは君を死なせない。
いや噛み砕いていうなら、君が死ぬことを許さない、かな。
でも君が元いた世界でボクがつきっきりってのもマズイだろ? 他の人たちの目もあるだろうし。
ならそういう柵もないこの世界でなら無理なく出来るんじゃないかって思ったわけさ」
「頭良くなーい?」と、からから笑いながらルーシーは右へ左へと寝返りをうつ。その純白の髪には短い緑の草の葉が絡んでしまっている。
まぁ彼女の言った理由に関しては前提部分さえ無視すれば筋は通っている。だが、それにしたってーー
「費用対効果が最悪すぎない?
わざわざ異世界旅行をしてまで価値のあるかも分からないよう、いつまで続くかも分からない男の命を無理くり繋げるなんて。だってーー」
「あ!言い忘れてた」
口元に手をあて、パッと起き上がってルーシーは叫んだ。
「今の話にも関連するけどボク、君と契約を結んで君の僕になったから、よろしくぅ」
「は?」
アマネは唐突にぶち込まれた話についていけず呆けた声をあげてしまう。
この悪魔はなんと言った? 契約を結んで僕になったと言っていた。それもかなり雑に。というか僕の態度じゃない。
「ひとまず落ち着こう、まだ慌てるような時間じゃない。契約と言っても大したものじゃないかもしれない。契約の内容をまず聞いてからだ、それからーー」
「あ、契約の内容は『ボクは君を死なせず生かす』だから、。そこんとこよろしくね、ご主人様」
「わあぉ、超絶重いのぶち込んで来やがったよ!? なんて雑にご主人様(仮)に絶望を押し付けてくれやがるんですかねぇこの悪魔はァ!?」
「悪魔だからね」
そう言ってルーシーは再び若草のベッドの上へとその細い体を沈める。
契約、と言ったか。
つまり彼女はそれを遵守するためにどんな手段を用いてでもアマネを死なせないようにするだろう。
だとするならどんな手段をとるのか?確実なのはアマネをがんじがらめに拘束し食事と排泄、睡眠しかしない機関にしてしまうことだろうか。
自分で考えておきながらぞっとしない話だとアマネは思う。
しかし目の前の悪魔は子供の理論で異世界に自分を引きずり込んだ化け物だ。それくらいされても不思議はない。何より自分は一度既に彼女の機嫌を損ねているらしい。
少し身構えて見つめる視線に気づいたのかルーシーはアマネに笑いかける。
「別に君を拉致監禁して廃人的な生活を送らせるつもりはない。そんなのはボクの本意じゃないし、何よりめんどくさい上につまらないからね」
「一つ訂正すると、監禁はともかく今現在俺を思いっきり異世界に拉致してるってことをお忘れなく」
「あ、ホントだ」と言ってルーシーはまた笑った。
一体何がそんなに面白いのか。アマネは不満そうな顔で抗議の意を示す。尤もルーシーは気にもとめていない様子だが。
「そういえばボクも一つ訂正するね。
君はボクがここに異世界旅行に来てる、なんて言ってたけどそれはちょっと違うよ。ここはボクがもともといた世界、というかボクは二つの世界を定期的に行き来出来るのさ。だからどっちもボクの住む世界、どちらもボクの庭さ」
「へ? じゃあ俺を元の世界に戻すことも……」
ふと希望的観測を頭に浮かべてしまう。
どうせ死ぬのなら誰も自分を知らない世界より、誰か一人でも自分を知っている人間のいる世界で死ぬ方がいい。
どうせ消えるとしても、死んだ後のことなど自分には知る由がないとしても悼んでくれる可能性が僅かにでもある人がいる場所で死ねたなら。
しかしそんなアマネの思いはルーシーの言葉に予期せぬ方へとへし折られる。
「出来るよ、やらないけど」
「何でさ!?」
「だってこのまま戻ったらアマネ死んじゃうだろ?」
「ーーーッ!」
寝転んだまま、悪魔のくせに酷く澄んだ目でアマネを見つめるルーシー。
瞳の中の水晶体を通して己の内面の全てを見透されるようなまっすぐで透徹した視線だ。
ルーシーの言っていることは間違いない。きっとアマネは彼女が元の世界に自分を戻したらすぐにでも彼女の目を、手をすり抜けて死を選ぶだろう。
今自分はこの悪魔に自ら死ぬ権利すら奪わている、元の世界に戻って彼女の目から逃れられる瞬間があれば再び自死の権利を奪われる前に舌を噛み切ってでもーー
「元の世界に戻ると死ぬのが分かっててボクが君を戻すのはボクにとって明確な契約違反だ。分かるよね?」
「ーーいいよ、それは納得した。で、ホントのところお前の目的って何なの?意趣返しにしては労力をかけ過ぎな気がする」
「うーん、目的かぁ。君を死なせないこと、っていうのじゃ納得出来ないんだよね?」
「ああ、死なせないってのはお前の嫌がらせの手段だけど、嫌がらせにしちゃあ遠回し過ぎると思う。
もし俺だったら死ぬに死ねない状況で延々と苦痛を与える方が嫌がらせとしてもよっぽど効果的だと思うけど」
悪魔の機嫌を損ねたなら、どんな酷いことが待ち受けていてもおかしくはない。
しかし、それを聞いた瞬間にルーシーは顔をわざとらしく顰める。
「うっわぁ、アマネって見た目に反してえっぐいこと考えるねぇ。ちょっとボク、ドン引きだなぁ」
「な!? いやいやいや!!違うからね!?」
いたずらっぽい目でルーシーはこちらを見ながら「ふーん」と見透かしたように言う。
先ほどからルーシーの調子に乗せられっぱなしでとてもやりづらい。
「ま、ボクは契約上君の僕だ。もしご主人様がそういうプレイを望むならボクは契約にしたがってこのいたいけな身体を君に差し出すしかなくなるなぁ、ああ恐ろしい!」
「おっ前!?本当に笑えない冗談やめてね!?」
勢い込んでルーシーの発言を全力で否定するアマネ。
しかし、次の瞬間彼の頭には疑念が湧き出して来た。この世界に来る前、ルーシーは言っていた。「悪魔とは対価と引き換えに契約を交わし外法を以って願いを叶える生き物だ」と。
そして今自分は目の前の悪魔と契約を交わしている。だとするならば自分は既に彼女に何か対価を払っていなくてはおかしい。だとするならば一体何を払わされたのか?
それに気づくなりアマネは自らの全身に隈なく意識と視線を巡らす。しかし五体は満足、指が欠けていることもなく五感もハッキリしている。ならばーー
「俺は何を対価にお前と契約を結んだの?」
「ふむ、ようやくその話に至ったか。予想より長かったね」
「お前が茶々入れてたからね」
やれやれと肩をすくめるルーシーをアマネは鋭く睨め付ける。
「はは、それはすまない。
さて、契約の対価だったね。
まず整理したいのはボクと君が結んだ契約の詳細だ。
ボクは君との間に『君を死なせない』という契約を結んだと言ったね。
でも正確にいうならば『大悪魔ルーシーはクロサワ・アマネを死なせないことを前提とした主従関係を結ぶ』だ。
これによりある程度の範囲で君はボクに命令が出来るし、ボクはそれに従わなくてはならない」
それだけ聞くとかなりルーシーにとって不利な契約だ。
だが、それは即ちそのまま対価の高価さを示している。
自分は何をこの悪魔に奪われた、いやもしかしたら今後奪われるのかもしれないがーー
「そしてその対価、というかこれはむしろ理由だね。それは『ボクが君を無理矢理にこの世界に連れて来たことへの贖罪』だ」
「ーーは?」
「そう不思議がることでもないだろう?
君は親しい人々と引き離され、便利な科学技術からも引き離され、見知らぬ異世界へと放り込まれた。
十分に酷い状況さ、君がその生を放棄しようとしていた事実を無視すればね。
そして対価の内容を正確にするのならば『クロサワ・アマネの当然持つべき大悪魔ルーシーによる異世界への誘拐に対する補償請求の権利』だ。その放棄によってボクと君の縁は繋がれた」
「ーーそんなものが、対価?」
「そんなものなんて言っちゃダメだぜアマネ。
権利だって十分な対価さ。魂を奪うのだって言ってみれば『魂の所有権』の譲渡だ。
君の場合はこの世界に連れてこられたことに関してボクに責任を取らせることが出来なくなるってことだ」
頭がこんがらがる。対価は目に見えるもの手で触れられるものだけではないということか。つまりルーシーが言っていることはーー
「『異世界に勝手に連れて来たお詫びに君を守ってあげる、だから責めないでネ』的な解釈でいいのかな?」
「うーん、なんか釈然としないし、さっきの長ったるいボクの講釈があんまり生かされてない気がするけど、まぁ結果としてはそれで間違いはないかな。
正解、とはお世辞にも言いがたいけど」
「そして俺はお前の契約により死ぬことはできない、と。
でもさ、言っちゃなんだがお前も俺をずっと見てられる訳じゃないだろう?
お前がどうしても俺のそばから離れられない状況で俺がお前のいない間に舌噛んで死んだらそれまでなんじゃ……」
「大丈夫さ、万一君が死にそうになればボクは契約の履行に危機が及ぶことになる。
そうなればボクはその危難が直感で分かるし、契約の繋がりを通じて君を探し出せる。そしたらその後で君を治療すればいい話だしね」
どうやら万全な準備が整えられていたようだ。
と、言うことはアマネは本当の意味で自分で死を選ぶ権利まで奪われたらしい。死を望んだ人間に対する死ぬ権利の剥奪、これがルーシーの嫌がらせの痛烈な本質という訳だ。
なるほど、えげつない。
「あと、もし君が一度でも自分から死を選びそれを実行しようものならボクは契約の履行のために君をがんじがらめに拘束して食事と排泄だけを繰り返す廃人機関にして永遠に苦しみの中生き永らえさせるからそのつもりでネ」
「何笑顔でえげつないこと言ってるのさ!?」
冗談めかして笑いながら言っていたルーシーだが彼女の目は笑っていない。
きっとアマネが自死しようとすれば間違い無く彼女の言う通りの末路を辿るだろう。
彼女にはそれだけの力と手段がある、アマネはこれまでのやり取りで何となくそれが分かっていた。
背中に流れる汗を感じながらアマネは顔に張り付いたような苦笑を浮かべる。
「ま、でも別にボクだって君に苦痛の中、ボク専用のお人形さんのように生きて欲しい訳じゃあない。これは君をここへ連れて来た理由の一つに関わることであり、ボクの意趣返しの要素の一つだ」
「ーーどういうこと?」
訝しむアマネにルーシーは柔らかな笑みを向ける。
それは嘲るような笑みでも、煽てるような作り笑いでも、自己の欲望の充足による歓喜とも違う、暖かく包み込まれるような笑顔。
アマネはその吸い込まれるような彼女の笑顔に思わず言葉を失う。
虜になる、と言うのはこういう感覚なのか。
アマネが初めて胸に去来する思いに動揺する一方、ルーシーは笑みをそのままに静かに語り始める。
「ボクはね、あの時アマネと話した時から君に生きていてほしいと思ったんだ」
「な……に?」
何を言っているのだ、彼女は。
生きていて欲しい、この自分にか?
自分自身ですらその価値も見出せず、その意思すら放り投げてしまうような下らない生の存続を望むというのか?
アマネは目の前の悪魔の言葉に耳を疑う。
しかしそんなアマネの困惑をよそにルーシーは言葉を続ける。
「そして見つけさせてあげたいとも思った。君の生きる意味、生きる価値、生きる理由を。
そしてその日が来たら、あの屋上でボクにそれらの無意味さを滔々と説いた君に吠え面をかかせてあげる。
君に、『ボクを生かしてくれてありがとうございます』って、『生意気言ってすいませんでした』って言わせてやるのさ。
これがボクの意趣返しさ」
とびっきりえげつなく、とびっきり自分本位な言葉。
でもそんな言葉を、心のどこかで嬉しく感じてしまう自分がいた。そんな彼女を暖かく感じてしまう自分がいた。
自分に生きていて欲しいと望んでくれるのか。
自分に道を示し共に歩んでくれると言う存在がここにいるのか。
自分の出した結論を否定してくれる人がいるのか。
いや、そんなものはありえない。あってはならない。
こんな感情は間違いだ。何度も考えて理屈を積み重ねて来たはずだ。
正論を以って自分は自分の命の放棄を決めたはずだ。それならば、目の前の悪魔の甘言に惑わされるこの心はーー
「まだ足りない?」
「ーーえ?」
「じゃあ仕方ないな。もう一押し」
ルーシーは深く息を吸う。何を言うつもりなのか。
どんな感情論だって無駄だ。
アマネは飛び交う感情論全てに対して反証をぶつけた。感情論の慰めはことごとく正論に撃ち落とされた。
どんな悪魔でもーー
「クロサワ・アマネはたった今、悪魔により自死する権利すら奪われた。
君は生きるしかなく、それ以外の選択肢は死よりも恐ろしい破滅しかもたらさない。
それならば、どうせ生きるしかないならば。
ダメ元でも生きることに意味を、価値を、理由を見出せるようにすべきではないかな?
苦痛の生に少しでも光を見出せるよう努力すべきではないだろうか。
なぜなら君は死ぬことを許されなくなってしまったのだから。
———違うかい?」
投げつけられたのはごり押しの正論。
感情論の押し付けでもなく、洗脳的な蠱惑の言葉でもない。
事実に基づき秩序だって展開された正論。
彼自身が何より尊ぶべきと信じ、それが導くままに己の命すらも棄てようとしていた正論。
自分をここまで連れて来たそれが今度は彼に牙を剥いたのだ。だとするならばーー
「ーーあぁ、もう……ちくしょう」
「ん?」
ルーシーは片眉を上げて起き上がり、アマネの答えを一言も逃さないように静かに見つめる。
「ーーズルイなぁ、ルーシー」
「………」
「ーー俺に、正論とか……あーもう。従うしかないじゃんか。抗えるわけないじゃん。そんなのズルイよ」
「悪魔だからね。
まぁボクとしてもあまり使いたい手段ではなかった、不本意な手段ではあった。痛み分けとでも思っておくれ」
少し悲しげに目を伏せながらルーシーは静かに笑った。
本当に感情の起伏の激しい悪魔だ。人間と大差ない。
いや、むしろアマネが接して来た多くの人間よりもずっと人間くさいくらいに感情を露わにしているのかもしれない。
そんな彼女を見ながらアマネは立ち上がり制服のズボンに張り付いた草の葉を両手で払う。そして座ったまま自分を見上げる悪魔にアマネは言った。
「正直お前が何を考えてるのか、それが全部分かった訳じゃない。不安なところもたくさんあるし、何よりここまで至った経緯が気にくわない。でもーー」
「でも?」
「口車に乗ってやるよ、ルーシー。この世界で生きてみる。どうやればその答えが手に入るのかは知らないけど、足掻いてみる」
アマネの宣言を見つめながらルーシーは静かに、優しげに微笑む。
その笑顔は今まで見たたくさんの彼女の笑顔の中でも見たことのない、飾り気はなくシンプルな、そして真実彼女の心からの純粋な笑顔だったように見えた。
草原に一陣の風が吹き抜ける。草原は緑の海のように波立ち、大樹の葉はサラサラと音を立てて揺れる。
風に遊ばれ揺れる髪を指で軽く払いながらルーシーはその場に跪きアマネの手を取り言った。
「君がどう足掻き、どういう答えを導くのか、その旅路も含めて楽しみにしているよ、ご主人様。
さぁ旅に出よう、アマネ。君の求める答えを、この異世界で見つけるために」
最初は重めでしたが、ここからだんだんノリが軽くなります(当社比)