人を着る
「人を着るんだよ、人を」
目の前の狐のような顔をした、長身の男はそう言った。グレーの上質そうなビジネススーツに身を包み、身のこなしも滑らかで世慣れた印象の、胡散臭いこと以外は上等な男だ。私は男の顔をまじまじと見つめ、そういえばこの男は目だけがつるつるとしてやたらに黒い、と思った。大体の日本人の瞳は焦茶色で、こんなにも黒い目は見たことがない。
「あんまり見つめるなよ。俺の目だけは本物なんだ」
声と喋り方は卑しさを感じさせ、この狐顔の男の姿とはチグハグな印象を受けた。一体なぜそんな印象を、というか、この男は何を言おうとしているのだろう。私がカフェで本を読んでいたら、するすると近づいてきて正面の席に座り、話し始めた。最初に何を話したか。そうだ、男は「俺は上等になっただろう」と言ったのだ。
「お前は上等な女だからな。こんなふうになるまでに俺も苦労したよ。どうだ。こんな上等になった俺となら、つき合ってくれるだろう?」
男は卑しい声に見合わない優雅な動きで話しながら、私に顔を近づけた。
「何のことだか……。というか、人を着るって何ですか」
男は細い目をさらに細くし、魔法を手に入れたのさ、と言った。
「自分の気に入った人間を着る魔法さ。この男は俺の会社の取引先の営業マン。俺がいくら頑張っても四ヶ月はかかる額の月給を一月で稼ぐ男だ。見栄えもよく、……まあ細い目と薄い唇は少し気に入らないが、格好がいい。洋服も良かったからそのまま着ている」
ということは、この姿は本当の姿ではないということか。着ぐるみのように生きた人間を着ていると? 馬鹿馬鹿しい。私はこんな怪しい男とつき合う気なんて、さらさらない。どんなに背が高かろうと、顔がよかろうと、服装や身振りが上等であろうと、給料がよかろうと関係ない。
「信じていないのか」
男はがっかりしたように口角を下げた。それなら、とつぶやき、次の動きに出た。顔の真ん中に手を置き、ファスナーを開くように、顔を、開いた。
ヒッ、と声が出た。顔が開いたことだけではない。その下から覗いた顔、高校時代から私につきまとう、Tの鼠のような顔が覗いたからだ。真っ黒な瞳。こればかりは見忘れようもない。Tは、私に五年もつきまとっている。俺とつき合え、俺とつき合わないのは俺の見た目が悪いからか、俺の身長が高いなら、俺の顔がいいなら、俺が高給取りならつき合ってくれるのか。そう言ってあちらこちらに出没する。恐ろしくてたまらない。
「怖がっているのか。じゃあこれもだめか」
Tは少しがっかりしたように肩を落とした。しかし次の瞬間には、
「でもこの姿なら一緒に歩くのは恥ずかしくないだろう? ちょっと歩かないか」
とにんまり笑った。私は恐怖で二の句が継げない。Tは顔を狐顔の男の顔に戻し、私の腕を勝手に握って立たせようとした。体が動かない。声も出ない。
「いたぞ!」
誰かの鋭い声がした。それは警察官だった。カフェの入り口に立った警察官は、こちらに走ってくる。Tは舌打ちをすると、走って逃げ出した。警察数人がバタバタと店内を駆け抜ける。コーヒーの香りのする店内で、店員も客もあっけに取られている。
私はよろよろと立ち上がり、ガラス窓から外を見た。地面に何かが落ちていた。それは、先ほど私が話していた男、狐顔の男の、脱ぎ捨てられた体だった。ゾッとした。
魔法を手に入れた? ではTはこれからも色々な「上等な男」の着ぐるみを着てやってくるのだ。これから、ずっと。頭も体も、しんと静かに冷え切っていた。
これからやってくる恐怖を、全て引き受けている。そんな気分だった。