*** 10 超特上松阪牛フィレ肉 ***
龍一所長は、瑞巌寺近隣の温泉旅館を三軒、向こう一年間借り切った。
瑞巌寺に来てくれる上級僧侶たちの宿舎にするためである。
若い僧侶たちのためには、瑞祥グループのホテルチェーンを経営する二席さんにお願いして、やはり瑞巌寺に近いホテルを借り切った。
そうした旅館やホテルには、毎朝毎夕瑞祥交通のバスが横づけされ、応援に来てくれた僧侶たちを瑞巌寺に送迎している。
上級僧侶たちには瑞祥交通のタクシー券を配った。
そんな折、浮遊霊の研二が重大な事件を持ち込んで来たのである。
市内のある場所に子供の地縛霊がいたのだが、その子はなんと誘拐殺人事件の被害者だというのだ。
犯人に殺されてしまい、その場所に埋められているのだという。
犯人はまだ捕まっておらず、迷宮入り事件として扱われていた。
研二の案内で、すぐに光輝と厳真はその場所に向かった。
大きな家の広い庭の隅にある木の下にその子の霊は佇んでいた。
幸いにもその家の隣は空き地になっていたので、そこから厳真はその子供の地縛霊と話が出来た。
木に隠されていて、いままでどの浮遊霊の目にも止まらなかったらしい。
研二が執念で見つけてくれたのである。
厳真は子供の霊と長いこと話し込んでいたが、話が終わると二人は徳永警察署長の元に急いだ。
徳永署長は会議中だったが、光輝と厳真の緊急の用件だと聞いてすぐに会議室から出て来る。
そうして署長応接室で腕を組んで、怖い顔をしたまま光輝と厳真の話を聞いたのである。
「その件は間違いないのですかな。
いや、あなた方のお話でしたら間違いは無いでしょうな」
署長は部下を呼ぶと、県内で未解決になっている子供の行方不明事件のファイルをすべて持ってくるように命じた。
特に写真を全て揃えるよう念を押した。
署長の顔色を見た婦警は、大勢で手分けしてすぐにたくさんのファイルと写真を持ってきた。
「この中にその子の写真はありますかな」
厳真はすぐに一枚の写真を指差した。
「この子です」
七年前に行方不明になってからなんの消息も無い子だった。
署長はその家の住所を聞くと、また部下にその家の住民の調査票を持ってくるよう怖い顔で命じた。
今度もすぐに結果がもたらされた。
その家の主は、なんと当時その子の通っていた小学校の教師だったのである。
徳永警察署長は色めきたった。
その事件の管轄は自分の署ではなかったものの、幸いにしてその地域を管轄する警察署の署長は昔の捜査一課長時代の部下だった。
栄転した徳永の後任の捜査一課長でもある。
その場で元部下の齊藤警察署長に電話を入れた徳永は、「重大事件だ。すぐに来てくれ」とだけ言って電話を切り、すぐに検非沢裁判官にも電話を入れて事情を説明している。
まもなく元部下で、現警察署長の齊藤が飛んできた。
重大事件と聞くと、元捜査一課長はなにを置いても飛んでくる。
光輝たちはまた齊藤警察署長に説明を繰り返した。
齊藤は、最初疑わしそうな顔をして聞いていたが、徳永署長の怖い顔を見ると真剣に聞き始めた。
やはり元部下だけあって、徳永のことは熟知している。
徳永はこんなヨタ話に振り回されるような男ではない。
さらに徳永は齊藤に、最近の強盗殺人犯を見つけてくれたのは、極秘事項だがこちらのお二人なのだ、と打ち明けた。
齊藤署長の目が大きく見開かれる。
「しかし、捜査令状が降りますかな」
齊藤が言う。口惜しそうな顔だ。
徳永が言った。
「検非沢裁判官が今用意してくれている」
齊藤は、徳永の越権行為を咎めることも無く、驚いて徳永を見つめた。
(そういえば、あの強盗殺人事件の捜査令状を用意したのも検非沢裁判官だったな……)
そう思った齊藤署長は納得した。
驚いたことに、まもなく検非沢が直接捜査令状を持ってやってきた。
徳永や齊藤とおなじく、鉄の意志を持った鋼鉄のような男だったが、どうやら好奇心は旺盛らしい。
徳永からあの三尊氏と厳真権僧正が来ていると聞いて、光輝たちの顔を見てみたくなったらしかった。
検非沢は、光輝と厳真が若いのに驚いていた。
厳真も光輝も見た目は若い優男だ。
検非沢は徳永に言う。
「証拠は何もないんだろう。間違いないんだろうな。
もしお前が間違えたら、俺は相当に困った立場に追い込まれることになる」
「証拠はこの前にも話したこのお二人だ。
それに事件の解決を考えれば、間違いなんぞを怖れるあんたでもあるまいに」
徳永が平然と答える。
検非沢はにやりと笑った。
「いつ踏み込むんだ」
齊藤署長が言う。
「早い方がいいですな。明日の朝一番ではどうでしょう」
(どうやらこの三人で昔からたくさんの事件を解決してきたみたいだなあ)
光輝はふとそう思った。
翌朝、大勢の警察官がその家に向かった。多くのスコップを持っている。
捜査令状を提示すると、警察官たちはすぐに厳真の指示した場所を掘り始め、まもなく小さなひとの骨が見つかった。
捜査一課長は光輝と厳真も重要参考人として拘束しようとしたが、その場で検非沢裁判官と齊藤署長に止められた。
犯人は逮捕され、全てを自供した。
時効まであと三カ月だった。
その時効寸前の逮捕劇は、全国ネットにも載り、マスコミは日頃の論調も忘れて、警察の執念の捜査を褒め称えている。
齊藤署長は警察長官表彰をもらい、徳永や光輝たちに頭が上がらなくなった。
光輝たちの要請で、全て齊藤が署長を務める警察署の手柄になったからである。
被害者の子供の霊は、その広い庭を埋め尽くす僧侶たちの荘厳な読経の中、笑顔で無事天に昇っていった……
瑞祥異常現象研究所の所長室に、龍一所長や光輝、厳空や厳真といった幹部全員が顔を揃えている。桂華や奈緒ちゃんもいる。
そこには浮遊霊の志郎と研二もいた。
周りには他にも浮遊霊たちがたくさんいたが、特に邪魔になるわけではない。
また光輝が座禅を組んで厳真をバックアップし、霊の見えないみんなに研二の姿を見せてあげている。
龍一所長が研二を絶賛した。
「いやあ、研二さん。お手柄でしたねえ。
あなたの素晴らしい行動のおかげで、犯人も捕まりましたし、可哀想な子供の霊も無事成仏出来ました」
周囲にいる皆も口々に褒め称えた。
桂華や奈緒はパチパチと拍手している。
「い、いやそれほどでも……」
厳真の口を借りた研二の声が謙遜する。
「研二さん。お礼に何かして差し上げたいのですが、なにかご要望はございませんでしょうか」
「あ、あのそのあの…… 実はひとつお願いがありまして……」
なんだかもじもじした声で研二は言った。
実際には厳真の口から出ている声なので、光輝は少しおかしかった。
厳真がもじもじしているところなんか見たことが無い。
「あの、そのですね……
実は僕が頑張って子供の霊を探し回っていたのも、実はこのお願いを聞いてもらえるんじゃあないかと思っていたからで……
お、お恥ずかしい……」
「どうぞご要望を仰って言ってください。
私たちにできることでしたらなんでもして差し上げたいのです。
現世はそれだけの借りがあなたにあります」
研二は言った。
「あ、あの、ぼ、僕、ステーキが食べたいんですぅ」
聞けば研二は食べることが大好きだったそうだ。
まあ、その大きくて太った体を見れば一目瞭然だ。
特に上等なフィレステーキが好物だったという。
そしてある日、一大決心をして、百グラム五千円もする松坂牛の最高級フィレ肉を二キロも近所の肉屋に注文したそうだ。
(うわ、十万円か)光輝は驚いた。
食べることが好きな研二は料理も上手だったという。
そうして遂にその最高級肉が届き、十万円を払って家に帰る途中で、研二はトラックにはねられて死んでしまったのである。
死ぬ前に研二が最後に見たものは、トラックに轢かれて無残に潰された最高級松坂肉だったそうだ。
「そ、それで僕、ステーキに対する妄執で浮遊霊になっちゃったんですぅ。
霊になってからはもうステーキなんか食べられないし、悲しくて毎日ふらふらしてたんですぅ。
そしたらこちらの志郎さんが、子供の霊を見つけてきたら、皆さんが僕の願いを聞き届けてくださるかもしれないよ、って仰ってくれて……」
「誰かに取り憑いて、ステーキを食べてみようとしなかったんですか」
「ぼ、僕まだ低級霊なんで、そ、そんな難しいこと出来ません。
だから誰か霊力の強い人にお願いして、一時的に取り憑かせてもらわないと……」
高位の霊力者で、二キロものステーキを食べられる者……
そこにいた全員が厳空を見た。
厳空は諦めてため息をついた。
後日、瑞祥グランドホテルのメインダイニングの特別室に全員の姿があった。
霊たちも大勢見に来ている。
龍一所長は、二席さんの紹介で、ダイニングに五キロもの超特上松阪牛フィレ肉を注文していた。
百グラム一万円の最上級品だ。これ以上の肉は無いという。
厳空は、浮遊霊の研二を手伝って自分に取り憑かせてあげた。
もしも万が一、研二が現世の体を得てなにか悪さをしようとしても、厳空ならたちどころに反撃出来るだろう。
皆は安心して見ている。
やがて厳空に取り憑いた研二の目の前に、一キロの超特上松坂牛フィレ肉がステーキになってやってきた。
二席さんに頼まれた総シェフ渾身の一皿だ。
残りは冷めないように次々に焼いて持ってくるという。
目の前に置かれたステーキの皿を見た研二は、口を開けて目を輝かせ、恍惚の表情で笑顔になった。
実際には厳空の顔でそんな表情になっているので、みんなはくすくす笑っている。
研二が食べ始めた。
上等な赤ワインも用意されていたが、そちらはほとんど飲まず、意外に上品なマナーで、しかし次々に切り分けた肉を口に運んでいる。
顔はますます恍惚としてきた。
たまに洒落た仕草でナプキンで口を拭くが、どうもよだれを拭いているらしい。
一皿目を食べ終わる頃、絶妙のタイミングで焼きたての二皿目が運ばれて来た。
先ほどの一皿目はミディアムだったが、こちらは血の滴るようなレアだ。
研二はまったくペースを落とさずに二皿目も平らげていく。
見ている方がおなかいっぱいになりそうだ。
ついに三皿目が登場した。
またもや研二は猛然とそれに取り組む。
巨大な肉の塊が、片端から消えていく。
とうとう三皿目も空になった。
研二は、「ああ…… ああ……」と言いながら目を閉じて上を向いている。
目の端から涙がぽろぽろと落ち始めた。
「こ、こんなにおいしいステーキをこんなにたくさん食べられたなんて……」
皆の見つめる前で、厳空の体から研二の霊がゆっくりと抜け出てきた。
そのまま静かに上の方に昇っていく。
研二の姿が見えなくなる前に、「みなさんありがとー」という声が聞こえてきた……
(つづく)