1st.悪魔来たりて
少年、黒澤アマネは春の風に吹かれながら思考停止していた。
宙ぶらりんで学校の壁面にぶら下がっているが故ではない。
突然現れ「ファイトォ〜一発!」とか言い出しそうな格好で自分の命を細腕一本で繫ぎ止める女性についてだ。
彼女は何を言っているのだろう。悪魔、彼女は今自分のことを悪魔と言っていたか?
昨今ファンタジーでは使い古された人外のモノ、悪魔であると彼女は宣言したのか。
アマネは改めてまじまじと謎の女性を見てみる。
歳の頃は20前後だろうか。
肩までのミディアムの白い髪はふわふわとウェーブがかって優雅な印象。吸い込まれそうな紫色の大きな瞳は好奇心にきらめき紫水晶のように輝き、その容貌はどこか人間離れした蠱惑的な魅力を持っていた。
そんな傍目から見ればミステリアスな美女はそのイメージにそぐわない軟派な口調で語りかける。
「あのさぁ、ボクが魅力的なのは分かるんだけどぉ、そろそろ引き上げちゃっていいかなぁ少年?
いい加減腕疲れちゃうし、この状況は中々に目立つと思うんだよね」
アマネが言葉を返す間も与えず、「歯ぁ食いしばってね」と女性は続ける。
そして次の瞬間、勢いよく彼の身体を細腕一本で軽々と引っ張り上げた。
アマネの身体がふわっと宙に浮く。
「へ?」
彼の身体は易々と重力を忘れたように鉄柵をふわっと飛び越え、そのままうまい具合に足から屋上の硬い床の上に着地する。
それを見届けた彼女は鉄柵の向こう側からポンと飛び上がりそのままアマネの目の前へと降り立つ。
ゆったりとしたローブのようなガウンのような白い服を着た彼女はいわゆる男装の麗人、のような見た目だ。
その白い髪は実際は腰くらいまではあるようで、黒いリボンでまとめられたそれは屋上に吹き付ける風に揺られている。
呆然と立ち尽くすアマネを他所に、女性は鉄柵に背をもたれさせながらその紫の瞳を細めて彼を見ている。
アマネも負けじと彼女の目を睨み返し意味ありげな沈黙が二人の間に横たわる。
「ーーー」
「ーーー」
「ーーあのさ」
「はい?」
先に口を開いたのは女性の方だった。腕を組む女性は何もかも見通しそうなその深い紫の瞳を閉じ、一息吸い込むと再び口を開く。
「なんか喋ってよ! 何!?その意味ありげな沈黙は!?
色々聞きたいことあるでしょ!?
悪魔って本当なんですかぁとか、何でこんなとこにいるんですかぁとか、いい大人が悪魔とか名乗って恥ずかしくないんですかぁ、とかぁ!?」
「じゃあ、いい大人が悪魔とか名乗って恥ずかしくないんですか?」
「よりによって最後のやつ!?」
正直な所、アマネには彼女がいい大人、と言えるのかは微妙なところだ。
確かに見てくれはそのあまりにスレンダーすぎる起伏の無さを除けば成人女性のそれのように思える。
だが、子供っぽい口調や身振り手振りなんかは到底いい大人のものとは思えない。もちろんいい大人の癖に子供っぽ過ぎる痛い人である可能性はあるがーーー
「いや、むしろ自分を悪魔と信じ込んでる厨二病拗らせて子供っぽさを捨てきれないイタくてヤバい人って可能性が大かな……」
「ねぇ、本人を前に何失礼ぶっこいてくれちゃってんのかなぁ少年」
「あ、ごめんなさい」
鋭くなった彼女の眼光に、自分が思っていることをそのまま口に出してしまっているのに気づいたアマネは即座に謝罪する。
女性は深くため息をついてから再び彼の目を何か期待するように見据える。
その視線に試されているような感覚を覚えたアマネは相対するように彼女の顔を冷静に見つめる。再び訪れる沈黙。
「ーーーー」
「ーーーー」
「ーーーねぇ」
「はい」
「何なの!?嫌み!?嫌がらせ!?」
「え?」
「え?じゃあないよ!!何で何も答えないのさ!?
ボク、何か君に嫌われるようなことしたかなぁ!?
出会って3分でボク何かしたかなぁ!?」
「いや、すみません。なんかこの沈黙の間に何か観察とかしてんのかと。ていうか、何か質問されてましたっけ俺」
そう言い放つアマネに女性は天を仰ぎ額に手をあてて声にならない声で嘆く。
アマネは少し悪いことをしたと思いつつ彼女を再び観察してみる。ドレスのような精緻な装飾が施された時代外れなデザインの白い服に革の靴。
全体的に白くてふわふわひらひらした印象は悪魔というよりかは天使の方がまだしっくりくる。
服装や美貌からして人の目を引くことは請け合いだ、なのに誰も彼女の侵入に気づかないというのはおかしい。夜の学校ならともかく今は生徒達が溢れる昼の学校、しかも休み時間だ。
彼女が誰にも気づかれずにここまでくるなんて不可能だ。
いや、ありえないといえばそれ以前に誰かが来る足音なんて聞こえなかった。
彼女は革靴、足音に気を使っていた周にその接近が気づかれないようにするなんてどだい無理な話だ。だとするのならば彼女はどうやって。
まさか本当にーーー
アマネの困惑を察したように目の前の女性はニヤリと笑う。
「さて少年、質問をどうぞ?」
「いや、さっきいい大人が悪魔とか恥ずかしくないんですかって質問をしたばっかり……」
「あんなのノーカンに決まってるでしょ!?からかってる暇があるならさっさと別の質問考えたまえ!」
「えぇ……じゃあ悪魔だっていうのは本当ですか?証拠は?」
彼女の言葉の真偽を探る、と言えば聞こえはいいかもしれないが、正直なところアマネからすれば先ほどの質問を少し形を変えただけでしかない。
しかしそれらしい形の質問に目の前の自称悪魔は満足したようで、ドヤ顔を極めながらアマネを見下すように喋り始める。
「おいおい少年、もう分かってるんだろ?
ボクは誰にも見つかることなく、君に気づかれることもなく君の背後に突然現れた。
これだけで十分人間じゃないことの証明になってると思うぜ? そして極めつけ。この乙女の細腕で君をぽーんと引っ張り上げるなんて出来るだろうか、いや出来まい。
ただしそれが人間であるならば、ね」
お前の考えなんてお見通し、という訳だ。
確かに彼女の言う通り現状の全ての要素が彼女の言葉を肯定している。
悪魔うんぬんはともかく、彼女が普通の人間ではないことは疑う余地がない。
そう結論を下し、アマネは改めて目の前の女性を見つめる。
「じゃあ、悪魔ということで納得しときます」
「むー、少しはびっくりしたり怖がったりして欲しいなぁ。何かリアクションが薄すぎてボクちょっと辛いんだけど」
「俺はこれから死のうとしてたから。
今更何が起こってもあぁ世界は神秘に満ちてるなぁって感想で終わりですよ。
それより君、あなた?は……あーいや、その前に名前だ。名前がわからないと呼びづらいんですけど」
「えぇー、そういうのはまず先に名乗るのが礼儀じゃないかい、少年。紳士としてはさぁ」
「紳士かどうかは年齢的に意見が分かれるところだろうけど……まぁ確かに不躾だった。ごめんなさい」
そう言うとアマネは小さく頭を下げる。女性は少し驚いたようなそぶりを見せた後、苦笑いを浮かべて「素直だねぇ」と言って肩を竦めた。
「俺は黒澤周。『周囲』の『周』って書いてアマネって読む」
「ふぅん、この国の男性としては変わった響きの名前だね。まぁ真摯に名乗られたのだから返すのが礼儀だ。
ボクはルーシーと言う。ルーシーと呼んで……いや?むしろルーシー姉様と呼んでくれて構わないよアマネ!」
「丁重にお断りします」
「拒絶早すぎないかなぁ!?」
ポーズを決めながらの自己紹介と呼称への要望を秒速でフイにされたルーシーは恨みがましい目でアマネを見ている。
アマネはそれを流すようにして目を背けながら次の彼女への問いを口にする。
「それで、ルーシーさんは一体何の用があって俺に話しかけてきたんです?暇なんですか?」
「ちょいちょいdisりを挟んでくるのはやめて欲しいなぁ。あ、あと敬語とさん付けもやめてね。鬱陶しい」
「分かりまし……ッ分かった。じゃああらためて、ルーシーは一体俺に何の用があったの?」
「ふむ、用は特にないね。
でもさ、そもそも死ぬほど暇だろうと目が回るほどに忙しかろうと目の前に鉄柵乗り越えて、落ちたら死ぬような所で急に数字数え出すような変質者がいたら嫌でも声かけるだろう?」
「いや、お前も相当俺をdisってるよね。
今ナチュラルに俺のこと変質者呼ばわりしたよね。
俺のと比べてかなりストレートだったよね。
何なの、意趣返しなの?」
アマネの早口の追及を手を耳に当ててシャットアウトし、高笑いしながら「きーこーえーなーいーなー」と言ってそれを無理やり躱すルーシー。
出会った時からそうだったが見た目にそぐわず子供っぽい人、もとい悪魔だ。悪魔っぽさ皆無だ、絶無だ。
「さて、話を戻すが君に声をかけたのは、さっき言った通り君が自殺しようとしてたからだよ」
「まぁ、それは分かる、自殺しようとしてる人がいたらどんな奴でも気に留めるし。問題はその先だ。
まさかとは思うけど死んじゃダメだ、みたいな正義感で止めてくれちゃったりしたの?」
乾いた笑いを浮かべながらアマネはルーシーに問いかける。
その声には微かながらも嘲るような響きが隠されることなく滲み出ている。
あぐらをかき下から試すような視線を送る彼に、ルーシーは一瞬複雑な感情を顔に浮かべた。
それは哀れむようでもあったし、見下すようでもあり、悲しむようでもあり、怒りでもあるような、様々な感情がないまぜになったような表情。
しかしそれは次の瞬間に子供っぽく無邪気な笑みに変わる。
「アハハハハ! まっさかぁ。ボクはさっきも名乗ったけど悪魔だよ? 正義感だとか善意100パーセントで動く訳ないじゃないか!」
アマネの問いをルーシーはそういって馬鹿馬鹿しいと言わんばかりに笑い飛ばした。
別に止めて欲しいと思っていたわけでもないが、そこまで笑われて全否定されると流石のアマネとしてもいい気分ではない。それを察してかルーシーは笑い声を潜めてアマネのすぐそばまで歩み寄り彼に視線を合わせる。
「悪魔が人と契約を交わして外法を以って願いを叶える生き物だってことはご存知?」
「まぁ、確かに一般的にはそういう認識もあるかも。『ファウスト』のメフィストフェレスみたいなの。
でもそれが俺の自殺を止めたのとどんな関係があるのさ?正直なんの関係性も見えないんだけど」
問いかけるアマネに眉根を寄せるルーシー。
しかし、すぐにやたらに大仰な身振り手振りを交えて説明を始める。
「自殺ってのはさ、基本的に世の中や人生が思い通りにならないから、何らかの外的要因によって生きていけないからっていってやるものでしょ?
逆に言えばそういう人は世の中や人生を思い通りにして欲しいだとかその要因を取り除きたいって感情がその基盤にあるわけ。
つまりそこには命を賭けるほどの欲求が存在する!何せそれが満たされないなら死を選ぶほどだからね。
そこにボクらが付け入る隙がある。彼らは極大の、理不尽なまでの高利・暴利な対価だって目先の欲のためにホイホイ払ってくれる。都合の良すぎる顧客さ。
そう考えればボクが君に声をかけるのは全くもって合理的だと思わないかい?」
喜色満面にルーシーはそう言い放つ。
なるほど確かにこの世の自殺の多くは彼女の言う類型に当てはまるし、それ故に彼女の言う悪魔の目論見も成就するのは請け合いだろう。
例えば大学受験で追い詰められて自殺しようとする人間なら悪魔の力で無理やり合格することを望むかもしれないし、困窮極まって自殺を選ぶしかない人間は必要以上に財産を求めるかもしれない。
不治の病に侵されてそれを苦に自殺を望む人間なら超自然的な力でその治癒を望むかもしれないし、いじめを苦に自殺を図るいじめられっ子はそのいじめっ子を殺して欲しいと願うかもしれない。
それぞれ何かの所為で切羽詰まってしまっているから。あるかもわからない死後の安寧に縋るしかないくらいに追い詰められているから。どんな対価でも払ってしまうのだ。たとえそれがどんなにおぞましい対価であったとしても、生き続けるために。
「ーーまぁ、納得はできた。でも、付け入る隙だとかそういうのはあんまり素直に人に言わない方がいいんじゃないかな。頼りたくなくなってくる」
「ははは、まぁ普通の神経ならそうだろうけどね。死にたくないけど死ぬしかない彼らは目の前の悪魔が自分を弄ぼうとしているとわかってたってそれに縋るしかないのさ。だから彼らは何も見えない暗闇の中、不意に差し出された穢れた希望にも手を伸ばす。
例えるなら溺れる者が浮かんでいる燃えた板でも火傷を度外視して掴まざるを得ないって感じかなぁ」
「それだと板に水かければ問題解決しちゃうんじゃ?」
「あぁ確かに。この例えは失敗かな」
そう言ってルーシーはため息をつくとその綺麗な白い髪を1束指ですくっていじりはじめた。少し考えていたが何も思い浮かばなかったようで「ま、いいか」と言って再びアマネの方へと目を向ける。
「ま、例えはおいおい考えるとして、話を戻そう。
今のボクの話でボクが君に何を望むかは分かってもらえただろう?」
「ーーー」
「沈黙は肯定だと受け取るよ。さぁ問おうじゃないかクロサワ・アマネ。君はなぜ死のうとした? 君はボクに何を望む?この大悪魔ルーシーに」
アマネは考える。自分は何を望むのか?
目の前の悪魔は言えばどんな望みでも叶えるかもしれない。
どんなことができるかなど確認してはいないが少なくとも彼女の姿を見ると彼女に不可能なコトなどありはしないように思える。
黙りこくるアマネに対してルーシーはまくし立てるように問い続ける。
「君は一体どうしたんだい?
学友にいじめられた?
ならばその学友を吐き気を催すほど惨めな目に合わせてみせよう。
恋人を奪われた?
ならば寝取った相手を彼女の愛が冷めるほどに無惨な見てくれに変えてあげよう。
両親がうるさい?
ならば両親が君に反抗できない金を貢ぐだけの機械になり下がるように躾けてあげよう。
成績が上がらない?
ならば問題用紙を見るだけで答えが分かるような頭脳と目をあげよう。
さぁ、君のお悩みはなんだい?
死を望むほどに君を苦しめる、君の苦悩の正体はなんだい?」
ルーシーは新しい玩具を買い与えられた子供のように目を煌めかせ、邪気を孕んだ言葉を無邪気な声音で並び立てる。
恐らく個人が考え得る願い程度なら彼女は確実に完璧に叶えてみせるだろう。どんな願いでも叶う力が目の前にある。それを前に自分はーーー
「ーーーを殺してほしい」
「おや殺しかい? 驚いたな、そういうタイプには見えなかったが……
いやいや別にその願いを否定するわけじゃないさ、いいじゃないかヒト殺し。
さぁ誰を殺す?
妬ましいクラスのヒーロー?
憎らしい不良少年?
怒鳴り散らす先生?
君を束縛する両親?
軋轢深い兄弟姉妹?
さぁ誰を殺そう?一人じゃなくたっていいぜ? いっそ町ごと潰すことだってここでならできる。さぁ言って君は誰をーーー」
彼女の冗長な問いを遮るように途切れ途切れにアマネは再び言葉を紡ぐ。
「ーーれを」
「は?」
幽かに聞こえたそれはそれまで饒舌だったルーシーの口の動きを止める。
幽かで風の音や生徒の声で搔き消えるような言葉だが、超常の存在、悪魔である彼女には聞こえたのだろう。
その綺麗な目を見開き、信じられないと言わんばかりに肩を震わせ口を僅かに開く。
「ーー君は、一体……何を……?」
震える声で問いかけるルーシー。
それに応えるように押し殺したような怜悧さで、はっきりとアマネは己の心からの願いを告げる。
「俺を、殺してくれ。ルーシー」
最初なので連続投稿