*** 4 バチカンとアメリカ ***
後刻、ふたたび院長室。
誠一院長が光輝の前で床に手をついていた。
光輝が必死で懇願しても頭を上げてくれない。
ようやく頭を上げた誠一院長が言う。
「当院には、三人の末期小児ガン患者が入院しています……」
今度は光輝にはすぐに誠一院長が何を言わんとしているのかがわかった。
「可哀想に三人とも回復の見込みは無く、一カ月から三カ月以内にみな天に召されるでしょう」
「は、はい」
「ですから三尊さん。
どうか彼らにも御仏の慈悲深い御光を分け与えてやっていただけませんでしょうか」
「もちろんですよ」
誠一院長はまた晴れ晴れと笑った。
「そうと決まればもうひとつお願いが……」
「な、なんでしょう」
「その子たちはみな抵抗力が極端に落ちていますので無菌室に居ます」
「は、はい……」
「ですから三尊さんにも無菌状態になっていただかねばなりません」
「は?」
「つまり剃髪であります」
「…… ! ……」
こうして光輝は人生初のツルツル状態になった。
全身消毒の上、徹底的に消毒された修行衣を着ると、もう完全に僧侶にしか見えない。それも駆け出しの修行僧にしか見えない。
奈緒ちゃんは、「わぁっ!」と言ったきり絶句した。
ひかりちゃんは、見なれぬおとうさんの顔を見て、おかあさんにしがみついてまた泣きだした。
光輝はおろおろしながら、「なっ、奈緒ちゃん。ぼ、僕のことキライになったりしないでね」と情けないことを言った。
無菌状態を保つため、光輝はすぐに二人から引き離されたが、まだ心配そうに後ろを振り返っていた。
だが……
光輝も奈緒も、連れて来られた三人の末期小児ガン患者の姿を見て、すぐに真剣な表情に変わった。
三人の患者のうち、一番年上なのは小学校五年生の女の子だったが、体も小さく痩せ衰えているために、どう見ても小学一年生ぐらいにしか見えなかった。
次は二年生の男の子だったが、こちらはろくに意識も無い。
衰弱しきっていてほとんど動かない。
そして三人目は……
哀れにもひかりちゃんとあまり変わらない乳児だったのである。
三人とも化学療法のせいか髪の毛は全く無い。眉毛すらない。
体中に点滴の管やバイタルチェックのための電極や電線が這いまわり、その乳児などはまるでスパゲティの中で寝ているように見える。
奈緒の顔色が変わった。
光輝の顔色も変わった。
その瞬間から光輝は二十四時間ぶっ続けで座禅を組んだ。
もちろん崇龍さんも一緒だ。
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翌日。瑞祥誠一院長の院長室。
またもや憔悴しきった顔色の誠一院長が光輝に言った。
「三人のガンが収縮を始めました……」
「うわっ! やったぁっ!」
「三人とも衰弱が激しいため予断は許されませんが、このまま体力さえ回復させれば治癒する可能性が非常に高くなりました……」
「よかったですねー」
「三人もの末期小児ガン患者が…… 確実に死に至るはずだった末期患者が……
た、たったの一日で……」
「ま、まあ治るんだったらそれでよかったじゃあないですかぁ~」
気の抜けた声で光輝が言う。
「三尊さん……」
「な、なんでしょうか院長さん」
「アナタはお気づきではないのですか」
「な、なにをですか?」
「アナタはこの国の、いや全世界の救世主となられるかもしれないお方なのですよ……」
「えええっ!」
誠一院長は光輝の顔をまじまじと見た。
一生をガン研究と治療に費やしてきたと言っても過言では無い自分の人生を、わずか一日の座禅で覆してしまった光輝の顔を穴のあくほど見つめた。
相変わらず光輝はそういうことにはヨワい。
これほどまでに貫禄のある瑞祥一族の大重鎮に、しかもあれほどまでの努力をもって、人生を医療に捧げて来た立志伝中の人物に凝視されているのだ。
どぎまぎしながら落ちつかない。
だが、誠一院長はふっと笑った。
自分の本業はガンの研究ではなく、気の毒なガン患者を治療することである。
さっき光輝が言ったように、患者が治るなら、それも末期ガン患者が生き延びることが出来るなら、自分のちっぽけな人生の成果などどうでもよいことではないか。
もうすでに五人もの患者が命を取りとめたのだ。
それも確実と思われた死から生還しつつあるのだ。
しかも自分の病院でだ。
誠一院長は、この自意識過少でおろおろしている好青年の後ろから、本当に後光が差しているように見えた……
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三尊様の御光が、厳上僧正様や瑞祥真二郎氏だけでなく、三人の可哀想な末期小児ガンの子供たちをも治癒させ始めている。
間違いなく快方に向かっていて快癒できそうだ。
この一報は、またも瑞巌寺を大歓喜で揺るがした。
今もし光輝が、私は御仏の化身であると言ったら皆それを信じたことだろう。
また、光輝さえその気になれば日本仏教界の統一すら可能だったろう。
だが、その頃光輝は座禅に一区切りつけ、奈緒ちゃんに泣きついていた。
「なっ、奈緒ちゃん……
こ、こんな頭になっちゃったからっていって、ぼ、僕のことキライになったりしないでねっ。
ねっねっ……」
「うふふ、そんなことあるわけないでしょ。
それにそういうお姿もとってもとってもとってもステキですよ、光輝さん……」
「よ、よかったぁー」
崇龍さんだけが、そうした光輝の情けない姿を首を振り振り見ながら苦笑していた……
そして……
大歓喜がもたらされていたのは、瑞巌寺や瑞祥一族ばかりではなかったのである……
留学生たちの面倒をみる傍ら、バチカンから来たマリアーノ司教とワシントンDC大司教区から来たミハイル司教は、まだ毎日自分たちの上司にレポートを書いていた。
すなわちマリアーノくんはバチカンのロマーニオ枢機卿に、ミハイルくんはNYの大司教にである。
そのレポートはそれぞれ法王様と大統領にも転送されていて、二人ともそれを読むことを楽しみにしていると言われている。
最近では彼らの上司たちは、二人に瑞祥研究所や瑞巌寺の動向も、どんな些細なことでもかまわないから書き足すように言っていた。
法王様や大統領がお喜びになるからだそうだ。
二人は当然のことながら、この重大な知らせ、すなわち三尊光輝氏の座禅の際に顕現する尊い御光が、仲間の僧侶のみならず、瑞祥一族の親戚や同じ病院に入院していた三人もの末期小児ガン患者のガンを治癒させ、その命を救ったという大快挙を報告した。
そのレポートは、患者全員が確実と見られた死から救われ、日々快方に向かっていると結ばれていた。
この報告書を読んだローマ法王サバティーナ二世は、その場でひざまずいて涙を流しながら神に祈りを捧げたという。
アメリカ合衆国大統領、アレクサンダー・ジョージ・シャーマンは、その場で立ち上がってガッツポーズを取り、「私の友人が、あの好青年がまたしても奇跡を成し遂げおったかぁっ!」と叫んだという。
そうして法王様も大統領も、二人の司教に続報を詳細にレポートするよう指示を送るとともに、側近を集めて今後の展開次第で彼らにどのような援助をするかの検討に入った。
もちろん二人とも本気中の本気だった。
日本国政府を信用していないわけではないが、バチカンやアメリカが本気で支援すれば、全世界に大いなる幸福と福音をもたらすことが出来るかもしれないのだ。
マリアーノくんとミハイルくんは、龍一所長に法王様と大統領からの指令で、瑞祥総合病院で起こっていることを詳細に報告しなければならないのだと説明した。
そしてより詳細な報告を送るために、瑞祥誠一院長へのヒアリングをしたいと懇請し、合わせて同医師への紹介を丁重にお願いした。
バチカンとアメリカ合衆国が瑞祥研究所と瑞巌寺の大スポンサーであることを知っている誠一院長はこれを快諾し、患者のプライバシーに触れない範囲内ですべてを語ることを約束している。
厳上や瑞祥真二郎はもとより、三人の子供たちの親たちからは、同じような気の毒な患者たちを救うため、子供たちの経過を研究対象とすることへの承諾を得ていた。
もちろん親たちは快諾している。
先ほども光輝と奈緒の前に現れ、もうお礼の言葉も言えない程号泣しながらお礼をしていたところだ。
奈緒も貰い泣きをしたあと、光輝をまた惚れ直したという目で見てくれた。
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マリアーノくんとミハイルくんは熱心である。
二人はさっそくガンとガン治療の勉強を始めるとともに、交代で瑞祥総合病院に出向いて、院長を始め看護師や患者とその家族などに徹底的なヒアリングを行った。
もちろん魅力的で真面目な二人の聖職者の態度は実に真摯であり、関係者全員から好意のうちに貴重な情報を多数集めた。
今後三尊氏は瑞祥総合病院に入院中のすべてのガン患者の治療に取りかかる予定であり、その結果は後日報告すると結んで二人はその日の報告を終えた。
瑞祥総合病院が引き続き全ての入院ガン患者の治療の準備を行うため、光輝はいったん帰宅を許された。
病院前に横づけされた専用車に乗り込むと、いつものように前後を護衛車が固め、分署から派遣されたいつものパトカーも先導してくれている。
病院前の広場にいた患者やその家族たちは、いったいどんなVIPが来ているかと興味津津で集まってきていたが、若い修行僧ふうの男とその家族と見られる若い女性と乳児が乗り込んだだけなので、拍子抜けして散って行く。
光輝は車内で奈緒と相談し、奈緒の疲労を考えて、遅い夕食は邸前のイタリアンレストランで取ることにした。
光輝と奈緒がおいしいイタリアンを楽しんでいると、その店のオーナーシェフが挨拶に来た。
「いつも御来店ありがとうございます」
「いえ、こちらこそいつもおいしいお料理をありがとうございます」
「本当にいつもご利用いただきまして誠に嬉しいのですが……」
シェフの顔が曇っている。
「ど、どうかされましたか」
「いえ、実は近々この店を閉めようかと考えておりまして……」
「ええっ、そ、それは困るっ!」
「それが、お恥ずかしい話ですが、三尊さん始め研究所の方々にもいつも御利用いただいていたのですが、その…… 夜のお客様があまり多くないために、経営状態が芳しくないのですよ」
確かにまだ八時だというのに客の数はそれほどでもない。
「それにもうすぐバイパスが出来て交通量も少なくなるでしょうから、この辺りでふんぎりをつけてと考えまして……」
そのバイパスは、光輝たちが瑞巌寺との行き帰りに渋滞に巻き込まれない様、政府が計画したものだ。
そのせいでこのレストランが廃業して光輝や研究所の職員が困るとしたら……
まったく政府のやることはちぐはぐである。
「あの…… 少し研究所の方でも考えさせていただけませんでしょうか」
「はい、すぐに廃業するわけでもありませんし……」
そう言うとシェフは寂しそうに戻って行った。
「奈緒ちゃん」
「はい」
「明日さ、今の話を龍一所長に伝えておいてもらえないかな」
「はい」
「そして僕からだって言って、所長のお力でなんとかならないもんかとお願いしておいてもらえないかな」
「はい……」
光輝たちは店を後にすると、ゆっくりと歩いて家に帰った。
敷地の入り口の門のところでは警備員さんたちがびしっと敬礼してくれる。
それに応えてお辞儀をしながら光輝はしみじみと言った。
「仕事が順調に行ってるって、ありがたいことなんだねえ」
「……はい……」
「僕は僕に与えられた仕事をせいいっぱい頑張るよ……」
「……はい…… わたしも……」
(つづく)




