毛皮
真理の家に行く。真理は小学生、おれは二十三歳の大人だ。けれど何もおかしなことはない。真理はおれが二十三歳の大人だということを知りもしないのだから。
真理の家は、山間の町にある。背の低い山のふもとに新しい和洋折衷の家がぽつぽつと立ち並ぶのだが、真理の家は一番山に近い位置にある。クリーム色の壁をした、殺風景な家だ。
おれはささやかな庭で真理や他の家族の服を干している女に挨拶をする。女はおれに対する軽蔑を感じさせる顔で振り向き、一瞬にして笑みを作る。ピンク色の、子供服らしい小さなTシャツがかすかな風に揺れていた。
お邪魔します、と声をかけ、玄関から続く新しい匂いのする廊下に入る。田舎らしい広い廊下には、途中に階段がある。その階段を上り、短い廊下の右手にある真理の部屋に、ドアを開けて入る。
準備が始まる。おれは真理のピンク色で統一された、物で溢れる部屋の片隅にある大きな籠に近寄る。中には今朝脱いだ毛皮があった。籠の扉を開き、茶色い毛皮を手に取る。兎の匂いがする。それは兎の毛皮なのだから当然なのだが、兎は独特の強い匂いがあるので好きではない。けれど仕事なのでおれは毛皮の腹部にある長さ十センチほどのファスナーを開き、中に入る。毎回不思議に思うが、中に入れるのだ。ファスナーを開いて入ろうかな、と思った瞬間には入っている。そしておれは兎のサイズになり、兎の形になる。
準備運動をする。膝を曲げて、屈伸運動。首周りもほぐしておかなければ怪我をする。真理が籠から出してくれたときにうまく飛び跳ねなければならないから。あとは水の確認。兎用のボトルに入った水がなければおれはやっていけない。緊張と疲労で喉が渇くからだ。ボトルは空だった。あとで女に言わなければならない。トイレに糞と尿をうまく撒く。おれは真理の隙を見て家にある人間用のトイレに行くことに決まっているが、作り物の糞と尿がなければ真理に怪しまれる。
全ての準備が済み、おれは手持ち無沙汰なので網状になった籠の床のうえで胡坐をかいて座っていた。女がドアを開けてやってきた。おれの存在に慣れ、滲み出る不快感を消そうともしない。一応少しだけ笑ってボトルを持って行き、すぐに水で満たされたそれを籠に設置してくれたが、どうやら洗った様子はなかった。
そのままぼんやりと待つ。おれは兎の姿のまま、手枕で寝ている。午後四時ごろ、子供の声が聞こえた。ただいまを言っているらしい。そして勢いよく階段を駆け上がる気配がし、ドアを開けて真理はやってきた。前髪をきっちり揃えた女の子らしいベージュの短いワンピースを着た真理は、兎の姿をしたおれを一瞥してからショッキングピンクのランドセルを小さなベッドに放り出し、また出て行った。おれは一応興味深げに四足で立って真理を見ていたのに、効果はなかったようだ。
最近こんなことが増えた。真理は兎に飽きたのかもしれない。少し前までおれのことを「うーちゃん」と呼び、こちらがうんざりするほど構ってきたものだが。
*
兎のうーちゃんの毛皮に入る仕事を始めたのは、つい一月ばかり前だ。大学時代からのアルバイト先だった小鳥屋から首にされた。大学卒業後、なかなか仕事が決まらずに小鳥屋の仕事に頼りっきりだったおれは、主人の小野に食い下がった。しつこいくらい頼んだ。小野は、酒臭いため息をつき、こう言った。
「うちも苦しいんだよ」
店内でセキセイインコやジュウシマツがうるさいくらい鳴いている。こいつらの世話をしたのは主におれだ。小野は奥のレジに座り、煙草をふかしていただけだ。それなのにおれが首にされるなんて、納得が行かない。そのようなことを主張したら、小野は眉をひそめてところどころ歯の抜けた口を開き、こう言った。
「じゃあ、毛皮の仕事はどう?」
「毛皮?」
「最近生まれた仕事なんだけどね、死んじゃったペットの毛皮を剥がして、中に人を入れて生きてるように見せかけるというのがあるんだよ」
「何のためにそんなことをするんですか?」
おれは小野にからかわれていると思い、怒り混じりに訊いた。小野は平然と笑った。
「ペットの飼い主である子供たちを悲しませないためだよ」
「はあ?」
「最近の親は、子供がちょっとでも悲しい思いをするのが辛いんだな。ペットが死んだら、こっそり毛皮を剥がして雇った人間にペットを演じてもらうんだよ。子供も喜び、演じた人間はちゃんと相応の給料をもらえる。立派な仕事だろう? 誰も困らないじゃないか」
おれは怒りを爆発させた。
「そんな仕事、あるわけないじゃないですか。そんな無意味な仕事……」
おれの声に驚いた小鳥たちが、一層騒ぐ。小野はにやにや笑ったまま、
「あるよ。ちょうど兎の仕事が来てるんだ。うーちゃんという雄兎だそうだ。隣町のこの番地に、行ってみな」
小野はおれにメモを渡した。地図つきの住所だった。おれは嘘を確かめるつもりで小野から仕事内容のパンフレットを受け取り、その家に行った。そこが真理の家だった。
うーちゃんが本当に死んでいて、毛皮も用意され、真理の母親である女に懇願されたので、おれは戸惑いつつもパンフレットを見ながらうーちゃんの毛皮を着た。吸いつくような、一体となる感触に身震いした。以前うーちゃんの目が覗いていたであろう二つの穴からはおれの目が覗き、真理の鏡で見るとその目は不思議と兎らしい黒目がちの目をしていた。おれは真理が学校から帰ってくるのが恐ろしかった。しかし真理は帰ってきた。病気だったうーちゃんが生きているかどうか走って見に来たのだ。おれを見て、真理は叫んだ。「うーちゃんが元気になった!」と。
真理に抱き上げられ、頬擦りされるのは悪い気がしなかった。しばらく続けてみよう。そう思った。
*
真理はうーちゃんに飽きてきたらしい。長い黒髪を三つ編みでパーマをかけたり、うんざりしながらも宿題をやったり、おもちゃのプリント機でシールを作ったりするほうが有意義であると言わんばかりにおれを無視する。おれにも覚えがある。子供のときに飼っていたカブトムシの世話を怠り、気づけばそれが関節の全てがばらばらの死体になっていたことがあるのだ。一時は本当に大切で、気に入っていた。それが不意に不要なものになるのだ。真理はかなりうーちゃんの世話が嫌になってきたようだ。餌はさすがにくれるが、水の交換を時折忘れてしまう。籠から出して、部屋の中を散歩させてくれることも減った。好きなものを食べられるわけでもなく、月給はかなり酷いものだ。それなのにこの扱いを受けると、不要になったうーちゃんだけでなく、中にいるおれ自身も空しいものであるように思えてくる。
この日々が続くのは、辛い。
*
おれより以前に小鳥屋でアルバイトをしていた徳田に会うことができた。今はやはり小野の紹介でオウムの仕事をしているのだそうで、どこかオウムっぽいひょうきんな顔をしている。おれと同じく、背広を着た普通のサラリーマンになることは難しかったのだろう。徳田は常に遠くを見るような目をし、落ち着かなげに体を動かす癖があるので、悪い印象を与えるタイプの変人という感じがした。
徳田とおれは、小鳥屋のすぐそばの古い喫茶店に入った。二人とも小野から給料をもらいに来たところで出くわしたのだ。この毛皮の仕事は小野の副業なのでは、という気がしないでもない。正式な雇い人を経由して出る給料だと言われたが、怪しいものだ。正規の仕事ではないのは確かだ。それでも毛皮に入っていないときの生活費を払えはするので、辞めることはできない。昔からおれはアルバイトであっても採用になることが滅多にないので、仕方がない。
おれと徳田はそれぞれの仕事の苦労を語り合った。徳田はオウムの真似をするのが辛いのだそうだ。オウムは兎と違って喋るから、さじ加減が難しいのだろう。幼稚園に通う男の子のために色々やるが、男の子は今のところ飽きてはいないようだ。おれは羨ましく思いつつ、自分の話をした。
「おれの飼い主、おれに飽きてきたみたいなんですよね」
「飼い主、何歳?」
「十歳です」
「それじゃあしょうがないね。十歳はすぐ飽きるよ」
「そうなんですかね」
「ペットはさ、変化するから愛しいのであって、不老不死のペットがいても子供は困るわけよ。成長するからかわいいし、病気になるからかわいいし、早めに死ぬからかわいい。だからこの毛皮の仕事なんて、一つ一つは長続きしないと思うよ。親の支払いも、とんでもない額になるだろう。おれたちは早めに切り上げて、はい次、と変えていけるのが理想だと思うよ」
「最初はやりがいを感じてたんですよね。子供が喜んでくれて、起きている間じゅう、『うーちゃん、うーちゃん』ですからね。子供に対する愛着もありますよ。辞めたいという気が起きないのは、いつかまた子供がおれをかわいがってくれる、と思うからです」
徳田は、呆れたように煙草の煙を吐いた。
「毛皮の仕事にのめり込むの、よくないよ。中尾さんみたいになるよ」
「中尾さん?」
「おれの前に小鳥屋で働いてて、初めに毛皮の仕事をやった人だよ。小学生のハムスターをやったんだっけな。『いつか子供がまたおれをかわいがってくれる』が口癖になって、段々段々暗くなって、今は行方不明だよ。あの人もね、仕事決まらなくて悩んでたんだよ」
おれはぞっとした。行方不明になった彼は、今どうしているのだろう。おれによく似ている中尾という男は、おれの末路だと思った。そうならないよう、おれは真理のことを考えるのをやめた。
*
真理が帰ってきた。おれはいつものように毛皮を着て、真理を見ていた。友達との約束がないらしい真理は、おれを五分ほど真顔で見詰めた。遊んでくれるのかと思って心臓が躍った。決意なんて消えたも同然だった。真理は籠の扉を開けておれを抱き上げ、部屋を出て階段を下りた。珍しい。階下で遊ぶようだ。そう思っていると、真理は玄関のたたきにおれを置き、靴を履き始めた。外だ。今まで遊んでいなかったから、罪滅ぼしに思い切り外で遊ばせてくれるつもりなのだ。おれは嬉しかった。真理は何て優しい子だろう。そう思った。
「うーちゃん、お外に出ようね」
真理はおれを抱き上げ、おれに笑いかけた。おれは表情を変えられるなら笑ってみたいところだった。真理の華奢な体に包まれ、おれはうきうきしながら外に出た。
山々は緑の木に覆われ、初夏の風情だった。真理の家の裏手にそびえる低い山は、庭のこちらからも見える。真理はおれを抱き、山に向かった。毛皮の中が蒸しあがりそうな暑さの中、山道の脇のシダ植物に覆われた部分に差しかかった。真理は突然、ひどく冷たい声になった。
「うーちゃん、一人で遊んでてね」
おれは放り出された。驚きながらも振り向き、真理のほうを見た。真理は走って家に向かっていた。少し追いかけたが、玄関のドアが強く叩きつけられる音を聞き、足をとめた。どうやら捨てられたらしい。
呆然としたまま、山に戻った。シダ植物に頬を引っかかれながら登っていると、ちょうどいい斜面があったのでそこに背中をもたれさせて座った。色々考えた気がするが、実際は同じことを繰り返していた。これからどうしよう、ということだ。
おれは斜面を掘り始めた。一心不乱に掘った。一時間ほどかけて、新しい穴ができた。ちゃんと寝室もトイレもある。おれはひんやりとした寝室にたくさんの草を持ち込み、居心地よくした。それから寝室でしばらくまどろんだ。
夢を見た気がして目覚めた。おれはやはり巣穴の中にいた。何をやっているのだろう、と思った。アパートに帰ってから小野に報告し、また新しい子供のペットになればいいじゃないか。それなのに、おれは捨てられた本物の兎よろしく巣穴を掘っている。馬鹿だと思った。
さあ、アパートに戻ろう、と思った。けれど足が動かない。居心地がよかったからだ。このまま兎として生活できたらどんなにいいだろう。仕事の辛さも生活の苦しさもない世界はどんなに過ごしやすいだろう。そういう安易な考えに支配されていた。この巣穴は、おれにしっくり来ていた。しっくり来すぎていた。
*
兎として生きることに決めた。最初は人間らしく朝は両腕を上げて伸びをし、テレビを恋しがっていたものだが、今は完全に兎として四足で駆け回っている。食べ物には困らない。豊富に食べられる草が生えているからだ。一度だけ、毛皮を脱いでアパートに戻った。ノートを一冊とボールペンを一本持ってきた。ほとんどの時間、その存在を忘れるが、ノートを見ると何か思いつくので、巣穴の外に出て毛皮を脱ぎ、書いている。
三ヶ月も経つと、服はぼろぼろになった。そのころには人間の世界に戻る気も、完全に失せていた。兎の暮らしも悪くない。おれはそう思い、戻れないという事実を悲しがったりもしなかった。
*
半年が経った。おれには兎の妻がいた。名前はキャシーという。どこかからやってきた野良兎のキャシーは、おれの名前を聞いて笑った。うーちゃん? おかしな名前。
春、おれたちの間には四頭の子兎がいた。子兎たちは兎の言葉で話す。おれも、人間の言葉を忘れてしまったので、兎の言葉しか話さない。キャシーは物静かな美しい兎で、おれは兎を美しいと思う自分に驚くことも忘れていた。
キャシーは一人でどこかに行くことがある。最初、おれは気にしていなかったが、それがあまりにも頻繁なので不安になり、ある夜につけてみることにした。彼女は丸いかわいい尻尾をおれに向けて走っていたが、山の頂から流れる小川に着くと、ひょいと二本足で立った。何かを警戒しているのだろうかと彼女の視線の先を眺めていたが、気づけばキャシーは自分のファスナーを開いて毛皮を脱いでいた。毛皮? どうして毛皮を脱げるんだ? 兎の自分に慣れきっていたおれは動揺した。更にはキャシーの中から人間の女が出てくるのだから、心臓がとまりそうになった。
キャシーは、二十歳くらいの人間の女だった。黒い髪は長く、白い裸身が美しかった。彼女は小川に身を浸し、体をこすった。体を洗う彼女は、人間と兎、どちらでもないような目つきをしていた。
おれは、人間の世界が遠く離れてしまったことを思った。
《了》