*** 28 河原総看護師長 ***
ある日、光輝が治療施設の回転台座の上での座禅を終えて控室で寛いでいると、総看護師長の河原さんがやってきた。
いつもどおりのおっかない顔だ。
「三尊さん、ちょっとお話があります」
「な、ななな、なんでありましょうかっ!」
この河原総看護師長は、看護師になって以来、ずっと国立がんセンターでガン患者を看護して来たツワモノである。
ガン病棟と言う特殊性により、その死を看取った患者の数は三千人を超える。
それだけの死を目にしてきた河原総看護師長は、すでに凄まじい度胸と言うか迫力というか、鬼気迫る雰囲気をまとっていた。
東京本部長の佐藤医師ですら一目も二目も置いている。
あだ名は鬼がわらである。
噂では柔道三段でもあるそうだ。
だが、五年ほど前から彼女はほとほと疲れていたのだ。
五十歳を過ぎてから、特に小児病棟の子供たちの死が身に応えるようになった。
若いころにはそれでも気力を振り絞って次の患者さんの世話も出来たが、彼女たちがどんなに一生懸命お世話をしても、ほとんどの患者さんたちが死んで行ってしまうのだ。
総看護師長は心の底から疲れていた。
ところが……
乞われるままにやってきたこの施設では、ガン患者さんが百%治るのだ。
あれほど死の淵まで行っていた小児がん患者も治ってしまうのだ。
河原総看護師長は泣いた。
嬉しくて泣いた。泣いて泣いて泣いた。
涙が涸れ果てるまで泣いた。
そうして密かに思っていたのだ。
この施設の為なら死んでもいいと。
そして死ぬまでここで働いてこの施設と患者を守りたいと。
そう決心している総看護師長の態度はますます鬼気迫るものとなり、治療施設のすべての看護師たちは彼女を畏れるとともに無条件で尊敬もしていた。
「三尊さん。
三尊さんはさっき座禅台に上がるときにあくびをされていましたよね」
「は、ははは、はいっ! す、すいませんっ!」
「お疲れなのはわかりますが、ここにお見えになった患者さんたちは、がん宣告をうけて絶望されていた患者さんたちばかりです。
その方々が一縷の望みに縋りついてここに来ているのです。
控室の中でしたらあくびだろうがなんだろうがかまいませんが、そんな患者さんたちの前でだらしのない態度はおやめください」
「は、ははは、はいっ! い、以後気をつけますっ!」
鬼がわらこと河原総看護師長は、いまのところ光輝をも叱りつけることのできる唯一のひとだったかもしれない。
それからしばらく経ったある日、羽田空港へ一機の豪華なビジネスジェット機が着陸した。
機を降り立ったのは、恰幅のいいひと目で重要人物とわかる男と、見るからに衰弱して豪華なベッドに横たわったまま動かない少女と、看護婦が五人。
そして護衛と見られる十二人の男たちだった。
彼らは税関も入国管理官の前も通らずに空港を出ると、サウジアラビア大使館に向かった。
翌日、日本政府が用意した救急車を取り囲む黒塗りの大型車の車列が、パトカーの先導のもと瑞巌寺病院を訪れた。
瑞巌寺病院アラビア語棟の入り口に救急車が横づけされると、看護婦たちは衰弱しきって意識も無い少女を乗せたベッドを運び出す。
すぐに護衛隊の隊長らしき男が英語で喚き始める。
どうやらなにごとか命令を始めたようだ。
周囲の看護師たちが凍りついているところに、偶然河原総看護師長が通りかかった。
「なにごとです」
意外に流暢な英語で総看護師長が尋ねる。
「ああ、そこのお前。すぐにこの治療施設の中に居る不信心者たちを外に出せ」
総看護師長はその男の服装を見て納得するときっぱりと言った。
「そのようなことは出来ません」
そうしてベッドの上の少女を見やってその衰弱ぶりを確認すると、すぐに周りの看護師たちに指示を出した。
「すぐに患者専用のベッドを持って来なさい。
それから待機中のアラビア語圏担当のシスターを呼んで来なさい」
「な、なんだと、すぐに命令に従えっ!」
隊長は激昂して喚いた。
「護衛隊長。静かにしたまえ」
VIPらしき体格のいい男が静かに言う。
「しかし王子っ!
姫様を不信心者たちのいる部屋に入れることなど出来ませんっ!」
河原総看護師長がまた毅然と言う。
「ここは病院です。すべてのひとびとが治療のために来ている施設です。
たとえ王族だろうが神様だろうが皆と一緒に治療を受けてもらいます」
「な、なんだとうっ! お、女っ! 逆らうとただではおかんぞっ!」
そこに看護師たちが治療施設専用のベッドを持ってきた。
総看護師長は周囲の看護師たちに、少女をその豪華なベッドから施設専用のベッドに移すように命じ、ベテラン看護師たちはその少女の様子を見て、細心の注意を払って移し始めようとした。
「触るなっ! 汚らわしいっ!
お前たちごときが触れることの出来るお体だとでも思っているのかっ!」
隊長は看護師たちを脅すように一歩近づいた。
その前に河原総看護師長が立ちはだかる。
「あなたこそ、汚染された手で看護師を触ってはなりません。
下がりなさいっ!」
「な、ななな、なんだとっ! こ、こここ、この女めがぁっ!」
恐ろしく男尊女卑の激しいあの国で、おそらくこの男は女性にこのような口を聞かれたことは一度も無かったのだろう。
それがこの男をさらに激昂させ、そうして少女を移そうとしている看護師たちに掴みかかろうとしたのである。
河原総看護師長の素晴らしい出足払いが、その男を見事に半回転させて頭から床に転倒させる。
学生時代からの趣味である柔道がようやく役に立ったようだ。
「不潔な手で看護師に触ってはなりませんっ」
男は懐から半月形の短剣を抜いた。
アラブの男たちが代々受け継ぐシミタールという短剣だ。
「あなたは病院で大声を出すばかりではなく武器まで持ち込もうとしたのですね。
この治療施設は武器の持ち込みは厳禁です。それを渡しなさい」
総看護師長は男に向かって手を出し、一歩踏み出した。
「こっ、この不信心者めがぁっ!」
男は短剣を構えて河原総看護師長の胸につきつけた。
周りの看護師たちが声にならない悲鳴を上げる。
いつのまにか周囲を取り囲んでいた大勢の警備員たちも身構えた。
「護衛隊長。すぐにその短剣を降ろしなさい」
また主人らしき男が静かに言う。
河原総看護師長の冷静な声がする。
「ふん。アラブの男の短剣は無抵抗の女を刺すためにあるのか。
なんという立派な短剣だ。さあ、刺すなら早く刺せ」
これは彼らアラブの男にとっての最高の侮辱といえよう。
護衛隊長の持つ短剣はぶるぶると震えている。
「護衛隊長。すぐにその短剣を降ろしなさいと言っている」
再度主人らしき男が静かに言った。
「ふん。偉そうに命令ばかりしたがるが、病院で暴れるか喚くしか能が無いのか。
さあ、とっとと出て行け。お前がいなくともこの少女は治してみせる」
「なんだとおおおおっ!」
護衛隊長は短剣を手元に引くと、恐ろしい形相で総看護師長を刺そうとした。
既に隊長に取り憑いていた施設の護衛霊が隊長を硬直させようとしたその瞬間、恰幅のいいVIPの強烈なストレートが護衛隊長の顔面に深々とめりこんだ。
隊長はそのまま五メートルも吹っ飛ばされて床を転がって行く。
VIPはまた静かに言う。
「護衛副隊長」
「はっ」
「お前は今から護衛隊長だ。
あの男を逮捕拘束して外に運び出しなさい。
罪名は上官反抗罪だ。
三回も続けて命令に従わなかった。
しかも、姫を救うためにあらゆる努力をすると国王様の御前で誓ったわたしの誓いの遂行を妨害した」
「ははっ!」
四人の男たちがまだ呆然としている隊長に手錠をかけて外に連れ出して行った。
VIPは首から吊るしていた自分の短剣を総看護師長に差し出す。
「これは私の命よりも大切な短剣なのですが、後でまた返していただけますでしょうか」
河原総看護師長はにっこりと微笑んだ。
「もちろんです。そちらの箱に入れて下さい。
警備員たちが厳重に保管致します」
VIPは短剣を箱に入れると警備隊員たちを振り返る。
「お前たちも武器をすべて箱に入れなさい」
「し、しかし……」「そ、それでは護衛が……」
VIPは静かに指を一本立てた。
どうやら反抗一回目という意味らしい。
護衛隊員たちは慌てて全ての銃器と短剣を箱の中に入れた。
「それでは姫の治療をよろしくお願い致します」
「おまかせください」
総看護師長はにっこり微笑んでお辞儀をした……
VIPたち一行は、姫の担当とは別のアラビア語担当シスターの案内で、アラビア語圏専用待合室に入った。
そこは驚くほど広大なスペースだったが、閑散としていてほとんど人がいない。
片側にある売店もほとんどが閉まっていて開いている店は数件しか無かった。
担当のシスターから姫の治療には二時間ほどかかると聞くと、VIPは言う。
「たいへん申し訳ないのですが、他のおなじような待合室も案内して頂けませんでしょうか」
「本当は出来ないことになっているのですが、私と一緒なら見学が出来ます。
一周するのに一時間ほどかかりますがよろしいですか?」
「はい。お願い致します」
護衛たちもついてこようとしたが、VIPに遮られた。
「お前たちはここで待っていなさい」
命がけで施設を守ろうとする誇り高い看護師がいる病院で、護衛など必要になるはずが無い、とVIPは思ったのである。
VIPはシスターの案内でアメリカ・カナダ専用待合室を見学した。
向こう側が見えない程の広大な空間にはアメリカ人やカナダ人達が溢れていて、治療の終わった患者と再会する家族の泣き声や喜びの声に満ち溢れている。
中国語棟はもっと混んでいて、ここも喜びの叫び声で満ち溢れていた。
家族たちはさっそく売店から持ってきた軽食を患者に届け、移動する箱の上で笑いあいながら食べている。
ドイツ・フランス・イタリア・スペイン語圏も混んでいて、それぞれのお国柄の喜び方をしている。
その他の待合室も皆同様だった。
VIPはまたアラビア語圏の待合室に戻って来ると、ほとんど人のいない広大な空間を見て悲しげに首を振った。
だがそれでもこの超広大な空間をアラブの民のために空けておいてくれているZUIGANJIの厚意を噛みしめたまま、静かに座っていたのである……
(つづく)




