*** 32 遊ばせてくれて…… ***
そうして光輝一家の平和で幸せな日常は続いていたのだが……
ある日、光輝はひかりちゃんが瑞巌寺の託児所で、テレビを見ながら嬉しそうにぱちぱちと拍手している光景を見た。
もう少し大きなお兄ちゃんやお姉ちゃんのために保育士さんが見せてあげていたテレビアニメで、主人公の息子が一生懸命座禅を組みながら初めて空を飛ぶシーンだった。
そしてその後の座禅場での座禅を始めたとき、光輝はそのシーンを思い浮かべながら座禅に入ってしまったのである。
座禅を始めてすぐ忘我の境地に入った光輝は、数分後に僧侶たちに肩を掴まれて我に返り、同時に空から落下して、大勢の僧侶たちに受け止めてもらったのである。
聞けば、光輝は座禅姿のままぷかぷかと三メートルほど浮かんで、風に流されながらふわふわ移動していたらしい。
驚愕した僧侶たちは、大勢で人柱を組んで光輝を空から降ろしてくれたのだ。
「あなたさまというお方は…… もうなんでもアリですな」
また呆れた顔の厳空にそう言われてしまった。
急遽座禅台の上に金具がつけられ、光輝の腰に巻いたロープが結び付けられるようになった。
治療施設の回転台にもつけられている。
まるで犬か凧である。
光輝は試しにロープを五十センチほど長くして、ひかりちゃんを前にして座禅台で座禅を組んでみた。
あとで聞いたところによると、ひかりちゃんはきゃっきゃ言いながらパチパチと拍手をしていてくれたそうだが、忘我の境地の光輝にはそれを見ることが出来ない。
肩を触られて忘我の境地から引き戻された途端に落下しておしりを床に打ちつけるのだ。
どうも肩を触られないと光輝は目が覚めない様だった。
光輝はあまり面白くなかったのでこの遊びはすぐやめた。
(このワザあんまり役にたたないなぁ)
と少し残念に思っている。
光輝の後上方のお釈迦様も苦笑していらっしゃったそうである。
その何日か後、光輝と奈緒とひかりちゃんはあのイタリアンの店で夕食を取っていた。
光輝たちから少し離れたテーブルには、遊園地帰りとみられる親子三人連れがいて、やはり楽しそうに喋りながら夕食を取っている。
そうしてそこにはひかりちゃんよりは少し大きい女の子が、浮かぶ風船のヒモを持ってうれしそうに座っていたのである。
あのヘリウムガスでふわふわ浮かぶ風船である。
ひかりちゃんの目がその女の子と風船に釘付けになっている。
そうしてひかりちゃんはおずおずと光輝を見上げ、その風船を指差して恥ずかしそうに、「…… あれ ……」と言った。
どうやら自分もその風船が欲しいらしい。
ひかりちゃんは滅多に泣かない子であると同時に、滅多にというかまったくわがままを言わない子だった。
どんなときでも光輝や奈緒が言い聞かせれば得心してくれる賢い子である。
光輝は、「う~ん。買ってあげたいけど、もうお店閉まっちゃってるんだよ。だから明日ね」と言う。
途端にひかりちゃんが世にも悲しそうな顔になった。
見る間に目に涙が溜まって来ている。
しかも泣き出したいのを必死で堪えている。
光輝はたまらなくなった。
このけなげなひかりちゃんの希望になんとか応えてやりたかった。
だがもう夜も遅くなってきている。
もし光輝が僧侶さんたちにお願いしたら、きっと数百人が手分けして、たとえ深夜になっても風船を探してくれることだろう。
だがいくらなんでもそんなことはお願いできない。
光輝は突然思い至った。(そうだ!)
「ひかりちゃん。すぐにお家に帰ろう。
そうしたらひかりちゃんに特別な風船をあげられるよ」
ひかりちゃんの顔が輝いた。すぐに椅子から降りて帰ろうとする。
光輝と奈緒も苦笑しながらひかりちゃんに続いて店を出た。
邸に帰った光輝は自分の腰にロープを巻き、ロープの半ばをひかりちゃんに渡す。
念のためひかりちゃんにはロープの途中を持ってもらい、端は奈緒に持ってもらっている。
そして奈緒に、危なくなったらロープを引っ張って降ろしてくれるように頼み、光輝はまたその場で座禅を組んだのである……
「光輝さん…… 光輝さん……」
奈緒に肩をやさしく揺すられて呼ばれ、光輝は深い座禅から目覚めた。
「あ、ああ、奈緒ちゃん…… ひかりちゃんどうだった?」
「もうたいへんだったわ。
あれからずう~っと浮かんだ光輝さんのヒモを持ってはしゃぎまわってたの。
きゃーきゃー笑いながら。
それで今は疲れ果てて寝ているわ」
光輝が傍らを見ると、汗びっしょりになったひかりちゃんが、クッションの上で熟睡している。
その寝顔は実に満足そうだ。
時折寝ながらむにゃむにゃ笑ってもいる。
光輝がふと時計を見ると、なんとあれから一時間も経っていた。
驚いている光輝に奈緒が言う。
「あんな嬉しそうなひかりちゃん、久しぶりに見たわ……」
「そ、それはよかった……」
「光輝さんって、座禅に入るとぷかぷか浮くけど、天井のすぐ手前までぐらいしか浮かないのね。
だから安心して見ていられたけど……
でもちょっとブキミだったわよお」
「う、うん」
翌朝、家族みんなで散歩に出かけようとしているとき、ひかりちゃんが光輝に昨日のロープを手渡した。
期待に目がキラキラ輝いている。
ためいきをついた光輝は、仕方なくロープの端を腰に巻いた。
反対側の端はひかりちゃんが嬉々として持っている。
エレベータホールを出ると、光輝はすぐそこにある警備犬の巨大な犬小屋にロープの端を結びつけた。
警備犬は「なにしてるんだコイツは?」という目で光輝を見ている。
ひかりちゃんはロープの途中を持ってわくわくしている。
目はさらにキラキラだ。
またためいきをつくと光輝は座禅を組み始めた。
すぐにぷかぷか浮き始めたおとうさんを見てひかりちゃんは大喜びだ。
おとうさんをつんつん引っ張っては笑っている。
警備犬は呆れた顔をして光輝を見上げている。
子リスたちですら並んで光輝を見上げている。
と、そこへ豪一郎さんと麗子さんと大河くんが朝のお散歩に出て来たのである。
麗子さんは、上を向いて嬉しそうにはしゃいでいるひかりちゃんと、ひかりちゃんの持っている細いロープを見た。
そしてひかりちゃんの前にしゃがみ、にっこり笑って「あらひかりちゃん。風船買ってもらったのお。よかったわねえ」と言った。
だがどうもおかしい。
ひかりちゃんの持っている風船のヒモが妙に太いのだ。
思わず麗子さんは上を見上げた……
「んげげげげげげげげーーーーっ!」
相変わらず麗子さんの驚いたときの声は少々オカシい。
奈緒はつい笑ってしまった。
麗子さんは腰を抜かしている。
豪一郎さんは首を横に振っている。
大河くんは実に楽しそうなひかりちゃんと、その上に浮かぶひかりちゃんのおとうさんをじっと見つめた後、傍らの豪一郎さんを見上げておずおずと言った。
「おとうさん、僕もあれ欲しい……」
豪一郎さんはしゃがみこんで大河くんの目を覗きこみながら言う。
「あれはな、まともなおとうさんはやらないワザなんだ」
大河くんの目にみるみる涙が溜まってきた。
それを見ていたひかりちゃんが大河くんにロープを差し出した。
大河くんが「いいの?」と嬉しそうに聞くと、ひかりちゃんは笑顔で頷く。
それから二人はぷかぷか浮いている光輝をつんつん引っ張ったり、引いて歩いたり、はたまたぶら下がったりして大喜びでいっしょに遊んだ……
「光輝さん、光輝さん」
また奈緒に肩を揺すられて光輝は目が覚めた。
周囲を見回すと、呆れた顔の豪一郎さんと少し怒った顔の麗子さんがいた。
警備犬もさらに呆れた顔で光輝を見ている。
大河くんが「おじさん、遊ばせてくれてどうもありがとう!」と言ってぴょこんと頭を下げた。
ひかりちゃんも「あいがとう!」と言って頭を下げた。
(遊んでくれてじゃあなくって、遊ばせてくれてか……)
光輝は大河くんに抗議しようと思ったが、豪一郎さんと麗子さんの顔を見てヤメた……
(つづく)
***次号第三章エピローグ***
 




