兎夫人と雪月花の夜
ここからしばらく過去の独立した掌編をまとめる部分に入ります。
兎夫人がほほほと笑う。襟元が派手な青いドレスを身に纏い、灰色の毛並みをした彼女。彼女の指示で、ぼくは蟻、それもぼくより少し小さいくらいの巨大な蟻の兵士たちに運ばれる。湖畔から桟橋へ。
おやり、と声がした。蟻の兵士たちが無言で勢いをつける。ぐうるりと視界が回転して、ぼくは水中に落ち、沈んでいった。
雪が、きれいだ。湖に触れると溶ける。周りに黒く見える森の木々が雪のお陰で途切れ途切れに見える。
月の光が湖の底にも届く。金色の満月。真ん丸な顔はぼくを見下ろしているかのようだ。
花が咲いている。この花は、睡蓮の一種だろうか。ピンク色の、可憐な多弁の花。水の上に夢のごとく浮かんでいる。
ぼんやりと考えながら死に近づいている内に、誰かに背中を押し上げられた。諦めていた空気を得た瞬間、本能的に咳が出た。寒い。
「いくらなんでもあんまりです、奥方様」
背後の誰かが兎夫人に言った。兎夫人は唇をぎゅっと結んでいる。
「兎男爵は、ご夫君は、金槌、いえ、泳げないのですから」
声は庭師のカワウソ親方だった。どうやらぼくを救ってくれたものらしい。ぼくも、カワウソ親方も、毛並みが濡れて光っている。
「あなた、思い出されました?」
カワウソ親方の言葉を無視した兎夫人の矛先は、ぼくに向かう。
「わたしが誰だか、思い出されました?」
その目は怒りに燃えている。
「すみません」
ぼくはうちしおれて答える。
「ぼくには雪月花の夜の美しさしか思い出せません」
「雪月花の夜の美しさ。それは特定の誰かを例えたものではありませんの?」
「いいえ」
「おやり」
兎夫人はまた蟻の兵士たちに命じる。カワウソ親方が庇おうとしてくれている。
これでは身が持たない。ぼくはこの湖に落ちて記憶喪失になったらしいが、奥方があれでは以前のぼくもさぞかし苦労していただろう。何せ、思いつくたびにぼくを湖に突き落として記憶を取り戻させようとするのだ。
雪月花の夜、か。ぼくは夢でも見ていたのかもしれない。もしかしたら、天国を覗き込んででもいたのかもしれないな。
そういうことを考えながら、ぼくはまた蟻の兵士たちに運ばれ、死の疑似体験へと向かう。
《了》