*** 16 ウインドサーフィン ***
それからしばらくの後、光輝が倒れた。
瑞巌寺での仕事を終えて迎えの車に奈緒と乗り込もうとしたときに、大勢の僧侶が見送る中で地面に倒れたのだ。
光輝は薄れゆく意識の中で、「あれ、なんで地面が目の前にあるんだろう」という疑問と、「なんで奈緒ちゃんの悲鳴が聞こえるんだろう」という思いを感じていた……
翌朝、瑞祥総合病院の広大な特別室で光輝は目を覚ました。
すぐ隣には、光輝の手を握り締めたままの奈緒が、光輝のベッドに上半身だけ乗せて寝ている。
奈緒の可愛らしい寝顔はしかし、涙でぐしゃぐしゃだ。
部屋の隅に座っていた専任の若い看護婦が、すぐに医師に連絡をとった。
いつか一族総会で見た、瑞祥総合病院院長の瑞祥誠一さんがすぐやって来て、光輝に一通りの診察をし、バイタルをチェックする。
「過労ですな。他にあまり問題は無いようですが、肝機能がだいぶ落ちています。
一週間はここで安静にしていてください」
見舞いに来た者は途方もなく多かったらしい。
皆光輝に配慮して見舞いの品を置いて記帳だけして帰ったのだが、ご奉名帳は二十冊を数えたそうだ。
夥しい数の霊たちも病院を取り囲んでいる。
看護婦がひっきりなしに見舞いの品を運び込んで来ていた。
広大な特別室もすぐに見舞いの品で埋まり、隣の倉庫まで使っているそうである。
光輝は見舞いの品のうち、お供えになりそうなものを研究所に運んでもらって霊たちにお供えしてもらった。
病室まで来てくれたのは、光輝や奈緒の両親と、龍一所長や厳攪、厳空ら幹部だけだった。
光輝は厳攪に詫びた。
「す、すいません。一週間も修行会に出られなくなってしまいました……」
厳攪はにっこり笑って言った。光輝の病状はもう聞いていたのだろう。
「最慎殿も実に心配しておられた。
三尊殿が修行で鍛え上げた僧侶ではないことを失念しておったと、深く反省しておられた。
我々もそうじゃ。この上はゆっくりご養生くだされ」
皆光輝を気遣って、早々に帰って行き、光輝と奈緒はゆっくりとした時間を過ごした。
「奈緒ちゃん。驚かせてごめんね」
「ううん。一週間ゆっくり休んでくださいね」
聞けば奈緒は倒れた光輝にすがりついて悲鳴を上げているうちに、酸欠で気絶したそうだ。
非番で瑞巌寺に手伝いに来ていた榊警部補が、奈緒の悲鳴を聞きつけて飛んできた。
榊は倒れた光輝と奈緒の呼吸と脈拍をチェックし、「救急車二台っ!」と叫ぶなり、奈緒に人工呼吸をしてくれたそうである。
その瞬間には奈緒の方が危険だと判断したらしい。
さすがは元捜査一課員である。応急手当もプロレベルだった。
光輝と一緒に瑞祥総合病院に担ぎ込まれた奈緒は、救急車の中から酸素吸入を受けていたおかげでまもなく意識を回復し、そうしてまた光輝にすがったまま泣き続けていたという。
「最初はね、もう怖くて怖くてしようがなかったの。
光輝さんが死んじゃったらどうしようって……
でもふと思いついたの。
もし光輝さんが死んじゃったら私もすぐに死ねばいいんだって……
そうしたら二人が離れ離れになっている時間なんかほんの少しで済むでしょ。
それから落ち着いて呼吸もできるようになったの」
そう言うと奈緒は光輝を見つめてにっこりと微笑んだ。
光輝もにっこり微笑むと、「もしも奈緒ちゃんが僕みたいに倒れたら、僕もそうするよ」と言って愛おしそうに奈緒を抱き寄せてキスをした。
部屋の隅では専任の若い看護婦が赤くなっていた……
翌日、少し緊張した様子の婦長さんに案内された外人さんが、綺麗な花瓶に入った花を持ってやってきた。
外人さんは長身で身なりも整っており、顔つきも真剣だ。
アメリカ合衆国駐日大使からのお見舞いの品だった。
外人さんはすぐに帰ったが、帰り際に光輝に見事な敬礼をした。
光輝も心からお礼を言った。
きっと大使館の駐在武官だったのだろう。
翌日もまた緊張している婦長さんに連れられて同じ外人さんがやってきたが、なぜか外人さんは昨日と違ってかなり緊張している。
今度も持っているのは昨日よりやや大きいやはり綺麗な花瓶に入った花だったが、添えられたカードには、「心配したよ。仕事もほどほどにして体を労わってくれたまえ」と書かれていて、アメリカ合衆国大統領と書かれた下に署名もあった。
今日の外人さんの敬礼はさらに見事である。
光輝は彼に握手を求めてお礼を言った。
光輝担当の若い看護婦は最初冗談だと思ったらしいが、婦長さんになにやら聞かされて蒼ざめていた。
婦長さんによれば、その外人さんの乗った車には星条旗がついていて、白バイに先導されていたそうだ。
大使と大統領へのお礼の手紙はすぐに桂華が用意してくれたので、光輝はサインするだけで済んだ。
龍一所長は本家を訪れて御隠居様に事態の報告をし、併せてお願いもした。
御隠居様は頷いてすぐにそれを了承した。
瑞巌寺を取り囲む広大な森や野原はすべて瑞祥本家の所有地だったが、その中で瑞巌寺に近い比較的平坦な野原を選んで、瑞祥建設土木部の突貫工事でとてつもなく広い修行場が作られ始めた。
なんでも一度に千人、詰めれば千五百人の僧侶が一度に座禅を組めるようになる予定だと言う。
退院間際にそれを龍一所長から聞いた光輝は、あるお願いをつけ加え、龍一所長はにっこり笑ってそれを了承した。
光輝が退院すると、光輝修行会の座禅の回数は、週に三日、一日に朝夕一回ずつだけになっていた。
光輝が希望すれば日にちも時間もいくらでもずらしてかまわないという。
それでも新しい修行場では僧侶全員が一度に座禅に参加出来るので、全ての僧侶が週に六回の座禅に参加出来た。
今度の修行場は緩やかな傾斜地である。
段々畑のように階段状の形状をしていて、それぞれ平らなところに僧侶が座って座禅を組む。
当初は一番高いところにまた壁の無い屋根だけのお堂を建てる予定だったのだが、光輝の希望でその座禅台は一番低いところに建てられている。
屋根も柱も無い。
そうすると、光輝はたとえ座禅台の上に座っていても全ての僧侶より低い位置になり、また全ての僧侶が光輝を見ることが出来る。
光輝は前の修行場のお堂で、自分だけが高い位置にいるのが嫌だったのだ。
最初のうち、光輝はお見舞いの記帳を見て、お見舞いに来てくれた僧侶たち全員を探してお礼の挨拶を始めたが、みかねた最慎と厳攪が見舞いに行った者を一同に集合させて、お礼が一度で済むようにしてくれた。
ほとんどの僧侶が集まると、光輝は練習していたお礼の言葉を丁寧に言上し、深々と三分も平伏して感謝した。
光輝はもっと平伏しているつもりだったのだが、今回も最慎と厳攪に止められた。
光輝はまた、清二に仕事を休んだお詫びに行ったが、清二板長はにっこりと微笑んで言った。
「しょうがねえよ。お前ぇの本業はみんなと一緒に座禅を組んでやるこったぁ。
お前ぇが戻って来てみんなあんなに喜んでるじゃねえかぁ。
おたげぇ、本業に精を出そうぜぇ」
研究所にも行って、見舞いに来てくれたスタッフたちにも丁寧にお礼を言い、特に榊警部補には奈緒を助けてくれたお礼を丁重に言った。
榊警部補は少し意外そうな顔をして光輝と奈緒を見ている。
きっと、元捜査一課員にはあの程度のことは日常茶飯事だったのだろう。
龍一所長は誠一院長にお願いして、瑞巌寺に臨時診療所を作ってもらった。
医師一名と看護師二名が常駐して僧侶たちの健康にも目を配る。
厳空は、配下の特殊苦行部隊の若者たちに定期健康診断を受けさせるようにし、特に肝機能が少しでも衰えた者は除隊を許したのだが、幸いにも彼らは頑健であり除隊者はほとんどいなかった。
今日は榊純子警部補の非番の日であり、したがって厳真の休暇の日でもある。
純子が厳真に、どこに行きたいか聞くと、「もし純ちゃんさえ良ければ海に行ってウインドサーフィンがしたいな」と意外なことを言ったので、二人は純子の新車に乗って海に向かっていた。
もちろんハンドルは純子が握っている。
今日は厳真もあのデザイナーズブランドの私服だ。
純子も少し女らしい服を着ている。
「瑞巌寺に行くようになって、ようやくなんでみんなが三尊さんを崇拝してるのかがわかったような気がするわ」
「三尊殿はね。私の命の恩人でもあるんだよ」
「えっ。真兄ちゃんの命の恩人……」
真兄ちゃんこと厳真は、純ちゃんこと榊純子警部補に、光輝のおかげで無明の闇の中から生還できた話をした。
「そうだったの。だからみんなあんなに……」
「それに私らが異例の出世ができたのも、みんな三尊殿のおかげなんだよ」
「ふ~ん。私はまた、プールサイドに美女たちを侍らせてるだけのすけべぇかと思ってた」
真兄ちゃんは笑いながらその理由も説明した。
「それにしてもあのときの純ちゃんはすごかったねえ」
「あ、あれはついムキになって……」
純ちゃんは赤くなったのをごまかそうとして言う。
「そ、そういえば、あのプールの傍にある研究所の建物ではいったい何をしているの。あの屋上でバーベキューパーティーをしたところ。
ずいぶん大きな建物だけど、なにかの研究でもしているの?」
真兄ちゃんは笑いながら言った。
「ああ、あれはね、研究所じゃあなくって、龍一所長とその補佐役さんと、それから三尊殿のご自宅なんだよ」
「ええっ、あ、あんなに大きいのに!
門のすぐそばの研究所の倍ぐらい大きいのに、たった三軒のお宅っ!」
「そうだよ」まだ真兄ちゃんは笑っている。
「け、研究所ってそんなに儲かってるの?」
「いや逆だね。研究所は赤字続きなんだ。
たまにお金持ちの依頼者からお礼を貰う以外は収入も無いし」
「う、うん」
「でも、龍一所長さんは私財から、補佐役さんは瑞祥グループ全社の社外取締役としての収入から、そして三尊殿はやっぱりグループ全社の税務顧問としての収入から研究所に寄付して運営してるんだ」
「そ、そうだったんだ。アタシちょっと誤解してたかも……」
「でもよかったよ。純ちゃんが奈緒さんを助けてあげてくれて……
僕からもお礼を言うよ。ありがとう」
「そ、そんな……」純ちゃんはまた赤くなった。
ウインドサーフィンのメッカと言われる海岸に着いた二人は、ボードを借りてウインドサーフィンを始めた。平日なので海は空いている。
初めてウインドサーフィンをする純ちゃんもそこそこ上手かったが、真兄ちゃんの腕は群を抜いていた。
純ちゃんはしばらくうっとりした顔で真兄ちゃんの妙技を見ていたが、そのうち大きなボードを借りてのタンデムをねだった。
海岸では大勢の男の子や女の子たちが、異様に筋肉の発達したスタイルのいいスキンヘッドのステキなお兄さんと、これも異様にスタイルのいい美女が、にっこり見つめ合いながら妙技を繰り広げるのを口を開けてうらやましそうに見ている。
夕日に染まる海岸では、真兄ちゃんにもたれて座る純ちゃんの姿があった。
純ちゃんの、生まれて以来二十八年越しの恋が実るかもしれない……
(つづく)




