ハードル
「ハァハァ。」
「どうしたの!ソニア!そんなんじゃ、いつまでたっても終わらないっ!」
時は2020年。オリンピックを目前に控え、この吸血鬼にも運動ブームが巻き起ころうとしていた。吸血鬼達は基本空気が読めずプライドも高い輩ばかりなので、下等な人間を応援するのは嫌だ嫌だとごねるものが続出。ならば上等な我々が独自にオリンピックを開こうじゃないか!とノリと勢いが決定した。普段から暇を持て余している吸血鬼達は、ここぞとばかりに「俺は走らせたら凄い」「跳ばせれば分かるよ」などと日陰者として抑圧されていた承認欲求が悪い形で爆発。これに肝を冷やしたのはソニアであった。基本引きこもりのソニアは運動などドベと仲良し。劣等感は空間を歪曲させ、見る者を暗い穴倉に引きずりこむ。休みたいのはやまやまだったが、あまりに盛り上がりすぎた吸血鬼達は世界ランクなるものを発表し、吸血鬼達の序列もここできまるらしかった。あまりにいい加減な匙加減は吸血鬼達を大いに興奮させ、悪乗りはノリノリだった。
ソニアの動きは迅速だった。アーシアに応援を要請。アーシアはそれを快諾。こうしてトラックを貸し切り、ソニアはトラック競技の練習に励んでいるというわけである。
「ソニア!駄目よ!そんなんじゃ・・皆にずっと馬鹿にされるわ!」
「わ、分かってるよぉ・・ア、アァァ」
ソニアは弱々しい悲鳴を上げながら、ハードルを蹴倒してつまづいた。種目はハードル走である。ほぼ全ての種目において、ドベが決定しているソニアだったが、アーシアとの三日三晩の協議の結果、ハードル走に微かな希望を見いだした。ハードル走とは、110メートル間のハードル10台を飛び越え、その速さを競う競技である。一見、走る跳ぶ、と高度な運動能力が求められる競技だが、ハードルを飛び越えるというのは日常生活ではなかなか使われない技術であろう。これならば、運動音痴のソニアでも、練習次第で皆に肉薄とは呼べないまでも、引かれるほどの差が開くことは無いだろう。110mという距離も実に短くて良い。と傷が浅いか深いかという、悲しくも負け戦前提での決断だった。だから、この練習は酷く後ろに前向きな練習である。だが、必ずしも期待通りの結果になるわけではない。酷い有様だ。ソニアは一度もハードルを飛び越せず、10台全てを薙ぎ倒しゴールになんとか辿り着く頃にはストップウォッチは一分を過ぎていた。そして、左右に薙ぎ倒されたハードル。それはソニアの運動音痴を如実に表していた。
「・・・」
「・・・」
二匹は薙ぎ倒されたハードルを無言で見つめ、互いに同じことを考えていた。
『『ここまで酷いのか』』
「ソニア!前向きに生きましょう!あくまで練習なんだから!ここでハードルを跳べないことは恥ずかしいことではないわ!これからソニアがどんな成長するか私は楽しみで仕方がない!」
「・・・もう一回やってみるよ!」
結果は奇しくも同じであった。惨敗。二匹の頭に二つの漢字が浮かんだ。その後アーシアの、アーシアによるソニアの為のカリキュラムが独自に組まれた。ハードルを跳びこすだけの訓練により、そもそも素のジャンプ力がハードルの高さにまで届かない事が判明した。「エイッ」とハードルを跨ぐ動作でさえソニアはハードルを足で蟹のように挟み、そのまま転倒。そしてハードルと蛸のように絡むのだった。
「・・ソニアにはハードルが高かったかしら・・・。」
【ハードルが高い】
行動や言動の合格点が高いこと、つまり困難であることを意味する語。
日は傾き。もうすぐ地平線に太陽が沈もうとしている。黒く伸びた影は、時折地面から伸びあがりその場でハードルと絡み合った。ソニアだった。猛練習の末三度に一度ハードルを跳び超えることに成功するようになった。しかし、これはそういう競技ではないのだ。ソニアは打ちひしがれていた。足は包帯でグルグル巻きになっており、指は骨折している。車に跳ね飛ばされたと嘘をついても信じてもらえたことだろう。
「アーシア・・無茶だったんだよ。ありがとう。悔いはないさ・・。」
「なに!ソニア!負けたみたいにして!まだ勝負ははじまってすらないのに!」
アーシアは涙を流し、泣いていた。二匹の影は夜の闇夜に落ちた。夜の闇に溶けていく。このまま消えてしまいたいソニアは思った。順々に星が出てきて月も何時の間にか顔を出す。繰り返し繰り返し、何年何回この光景を繰り返したのだろう。それに比べれば、たかが一日、恥をかくくらい、なんてことないじゃないか!ソニアは少しだけ、そんな月と星を見て成長しようとしていた。二匹はハードルを倉庫にしまうと、そのまま二匹で帰った。アーシアはソニアに肩を貸し、支えあうように二匹で歩いていく。オリンピックまであと一月もない。傷は癒えるだろうが心の傷まで治るわけではない。ソニアはハードルを跳べないだろう。心に刻まれたトラウマはハードルを前にすると、必ず歯止めをかける。助走をゼロにし、跳ぶことに全ての力を使い込む。そうしてようやくハードルを一つ跳ぶことができるのだ。それが10台。壁が10立ちふさがっているに等しい。ソニアはアーシアに支えられながら自分のふがいなさに泣いていた。痛みと悲しみと自分に対する怒りで肩を震わす。必然、その震えはアーシアに伝わった。アーシアはソニアを近くに抱き寄せると何も言わずにただ、支えた。ソニアの震えが止まると、アーシアは何か決心したかのように力強く、だけど囁くようにソニアに言った。
「大丈夫。私がなんとかするから」
それからアーシアの動きは迅速だった。頭をひねり倒し、ソニアのためのプランを練った。ソニアが合わないなら、ソニアに合わせればいい。競技を取り仕切る吸血鬼を脅しなだめすかし、半ば強引にあるルールを取り入れさせた。
「ねえ。人間と同じことしててもしょうがないでしょ。私達は泣く子も黙る吸血鬼なのよ?」
アーシアの言い分はこうだった。そうして大衆を煽動し、いくつものルールを提案。その中にソニア用のルールを紛れ込ませた。
そうして吸血鬼だけのオリンピックがもちろん夜に行われた。体操着を身に着け赤帽と白帽を被った吸血鬼達。組み分けは適当であるとみせかけ、様々な思惑と力が働き、結果として均衡の取れたチーム編成となっていた。各種目の順位はそのまま得点制になっている。得点で負けたチームは今後100年言うことを聞くことになっている。ソニアとアーシアは赤組に所属している。無論アーシアの暗躍によっての決定であった。
「アーシアほ、ほんとにこれでいいのかな??」
「大丈夫よ。私がなんとかするから。」
不安そうなソニアの肩を叩きながらアーシアは励ましの言葉を送った。競技はハードル走が始まろうとしている。アーシアが取り入れさせたルールとはハードルの高さ調整によるポイント制であった。一般的な人間のハードル走のハードル106センチをゼロとし、そこから個々で高さを調節しても良いというルールであった。もちろんハードルは低ければ低いほど飛び越しやすいので、低いほどポイントは低く、また高いほどポイントは高くなっていく。これを秒数に換算し、競おうというのだ。おかしな取り決めである。これを通すのにアーシアは手持ちの資産の半分を削っていた。
ソニアの出番がやってきた。白い肌は一層白く、冬でもないのにガタガタと体を震わす。何かブツブツと否定的な言葉が口からとめどなく溢れている。もはや不安は通り過ぎ行き着くところまで行き着き恐怖へと姿を変えていた。
ソニアの設定したハードルの高さは10m。あきらかにソニアのレーンだけが他の競技者たちと違っていた。
場内がどよめく。不安と期待。まさか。まさか。アーシアが腕を組みソニアの後ろに立っていた。まるで面倒なモンスターペアレントのごとく。いや、それよりもずっと厄介な存在であった。競技が始まった。他の競技者がハードルを跳びこす中、ソニアはハードルを潜り抜けていく。場内のどよめきは留まることを知らず、ザワザワと空気を震わした。
「恥知らずめ!」
どこからともなくヤジが飛ぶと、アーシアはその者を特定し、指をさした。ただそれだけで場内は静まり返った。こうしてソニアのはーどる走は終わりを迎えた。順位こそドベであったがハードルを越えたポイントの加算によりソニアのタイムはマイナス54秒という今後破られることはないであろう世界記録を叩き出した。そんな好記録を叩き出したというのに賞賛の言葉は誰からもなく、まるで敗者であるかのように席へと戻った。ソニアの目は暗く澱んでいた。これが僕が求めた結果なのだろうか・・。席へ戻ってもソニアに声をかける吸血鬼は誰もいなかった。ソニアは居たたまれず、下ばかりを見つめていた。
「ソニア!やったじゃない!世界記録だって!すごいわ!」
アーシアが興奮しながらソニアのもとに駆けよってきた。そのまま隣に座るとソニアを褒め称え手を握るとブンブン振った。ソニアは薄く笑い自嘲気味に
「ありがとうアーシア君のおかげだよ」
となんとか言った。ソニアはブンブンと手を振られ、現実から逃げ出してしまいたい過酷な状況のせいか知らずか書きかけの小説のことを考えていた。
あくる日の夜、ソニアはまたハードルをくぐった結果は昨晩と同じように誰からも相手にされず散々なものだったが、ソニアはどこか満足気であった。
ソニアが行ったのは誰しも褒められるものではない。だが、人々に時折必要なのはハードルを下げることでもなければ、あきらめそのまま引き下がることではない。
「恥知らず!」
この言葉が叫ばれたときのギクリとした胸の痛みはソニアに深い傷を残した。だが、同時に痛みを耐えるだけの忍耐と羞恥心を獲得したのである。以降、ソニアのハードルの見立ては間違いなく曇り、良い作品としてのハードルは間違いなく下がったが、それでもソニアはそのハードルを跳び続けたのである。以降この吸血鬼は
猫使いは書きます。