第101話「おヒゲ剃り」
「おー、晴れたなー」
「うん、晴れたね」
「晴れですねー。お日様。しばらくぶりですねー」
朝。俺たちは店の前に三人で並んで立っていた。
何日間も続いていた雨音が、夜半に、ぱたりと途絶えていたから、ひょっとして――、と、思っていたが。
朝になって、表に出てみれば、一面の青空がどこまでも続いていた。
「雨は行っちゃいましたねー。うしろのほうに」
この世界では東とか西とかいうかわりに、「まえ」とか「うしろ」とかいう。
エナが、「ばいばーい」と、「うしろ」の方角に向けて、手を振っている。
うん。かーいー。かーいー。
「もう一節……二年ほどすると、一回りして、まえから戻ってくるんですよー」
「へー……。じゃあ、まえとうしろって……、つながっているんだ……」
エナが感心したように言う。
「まえ」のほうに体を向けて、大きな目で空のはてを見つめている。
しかしエナ。まえとうしろが繋がっていることに気がつくとは、賢い、賢い。
なんか、たしか、あれだったよな? 地面は丸くなっているから……、だったっけ? だから端と端とは、繋がっているんだったよな?
うん。たしかそんなような感じ。俺だって知ってる。
「それは私も歩いて確かめてみている最中なんですよー。何百年も旅をしてますけど、ぜんぜん一周しませんけどねー」
こいつきっと、道草ばっか食ってるに違いない。
このCマートにも、俺がおじいちゃんになって、要介護の老人になるまで、永久就職するつもりのようだし。
「さて……、っと! 顔洗って、歯ぁ磨いて、朝メシ食うかー」
俺は二人にそう言った。
そしたら、エナが、俺の顎をぴしりと指差してきて――。
「おヒゲ……、のびてるよ」
そう言った。
「おヒゲ……、剃る?」
「ん。あとでなー」
「いま、剃ろうよ」
「ん?」
俺はエナを見た。あんまり自己主張しないのが、エナという子なのだが……。
なんか言いたげな雰囲気?
「エナちゃん、おヒゲを剃るのが、珍しいんじゃないですかー? ほら、おヒゲ剃る人って、こっちにはいないでしょう? マスターだけですからー」
こっちの世界の男性は、ヒゲを伸ばすのが普通らしい。
てゆうか。ヒゲを剃るっていう文化が、存在しないっぽい。
以前、安全カミソリやら、シェービングクリームやらを持ちこんだこともあったが、じぇんじぇん、売れなかった。まったく無双できなかった。
ドワーフの鍛治師なんて、ヒゲを剃るとかいう話を持ち出したら、まるで殺されるみたいな顔をしていたし……。
まあ向こうの――現代世界のほうでも、ヒゲを伸ばしている人はいるが、どっちかっていうと、俺みたいに、毎朝剃って、つるんとさせている方が大多数で……。
「インスタントご飯と、缶詰、温めてますからー。ゆっくりおヒゲ剃ってて、いですよー」
「ん……。そっかー」
俺はカミソリと石鹸を持って、外に出た。
エナが期待する顔で、俺のあとについてくる。
水は……。店の外に出しっぱなしにしてあった桶に、ちょうどよく雨水が溜まっていたから、それを使うことにする。
そこらの石垣に、適当に腰を掛ける。
石鹸に水をつけて、泡を作って、口のまわりに適当に塗りつけて――。
そしてカミソリを手にしたところで――。
エナが目をキラキラと輝かせて、こちらを見ていることに気がついた。
「やってみる?」
俺は何の気なしに、エナにそう聞いてみた。
「えっ?」
エナは目をぱちくりとさせている。驚いている。
ああ。そういや、いちおう刃物なんだっけな。怖がっちゃうかな?
「あっ、べつに無理してやらなくてもいいぞ、ためしに聞いてみただけなんで-」
「やる!」
「お、おう……」
思いのほか、強い返事が返ってきて、俺はうなずかされた。
安全カミソリをエナに手渡す。
二枚刃が5個入って、198円ぐらいのやつ。向こうのドラッグストアのどこでも売ってる、なんの変哲もない使い捨てのやつ。
エナの小さな手がそれを持つと、俺が手にするよりも、なんだか大きく見えてしまう。
エナは身を乗り出すようにして、俺のほっぺたにカミソリを当ててきた。
正直、ちょっと怖いのだが……。
まあ、エナにだったら、ざっくり切られちゃってもいい。
「えっと、えっと……、これで、……擦ればいいの?」
「そうそう。角度を一定にして当てたままでだな。すーっと動かしていって……」
「すーっ……」
口に出しながら、エナはやっている。
うん。かーいー。かーいー。
ほっぺたも切れずに、うまく剃れた。上から下までほんの一列分だけど。
「剃れた!」
エナは顔を輝かせて、そう言った。
うん。かーいー。かーいー。
「じゃあ、こんどは、その横なー、全部やってくれー」
「うん!」
ざっくりいかれるようなこともなさそうなので……。俺は張っていた気を抜いて、エナに任せることにした。
エナは真剣そのものな顔で、俺の口許にカミソリを当ててゆく。
いまになってから気づいたが……。顔、近い。
エナの顔を、こんなに近くから、まじまじと長時間見つめたことなんてなかったが……。
エナって意外と……、いいやけっこう……、美人さん?
うちにきたばかりのときには、栄養の足りてない痩せっぽちのガキ、って感じだったんだけど。
すでにガキっていうよりは、女の子、という感じに成長してきていることは、なんとなく実感していたことではあったが……。
それから、けっこう重たい。
ヒゲ剃りに集中になるあまり、エナは俺の上に乗っかってきていた。
足の上を跨ぐ形で、座りにきている。
エナがあまりに真面目な顔でヒゲ剃りをしているものだから、体勢についてなにか言う機会を、俺はすっかり失ってしまった。
もう子供でもない女の子を乗せているには、ちょっとよろしくない体勢で――。俺は身を固めるようにして、じっとしていた。
しょり。しょり。
ヒゲ剃りは続く。
エナの吐く息が喉にあたって、くすぐったいやら。エナの体温を襟元に感じて、むずがゆいやら。
「おわりました」
あっちとこっちを、細かくちょこちょこと直していたエナが、ようやく満足して、そう宣言したとき――。
俺は安堵のあまり、溜めていた息を、はあぁぁぁーっと、長々と吐き出したものだった。
エナは俺の膝の上から下りると、とたたーっと、店の中に走って行った。
とたたー、と走り出てきて、取ってきたタオルを昨日の雨水の溜まった桶で濡らして、ぎゅっと搾って、俺に持ってきてくれた。
顔を拭く。さっぱりする。
おや? 自分でやるよりも、なんかよく剃れてるカンジ?
「明日も、やっていいですか?」
顎を撫でている俺に、エナはそう言った。
……えっ?
◇
エナが、Cマートの「ヒゲ剃り部長」に就任した。
俺は毎朝エナを膝の上に乗せて、ヒゲ剃りされることになった。




