*** 1 三尊の三フシギ ***
三尊光輝はいつも自分の境遇を不思議に思っていた。
幼いころからの友人たちに言わせると、三尊の三フシギだそうである。
地方都市の公務員の一人息子として生を受けたのだが、まあ取り立てて言うほどのものではない。
見た目もやや身長が高くて肩幅が広めなため多少見栄えがするが、そんなヤツは周りにいくらでもいる。
学校の成績も極めてフツーだった。
だが、ときどきやたらに運が良くなるのである。
小学校時代の林間学校の前夜、高熱を出した光輝は病院に担ぎ込まれたが、同級生たちが出発した途端に嘘のように熱が引いた。
泣きながら今から林間学校に連れて行ってくれと両親に頼んだが、もちろんそんなことは無理な話である。
だが……
その林間学校の宿舎で集団食中毒が発生したのである。
それもけっこう深刻なもので、同級生たちは何人も入院した。
特に光輝と同じ班の生徒たちは症状が重く、中には退院まで一週間以上かかった者もいたほどである。
また、中学生のときには地元にも大きな被害を出した地震があったのだが、そのときも校庭のど真ん中にいて助かった。
帰宅途中の道になにか黒いもやもやとしたモノが立ち塞がって、光輝を通らせまいとしていたのである。
怖くなった光輝が後ろを振り返ると、そちらには白いもやもやとしたモノがいて、光輝を導くように学校の方にたなびいていた。
そこで忘れ物に気づいた光輝が教室に戻る途中、校庭にいるときに大地震が起こったのである。
しばらくして、ガラスや看板が散乱している商店街を抜けて自宅に帰ると、自室の机の上やベッドの上にも、棚やクローゼットの上から落ちた重い荷物が散乱していた。
高校のときには、臨海学校に行くときに乗ったバスが、運転手の居眠り運転でガードレールを突き破って谷に転落しかけた。
光輝はやはり旅行前日に熱を出していたのだが、さすがに高校生ともなると発熱を隠すぐらいのことは出来る。
バスがガードレールを突き破って宙に浮きかけた瞬間、光輝は、「ああ、やっぱり……」と思ったのを覚えている。
だがそのバスも奇跡的に壊れたガードレールの端に引っ掛かり、谷への転落を免れた。
友人たちは何人も前の座席にぶつかったりしてケガをしたのだが、光輝には不思議とかすり傷ひとつ無かったのである。
隣の席の五木健が席を立とうとして光輝と前の座席の間にいてくれたおかげだった。
もっとも健は腕を骨折して嘆いていたが……
どうも身体的な被害を受けそうな不運から、強制的に避難させられているようである。
子供のころからの友人は、旅行などに行くときに、集合場所で光輝の顔を見るとほっとするほどだ。
これが一つ目のフシギである。
もうひとつのフシギは、自分ではほとんど分からないのだが、光輝の後ろにいると暖かいというヤツがいることである。
もちろんみんなではないのだが、小学校時代から何人もの友達にそう言われた。
おかげで冬になると、休み時間にはみんな光輝の近くに集まって来る。
それも後ろにだ。
光輝が前を向いてみんなと弁当を食べようとしても、女子の友人に、「三尊君、寒いからあっち向いて」と言われる。
夏になるとようやく前を向いてみんなと食べることが許されるようになった。
背中を向けられていると暑いからだそうだ。
高校二年生になった今もそれは変わらない。
もはや誰もそれをフシギには思っていないようだ。
そんなんでいいのか?
そうして……
四時間目の終了を告げるチャイムが鳴った。
これから間もなく三つ目のフシギがやってくるだろう。
それは、「失礼いたします、先輩方……」と丁寧に言って教室の中に入ってくると、光輝の横に折り畳み椅子を広げて座った。
隣家の一人娘で幼馴染の三尊奈緒である。
名字は同じだったが兄妹でも親戚でもない。
この辺りの土地には三尊姓は多いというほどでもないがそれなりにいる。
いつものことながら奈緒が教室に入って来ると、そこだけ光が差したかのように明るくなった。
男子高校生たちが奈緒に見とれている。いや女子高校生たちも見とれている。
奈緒が抱えて来た大きな包みを開け始めると、周囲にクラスメートたちが集まって来た。
二段になった見事な漆塗りの重箱が現れ、奈緒がその蓋を開けると、周囲から「おおっ」という声が上がる。
上の重を降ろして下の重が現れると、また「おおっ!」というもっと大きな声が上がった。
現れたのは、まるでおせち料理のようにぎっしりと詰まった幕の内弁当である。
高校生男子に相応しくボリューム十分だったが、もちろんボリュームだけではない。
色鮮やかな野菜の煮物に照りも十分な魚の切り身、綺麗に切り揃えられたタケノコ。
その他にもいかにも手がかかった美しいおかずが並んでいる。
俵型のご飯には三種類のふりかけが混ぜられていて彩りも鮮やかに鎮座していた。
もちろん全て奈緒の手作りで、光輝の好みの味付けである。
奈緒はさらに保温ポットから味噌汁を出して、やはり漆塗りのお椀によそった。
「お待たせしましたお兄ちゃん。たくさん食べてね」
奈緒はそう言って光輝の顔を見つめてにっこりと微笑んだのである。
この県立秋原高校は、光輝たちの家から徒歩で通えたが、それなりに偏差値が高かったため、入学希望者も多かった。
そのため市内各地の中学校から生徒たちが集まって来ているので、中学時代からの知り合いはクラスに五人ほどしかいない。
それ以外の連中は、二年生になってすぐに奈緒がこうして毎日昼休みに豪華弁当を持って現れるのに驚いた。
聞けば一年生だといい、名字も同じで光輝を「お兄ちゃん」と呼ぶために、もちろん妹だと思ったのだろう。
その級友は奈緒ちゃんの清楚な顔に見とれながら、光輝に「お、おまえ…… 妹に弁当持って来させてるのかよ」と言った。
「あら違うわよ。名字は同じだけど、この子は光輝の妹じゃないのよ」
そう言ったのは斉田桂華。
光輝や奈緒とは小学校時代からのつきあいである。いや保育園時代か。
じっくり見れば素晴らしい美人なのだが、長身の上にコワくて誰もまともに顔を見ないので、そのことはあまり知られてはいない。
新入生の頃からバレーボール部のレギュラーで、次期キャプテンにも内定している、自他ともに認めるクラスのまとめ役のひとりである。
秋月高校は進学校だったためにバレーボール部の活動は週三だったので、運動能力をもてあました桂華は、それ以外の日には女子柔道部にも顔を出していた。
学生時代にはインターハイで準優勝したこともあるという顧問は桂華の才能に惚れ込み、「先生と世界を目指そうっ!」と言って桂華を勧誘したが、そこまでは興味の無かった桂華にすげなく断られ、ショックを受けている。
実は桂華は文学少女でもあったのだが、本人は恥ずかしいらしくひた隠しにしている。
そのことを知っているのは光輝や奈緒とあと数人の幼馴染だけであった。
「そうそう。妹じゃあなくって婚約者だよな奈緒ちゃん」
これも保育園時代からのつきあいの五木健だ。
やはり一年生の時からサッカー部のレギュラーであり、いわゆるイケメンでもあったので女子の人気は非常に高い。
仰け反る同級生たちを見もせずに、健は奈緒の顔を見て、「な、そうだもんなー」と優しく言った。
奈緒は嬉しそうに「はい」と答えると、また光輝の顔を見つめてほっこりと微笑んだのである。
周囲のクラスメートたちが仰け反り倒れるのも意に介さず、桂華も健も奈緒ちゃんの左右に座って自分の弁当を広げ始めた。
以来、昼休みには四人で弁当を食べるのが恒例になっている。
最近では四人を囲んでほとんどクラスの全員が輪になって食べている。
今は秋なので光輝の後ろで多少暑くなっても構わないらしく、みんなが光輝たちを中心にして同心円状に並んで食べているのだ。
いや中心になっているのは光輝たちではなく、明らかに奈緒ちゃんだったが……
「それにしても奈緒ちゃん。豪華なお弁当だねえ。また腕を上げたみたいだなあ」
健がそう言うと、桂華も言った。
「夏休みに料理教室に通った成果ね。それにしても上手だわあ」
奈緒ちゃんは、「ありがとうございます……」と言って頭を下げた。
桂華の顔が少し曇る。
「どうしたの奈緒ちゃん。なんか元気が無いわよ」
「まさかまた光輝に意地悪なこと言われたんじゃあないよな」
健が心配そうに奈緒ちゃんの顔を覗き込んで言うと、桂華がキッと光輝を振り返った。
桂華は普段は優しいアネゴ肌の娘なのだが、怒らせると鬼神になる。
「ち、違います違いますっ。お兄ちゃんはそんなことしてませんっ!」
桂華の目つきを見た奈緒ちゃんが慌てて言った。
奈緒ちゃんも桂華とのつき合いは長い。
「じゃあどうしたの。お姉さんに言ってくれない?」
そう…… 桂華は完全に自分のことを奈緒ちゃんの保護者だと思っている。
もちろん健もそう思っている。
最近では他のクラスメートたちもそう思い始めているようだ。
桂華や健たちに励まされ、促された奈緒ちゃんはぽつぽつと語り始めた。
「あ、あの、私のクラスに詩織ちゃんっていうお友達がいるんですけど……
その子が最近なんか仲間外れになっちゃってて……
い、いえイジメじゃあないんですけど、その子ちょっと大人し過ぎてあんまり人と喋れないものですから……
お弁当も一人で食べてるみたいなんです。だから心配で……」
健はこういうときしか出さないとっておきの優しい声で言った。
「なんだ。だったらその詩織ちゃんも、お昼にはここに連れてくればいいじゃないか」
「そ、そんな…… 詩織ちゃんはとっても内気な子なんで、センパイたちの教室に入るなんて怖くって出来ないと思うんです……」
桂華が明るい大きな声で言った。
「それなら簡単ね。あたしたちが奈緒ちゃんの教室に行って、その詩織ちゃんと一緒にお弁当を食べればいいのよ」
「おお! さっすが桂華。じゃあそうするかあ」
健はそう言うと食べかけの弁当箱に蓋をして立ち上がった。
「よかったらみんなもいっしょにどお?」
桂華がそう言うまでもなく、みんなが弁当箱に蓋をして立ち上がっている。
光輝の前に広げられた豪華弁当は、何人もの女子が奈緒ちゃんを手伝って片づけている。
光輝は箸を持ったまま固まっていた。
そうして一行はぞろぞろと奈緒ちゃんのクラスである一年生の教室に向かったのである。
光輝が持たされていたのは箸だけだった。
なんともおマヌケな姿である。
詩織ちゃんは、やっぱり教室の隅でひとりで俯いてぼそぼそとお弁当を食べている。
二年生たちがどかどか入って行くと、一年生たちが固まった。
「せ、センパイ!」
「ど、どうされたんスか……」
などという声があちこちから上がる。
「おお、なんだお前らか。すまんがちょっと場所空けてくれないか」
「なぁんだ、アンタたちもこのクラスだったの。ちょっと場所借りるわね」
その他にも水泳部だの卓球部だのの一年生たちが、慌てて部活の先輩たちに場所を譲る。
さすがは体育会系だ。
帰宅部の光輝が感心して見ていると、またもや奈緒ちゃんと光輝を取り巻く弁当の輪が出来た。
もちろん詩織ちゃんは奈緒ちゃんの隣で硬直している。
大人しそうな細い子だったが、よく見ればかなり可愛らしい子でもある。
さすがは桂華で、詩織ちゃんへの配慮も怠らない。
「詩織ちゃんは中学はどこだったの?
ああ、だったらバス通学ね。バス停はどこで降りるの?
ねえねえ、帰宅部のひとで詩織ちゃんの近所のひといる?」
二人程手を上げた。
「あんたたちこれから帰りは詩織ちゃんと帰ってくれる?」
先ほど手を上げた男子の一人は、美人の詩織ちゃんと一緒に帰れるので嬉しそうな顔をした。
すかさず桂華からツッコミが入る。
「途中で寄り道に誘って詩織ちゃんを困らせたりしたら、アンタ吊るすからね」
(吊るすって…… 吊るし上げるっていう意味だろうか。
それとも文字通り吊るすんだろうか……)
光輝はそう思ったが何も言わなかった。
翌日もその翌日も、それからずっとその昼食会は続いた。
可哀想に部活の一年生たちは体育館や部室で弁当を食べている。
彼らは後日恐る恐るセンパイたちに、昼の弁当会の理由を聞いてみた。
センパイたちは、皆不思議そうに言ったそうである。
「あ? 奈緒ちゃんは光輝と一緒にお昼食べたいし、詩織ちゃんとも一緒にお昼食べたいって言うんだから当然だろ/当然でしょ」
後輩たちは全員、(それはセンパイたちもついて来る理由になってないと思うんですけど……)と思ったが何も言わなかった。
桂華や健たち上級生の御威光で、その後は奈緒ちゃんはもちろん、詩織ちゃんも実に健やかな高校生活を送ることが出来た。
それは三年生になっても変わらなかったのだ。
部活のコーチに来てくれるOBやOGが、月に一度は奈緒ちゃんや詩織ちゃんの様子を詳しく聞いて来るからである。
もっとも彼らも先輩を恐れてというよりは、次第に先輩たちと同じ気持ちになっていったからのようだったが。
詩織ちゃんは奈緒ちゃんのことを女神さまと思って崇拝している。
このように奈緒ちゃんは学校中の生徒たちからの愛されキャラだったのだが、地元の商店街ではもっとスゴかった。
長さ百五十メートルほどの短い商店街だったが、光輝と一緒に奈緒ちゃんが通りかかると、店先にいるおじさんおばさんのほぼ全員から声がかかった。
みんな奈緒ちゃんの顔を見ると、すぐ店に飛び込んで商売物を持ってきて渡そうとするのである。
奈緒ちゃんは必死になって遠慮しようとするのだが、商売人たちはやはり強引である。
家にたどりつく頃には光輝の両手も塞がっている。
あんまり申し訳ないものだから、二人はよく回り道をして帰っていた。
だが奈緒ちゃんもけっこう商店街には貢献している。
桂華の家は八百屋さんなのだが、中学一年生のころ奈緒ちゃんが帰りにその前を通りかかると桂華が店番をしていた。
「け、桂華さん。ど、どうされたんですか。部活お休みなんですか……」
「ああ、奈緒ちゃん。それがさー、オヤジのやつったら腰痛めちゃってさー。
だから部活あんのにあたしゃ店番なのよー。
もーあいつらちゃんと練習してるのかしら」
桂華の母親がもう亡くなっていて、父親と二人暮らしなのを知っている奈緒ちゃんの目の端にちょっと涙が滲んだ。
桂華はそう言ってはいるが、父親に無理をさせたくないのだろう。
「わ、わたしにもお手伝いさせてくださいっ!」
奈緒ちゃんが涙声でそう言うと、桂華の顔も少し歪んだ。
そうして奈緒から顔を逸らして顔を見せずに言う。
「だったらホントに悪いんだけど、そこに山のように置いてあるリンゴちゃんを磨いてやってくれないかな。
オヤジのやつ注文数間違えて十ケースも来ちゃったのよ。
よく熟してて美味しいんだけど、ちょっと表面にホコリがついちゃっててね。
だからそこの水で洗ってからこのタオルで少し磨いてやって、リンゴちゃんたちを綺麗にしてあげてやって欲しいんだ。
早く売りきらないとタイヘンだし……」
その日は冬のまだ寒い日だったが、奈緒ちゃんは店先で必死でリンゴちゃんたちを磨いた。
冷たい水を流し入れている桶でリンゴちゃんを洗った後、赤くなった手で一生懸命に磨いている。
だが…… 夢中でリンゴちゃんを磨いていた奈緒ちゃんが、フト我に帰ると一生懸命磨いてカゴに並べてあげていたリンゴちゃんたちがいない。
驚いて周りを見回すと、そこにはおじさんやおばさんたちの行列が出来ていた。
奈緒ちゃんがリンゴちゃんを磨いてあげるたびに、そのリンゴちゃんは片端から売れて行く。
本当はお客さんの前でそんなことをするのはマズいのだろうが、奈緒ちゃんがリンゴちゃんに「はぁ~」と息を吹きかけて磨くと、行列のおじさんおばさんたちからも「はぁ~」っとため息が漏れた。
こうして奈緒ちゃんは、十ケースものリンゴちゃんたちを一時間ほどで全部売り切ってしまったのである。
それは奈緒ちゃんがリンゴちゃんを磨くのにかかった時間と同じ時間だった。
これが伝説の『奈緒ちゃんリンゴ十ケース売り切り事件』である。
それからほどなくして、このときの情景がエッセイとしてタウン誌に載った。
そこには、中学二年生の娘が腰を痛めた父親をかばって店で働き、それを妹同然に育った幼馴染の中学一年生の女の子が、かいがいしく手伝う様子が見事に描かれていた。
夕闇せまる冬の寒い商店街の中で、そこだけがまるでスポットライトを浴びたように美しく暖かく輝いている様が、実に優しい天使の視点で描かれていたのだ。
奈緒ちゃんが一心不乱にリンゴちゃんを磨く様子や、行列を作ったおじさんおばさんが、それを片端から買ってあげていく様子も、最高の人情譚として微に入り細を穿って描写されていたのである。
それを読んだ商店街のひとたちは皆泣いた。
そうして大勢がタウン誌編集部に作者を問い合わせに来るのだが、編集長は作者が強く匿名を希望しているとして、頑として口を割らなかった。
単に投稿されて来たエッセイが優秀だったので掲載したのだとしか言わなかったのだ。
その後そのタウン誌には毎回その匿名作者のエッセイが載るようになり、タウン誌の発行部数はまもなく十倍になった……
(つづく)