*** 7 瑞巌寺 ***
その日の実験が終わると、時計をチラリと見やった部長が言った。
「いやいや、お嬢さん方、今日は本当にありがとうございました。
このあと御礼に少し夕食でも御馳走させて頂きたいと思っているんですけど、まだ予約の時間まで少し時間が有りますので少々お待ち願えませんでしょうか」
「どのぐらい時間あるんですか?」
「あと一時間ぐらいですね」
桂華が奈緒を振り返る。
「だったらさ。その間に二人の愛の巣を見せてくんない?
ここから近いんでしょ」
アロさんがおずおずと「私も行っていいかしら」と言い、小恐竜♀たちもついてくることになった。
幸いにも二人の部屋は奈緒がいつも小奇麗にしているため、突然の来客でも何の問題も無い。
マンションは男子禁制のために部長やレックスさんたちは部室に残っている。
詩織ちゃんや小恐竜♀たちは瀟洒なマンションの外観を見てため息をついている。
だが、一行が光輝たちの部屋に一歩足を踏み入れると……
そこはもう完全に新婚夫婦の部屋である。
奈緒が途方もない労力をつぎ込んで整えた部屋は、もう眩しいぐらいに輝いている。
それは誰がどう見ても愛し合う男女の部屋だったのだ。
「うっわ~」を連発する桂華が二人の寝室のドアを開けると、可愛らしいカバーに覆われた大きなダブルベッドがあった。
さすがの桂華ですら顔が赤くなった。
アロさんの頭上にまた「ぼんっ!」という架空の効果音が現れて顔が朱に染まる。
続けて「ぼんっ!」「ぼんっ!」「ぼんっ!」「ぼんっ!」と同じ効果音が現れて、詩織ちゃんと小恐竜♀たちの顔も深紅になった。
光輝はみんなが顔から血でも吹かないかと心配した。
奈緒ちゃんは相変わらず菩薩の微笑みを続けている。
やっとの思いで部屋を出た一行は、ふらふらしながら部室に帰った。
実際、アロさんはマンションの部屋を出たところで、「ちょっと待って!」と言って手摺につかまって深呼吸していた。
きっと二人の部屋で摂取した高濃度のフェロモンを肺から外に出していたのだろう。
詩織ちゃんの体は奈緒ちゃんが支えていた……
部のマイクロバスで一行が連れて行ってもらったのは、市内でも一流と言われるイタリアンの店だった。
一行は奥まったパーティールームに案内される。
部屋の中央には連結された大きなテーブルが設えられ、その上には銀器やグラスがキラキラと輝いている。
ウエイトレスさんやウエイターさんは六人もいた。
まだ未成年だった光輝たちに配慮して乾杯はジュースとビールの混合だったが、レックスさんとアロさんは豪快に飲んでいた。
対する光輝サイドでは、桂華が豪快に食べていたからまあつり合いはとれていただろう。
とんでもなく美味しい料理が次々に運び込まれている。
光輝は小声でアロさんに聞いてみた。
「こんな高そうなお店で御馳走になっちゃっていいんですか?」
アロさんはちょっと酔った目で光輝を見て言う。
「あら。気にしないでいいのよ。部費で出るから」
「あっ、あのう…… 僕と奈緒ちゃんはまだ部費を払ってないんですけどぉ」
龍一部長がにこにこしながら口を挟んだ。
本当に最近の部長はいつも楽しそうだ。初対面のときの印象が嘘のようである。
「ああ光輝くん。部費はタダだから気にしないでいいんだよ」
「でっ、でも、今日の食事代とか部のバスのガソリン代とか……」
「麗子さん。今部費の残高っていくら残ってたっけ」
アロさんがメモも見ずに言った。
「ここのお支払いをする前までで、4352万円です」
光輝たちは盛大に仰け反った。
「そ、そんなに……」
部長がまたにこにこしながら言う。
「この前、株式市場の不思議な値動きの話をしたでしょ。
僕と麗子さんでああいうの他にも見つけていてね。
それで部費を運用して稼いだんだよ。
つまり部の活動によって得たおカネなんだから、部員が使うのは当たり前だからね」
光輝は驚いて口もきけない。
しばらくしてから奈緒が桂華に話しかけた。
「そういえば桂華さん、今日はお店のお手伝はいいんですか?」
「うん、日曜日は親戚のおばさんが来て手伝ってくれてるからいいんだよ」
「でも……」
「いいんだいいんだ。
そのひと旦那さんを亡くして女手一つで息子と娘を育てて来たんだけどさ。
子供たちが高校生になって手がかからなくなったもんだから、日曜日は手伝いに来てくれるんだ。
それにウチ月曜日は休みだから、売れ残りの野菜をたくさん持って帰れるんで、食べざかりの高校生を抱えたおばさんも喜んでるんだよ」
「そうなんですか……」
「それにさ。そのおばさん、アタシから見てもちょっと綺麗なひとなんだよね。
だからオヤジのやつ、でれでれしちゃっててさ。六つも年下なのに。
だから日曜日はアタシがいるとおじゃま虫になっちゃうんだ。
もしかしたらアタシにも弟と妹が出来るかもしれないなぁ」
桂華はそう言うと嬉しそうに遠い目をした。
アロさんが話しかけてくる。
「あの…… ひょっとしてあの『天使のつぶやき』に出ていた、奈緒さんのお姉さん同然の幼馴染って、まさか桂華さんなんですか?」
「ああ、バレちゃったか。実はそうなんですよ。
アタシがいくら無い愛敬振り絞って頑張っても、リンゴ三ケース売るのが限界なのに、この子ったらたったの一時間で十ケースも売っちゃったんですよ」
奈緒が何か言いたげにしていたのを、桂華は目で制した。
光輝にはよくわからなかったが、龍一部長はそんな桂華を見て、なにか気づいたことがあったらしい。
なんだかさらに嬉しそうに頷いていた。
その後も会話は弾んだ。
もう楽しくて仕方が無い詩織ちゃんは涙目になっている。
食後のドルチェも盛大に平らげた一行は、お腹をさすりながらコーヒーを頂いていた。
部長が真面目な口調で切り出す。
「我々はご存じの通り異常現象研究会というサークル活動をしているんですけど、その延長線上には、超常現象をこの目で見て体験してみたいという希望を持っているんです。
それは、我々のライフワークでもあります。
そして今日見せて頂いたものは、もはや異常現象の領域を超えて、超常現象の域に入りつつある素晴らしいものでした。
実に感動させて頂きました」
みんな頷いている。
「ですから僕は、この光輝くんや奈緒さんと、これからもずっとおつきあいさせて頂きたいと思っているんですが……
お嬢さん方にもお願いがあります。
どうか我々のサークルに加入して頂けませんでしょうか。
そうして我々も友人に加えて頂くと同時に、その類稀なる受信能力をさらに拝見させていただけませんでしょうか」
「他の大学の学生なのに、瑞祥大学のサークルに入ってもいいの?」
桂華が聞く。
その言い方はいつもの桂華らしくなくやや控えめだった。
いや控えめと言うよりも少しおずおずとしている。
まったく桂華らしくない。
「もちろんですよ。大歓迎です。
いつでもいくらでも部室に来てください。お願いします」
そう言うと部長は頭まで下げた。
レックスさんもアロさんも小恐竜たちも深々と頭を下げている。
びっくりした光輝も奈緒も頭を下げた。
嬉しさのあまり詩織ちゃんは泣きだした。
それを優しくあやしている奈緒を見ながら桂華は言う。
「こっ、こちらこそよろしくお願いしますっ」
桂華は膝の上で手まで揃えている。
まったくもって桂華らしくなかった。
部長がアロさんを見やると、アロさんは高そうなバックから小さな手帳のような冊子を二つ取り出した。
部長がそれを桂華と詩織ちゃんに渡しながら言う。
「お嬢さんたちの大学から瑞祥大学に来るときや、帰りが遅くなったときには、このタクシー券を使ってください。市内のタクシーならば全てサインだけで乗れます。
またそこに書いてある電話番号に連絡して名前と場所を言えば、すぐにタクシーが来てくれます」
光輝はびっくりした。これが噂に聞くあのタクシー券か。
サラリーマンでも部長級以上の接待でしか使われていないらしい。
それが丸ごと一冊とは。
もちろん桂華も詩織ちゃんも遠慮したが、あのいつもの魔法のような部長の口調に説得された。
「万が一にもお嬢さんたちが瑞祥大学に来るのを面倒くさいと思われても悲しいですし、まして帰りの夜道でイヤな目に遭われても困ります。
どうかご自由にお使い下さい」
帰り際に桂華は光輝の耳元で、「あの部長さんって何者なの?」と聞いた。
光輝はやはり小声で、「僕にもよくわかんないんだけど、とってもいいひとだよ」と答えた。
どうやらそれは耳ざといアロさんの耳にも届いたらしい。
アロさんは珍しく嬉しそうににっこりと微笑んでいる。
帰りは小恐竜♂の一人が光輝たち全員をマイクロバスで送ってくれた。
どうやら二十歳を超えているのに、送迎用員としてお酒は飲んでいなかったらしい。
バスから降りるときに、これからもしょっちゅう女神さまに会えると思って感激した詩織ちゃんはまた泣いていた……
数日後の深夜近い時刻。
異常現象研究会の部室には、部長とレックスさんとアロさんの姿があった。
アロさんが真剣な口調で言う。
「龍一さんのご指摘の通り、やはりあの『天使のつぶやき』の著者は桂華さんでした。
タウン誌へのデビューは驚くべきことに中学二年生のときです。
つまりあの本の最初の章を書いたのが中学生のときだったということです。
とんでもない才能です」
龍一部長もレックスさんも真剣な顔で頷いている。
部長が静かに口を開く。
「御隠居様がいつも言ってるんだけど、本当に人を感動させられる文章が書けるのは、本当に人を感動させられる人だけなんだそうだ。
そうでない人がいくら取り繕った文章を書いても、それはすぐに底が割れるそうなんだよ。
僕が人が書いた文章を読んで涙を流したのは、あれが初めてだったかもしれないな。
あれほどまでに暖かくて優しい他人愛を感じたのも生まれて初めてだったよ……」
またレックスさんとアロさんが重々しく頷く。
「それからやはり、光輝くんも奈緒さんも、それから桂華さんも詩織さんも、龍一さんの素性は知らないようですね。
みんな単に龍一さんのことを頼れる部長さんだと思っているだけのようです」
「僕は本気で思っているんだよ。彼らとは一生のつきあいをしたいなって。
それにどうやら、実際にそうなりそうな予感もしているんだ。
それにしても、光輝くんも奈緒さんも、その友人たちも、みんな途方もない人物だねぇ……」
そうして瑞祥龍一は晴れ晴れと微笑んだのである。
その頃、光輝と奈緒の部屋のダブルベッドの上では、二人が寄りそって横になっていた。
「光輝さん」
「なんだい奈緒ちゃん」
「光輝さん知ってました?」
「なにを?」
「桂華さんの初恋の人って、光輝さんだったんですよ……」
「えええっ!」
「中学生の頃まで好きで好きでしょうがなかったんですって」
「えええええっ!」
「毎日光輝さんの写真を見て、ため息をついたり泣いたりしていたそうなんです」
「…………」
「でも、私が中学生になっても、あの……お母さんになる練習をしているときでも、毎日光輝さんとお風呂に入ってるって言ったら、桂華さん真っ赤になって、『無理っ! アタシには無理っ!』って言ったんです。
それで諦めたんですって……」
「…………………」
「それからかもしれません。
私のこと本当に妹みたいに可愛がって下さるようになったのは」
「……そうだったんだ……」
それからは桂華も詩織ちゃんも、毎日のように異常研の部室にやってくるようになった。
おばさんが一日おきに手伝いに来るようになった桂華は一日おきに、詩織ちゃんは本当に毎日やってきた。
みんな実に楽しそうにおしゃべりしたり、小恐竜たちの異常現象研究を手伝ったりしている。
夕方になると、けっこう忙しいはずの部長もレックスさんもアロさんも、毎日必ず部室に顔を出した。
土日にも部室には誰かしらいるので、けっこう集まりがいい。
詩織ちゃんですら、もう奈緒ちゃんがいなくても部室でみんなとお話が出来るようになっている。
食事会も頻繁に行われ、夏休みには合宿と称して海や山へも行ったが、ここでも部費が大盤振る舞いされて豪華な旅行になった。
光輝はそろそろバイトも始めなければとは思っていたが、延び延びになってしまっている。
ある日、龍一部長が光輝と奈緒に言った。
「ようやく頼んでいた人が帰って来たんで、来月の最初の日曜日に出かけたいんだけど、予定は空いているかな」
二人は頷く。
毎週日曜日は異常研でなにかしらの行事があるので、なるべく予定は入れないようにしてある。
アロさんによると、龍一部長が二人を連れて行くのは、部長の家のお墓がある瑞巌寺というお寺だそうである。
光輝宗瑞巌寺。
八百年ほど前に厳隆上人が開祖となった光輝宗に属する寺院である。
当時は光宗と呼ばれていたが、開祖から二百年ほど経ってから、弟子たちの跡目争いで光輝宗と光臨宗に分裂したそうだ。
偶然にも光輝の名と同じ宗派名だったが、光輝が両親に聞いてみても、光輝の名前とは特に関係無いとのことだった。
奈緒の家の代々の墓は、ここ瑞巌寺にあるそうであり、奈緒は法事で何度か来たことがあるということである。
部長の他にレックスさんとアロさんもついて来た。
瑞巌寺の山門前に到着した光輝は、驚きのあまり立ち尽くした。
これほどの大伽藍は修学旅行で京都に行ったとき以来見たことが無い。
さらに驚いたことには、山門には大柄な僧侶から高校生ぐらいに見える小坊主まで、八人もそろって青々とした頭を下げて出迎えてくれている。
そのうちのひとりは、レックスさん級の偉丈夫である。
レックスさんの顔も怖いがこちらの方がもっと怖い顔だ。
体つきもものすごい。
光輝は心の中で密かに、キングコングと命名した。
本堂までの石畳の長い道を歩いて行く途中で、アロさんが光輝の耳元で、「キングコング。どお、当たったでしょ」と言って微笑んだ。
光輝は耳まで赤くなった……
(つづく)