猫と本棚
「これ、読んでいい?」
イチコがわたしに向かって首を傾げた。何て愛くるしい仕草。愛くるしい目、愛くるしい姿。
「いいよー」
わたしは壁に寄りかかってミステリー小説を読みながら、横目でイチコをちらちらと見る。イチコは本を取り出すと、体に対して大きすぎるそれを床の上に開き、その上にのしかかるようにして文字を追い始めた。
「ふんふん」
イチコが感心したように鼻を鳴らす。
「どうした?」
イチコが鼻を鳴らすのはわたしに感想を聞いてほしいという合図だから、彼女はわたしが話しかけても迷惑そうにしない。わたしを真っ直ぐ見て、
「この人文章上手いわ」
と断言する。
「あー、まあね。語彙も豊富だし言葉の選び方が適切だよね。ひらがな率もちょうどいいしさ。何より場面に合った最低限の情報を無駄なく文章で表してるところがいいよね」
わたしが答えると、イチコはしばらくじっとわたしを見つめてから、また本に戻る。
「ふんふん」
わたしはイチコのつぶやきを聞いても、聞こえないふりをして次のページを読んでいた。うん、猫っていい。
わたしが読んでいるのは猫にまつわるミステリー短編集で、愛すべき猫たちが様々な作家の手で描かれていた。もちろん不気味な猫もいる。不吉な猫。でも大抵は可愛い猫だ。
「幻想文学っていうのかな」
イチコは待ちきれずに勝手に喋り出した。
「冬眠する高貴な人たち、幽霊、女の子。作者は絶対女性だよね。何となくチョイスが女性らしい」
「んー」
わたしは本を読みながら生返事をする。この猫、可愛いなあ。
「それにしても、絵画みたい。絵画的イメージの連続って感じ。初めに銅板画が出てくるけど、銅板画とはまた違うよね。モノクロームのような、セピアのような、とにかくカラフルではないけど……。絵画に詳しくないからわからないな」
「ボッティチェルリのイメージかな、わたしは」
わたしがようやく答えると、イチコは満足したようにちょっと笑う。
「ボッティチェルリの画集、あとで見せて」
「いいよ。これ読み終えたら出してあげる」
イチコはこくりと頷いてまた本に戻る。しばらくわたしたちは静かになる。紙をめくる音ばかりが辺りを満たす。
ようやくわたしは本を読み終わり、立ち上がってイチコの後ろにある背の高い本棚に手を伸ばした。小さな画集がたくさん並んでいる。ボッティチェルリ。あった。『ヴィナースの誕生』のページを開いて、イチコの前に置く。
「ふんふん」
「終わりの辺り?」
「そう。難しいな。天使が出てくるんだもん。どうして天使?」
「うーん。その作者はさ、よく天使を出すけど、聖なる存在として書いてるようには思えないんだよね。卑しい単細胞生物みたいに分裂する描写があったりさ。うーん」
わたしが唸っていると、イチコはわたしをじっと見つめたまま、
「わかんないなら、わたし、また読むよ」
と言った。頼りにならない自分がちょっと情けなくなる。
「この人の他の本も読みたいな。貸してよ」
イチコが立ち上がる。ふわふわと白い毛が揺れる。二足歩行のペルシャ猫は、エメラルドグリーンの目を輝かせて本棚を覗く。わたしの猫は本の虫。
「ボッティチェルリは? せっかく用意したのにー」
わたしが不満げな声を上げると、そうだったとうなずいて、イチコは引き返してきた。また本の上にのしかかる。
「ボッティチェルリってこれか。イメージしてたのはもうちょっと暗いんだけど」
「えー?」
わたしは立ち上がり、本棚を眺める。どれをイチコに薦めよう。わたしは内心舌なめずりしている。
「ボッティチェルリもなかなかいいね」
イチコがつぶやく。「こういう感じの画集、何冊か出してよ」
「はいはい」
わたしはイチコの言いなり。イチコの読書の助手。でもとても楽しい。イチコと一緒に読書をするのは。
家に帰るたびに、わたしは飼い猫と本を読む。それは、大いなる喜びだ。
《了》