幻野氏とわたし
幻野氏はわたしの血の繋がらないおじだ。いつも煙管をふかしていて、楽な甚平とからころ鳴る下駄を身につけていて、「そうは言うけどね」が口癖だ。幻野氏は我が家に住んでいるけれど、働いていない。働いていない癖に「そうは言うけどね」と我が家の方針に口を出してくる。とても鬱陶しい。
幻野氏は猫が好きで、いつも我が家の猫を抱いている。雑種の日本猫で、へらみたいな尻尾と七三分けみたいな黒い頭の模様があるあんまり可愛くない猫だ。猫は幻野氏が何をしても大人しく、真面目くさった顔をしている。幻野氏は「おお、チビやチビや」とむやみに可愛がる。ちなみにうちの猫はマークスという名前だ。
幻野氏は馬鹿みたいなことをする。どしゃ降りの梅雨の雨に体を濡らし、「いいシャワーだ」と言うのだ。わたしが、雨には汚いゴミや埃が混ざっていることをじゅんじゅんと説いても聞かない。雨がざあっと降りだすと飛び出し、雨に浸り、「いいシャワーだ」と言いながら戻ってくるのだ。
時々小説を書く幻野氏は、わたしに「何かお題を」と要求する。他人が与えたお題がないと、うまく書き出せないのだそうだ。幻野氏の小説を、わたしは読んだ。それは何だか太宰治にかぶれたような、破滅型私小説風なのだった。風、というのは幻野氏に破滅型の過去や現在はないからだ。幻野氏は今も昔も煙管をふかすし、甚平と下駄だし、猫が大好きだし、大雨が降ると外に飛び出す。呆れた人だ。
けれどわたしの家族が幻野氏を鬱陶しいと思わないのは、幻野氏が存在しないと思っているからだ。幻野氏は家族の会話に「そうは言うけどね」と割り込もうとしても無視されるし、猫を抱いて「おお、チビやチビや」と言っても猫は振り向かないし、「いいシャワーだ」と雨に打たれても何も言われない。幻野氏は「何かお題を」とわたしに言うときだけ返事をもらえる。わたしがお題を出すと、わたしは太宰治の破滅型私小説風の法螺話を、ノートパソコンに打ち込む。
《了》




