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まなこ閉じれば光  作者: 酒田青
できたて掌編
11/33

人間になれました

「わたし、やっと人間になれました」

 その女は言った。小さくつぶらな目をした、人懐っこそうな若い女であった。

「前世は犬だったんです。老夫婦にとっても可愛がられた白いマルチーズで。いつも耳の毛に赤いリボンをつけてもらってました。老夫婦は子供がいなくて、わたし、随分苦心して喜んでいただいたんですよ。どうやら善行と見なされたようで、人間になれました。わたし、老夫婦に笑ってほしかっただけなのに」

 女は手を少し上げ、曲げた人差し指の関節を口元に持って行って、ころころ笑った。いかにも前世は愛玩犬という感じのする、無邪気な笑みであった。

「いやいや、それが功徳というものですよ。下心なく善行を積む。まさしく功徳です。輪廻転生のあるべき姿です」

 隣の男が女に言った。いかにも親切そうな、目尻の垂れた壮年の男であった。

「わたしなぞはそこに気づくまでに転生を三度繰り返しました。桜海老になって煎餅にされたかと思ったら、カマキリの雄に生まれ変わってがむしゃらに雌に向かっていって食べられ、ついには便所のゴキブリに生まれ変わりましてね、これは桜海老の前に何かやらかしたなと思ったら、偽善を積み重ねて人を欺いていたことを思い出したんですよ。ええ、わたしは一度人間だったんです。解脱を目指す余りにむやみに偽善を行っていたもんで、お天道様に嫌われたんですな。偽善の中身は、周りに善人と思わせといて、悪事を働いていたというやつですな。大人に嘘をついていい子のふりをして、他の子供をいじめていたんです。何でもかんでもきかん気の強い嫌われ者のせいにしていたんです。嫌われ者だから、何をしてもいいと思ってたんです。猫を殺したのはあいつ、万引きしたのはあいつ、窓を叩き割ったのもあいつ。そしたら嫌われ者の男の子は、わたしを殴り殺しましてね。死んでから、さぞかしわたしはいい転生ができるだろうと思ったら、桜海老、カマキリの雄、ゴキブリですよ。殺虫剤をかけられて意識が朦朧としているときに、ああ、あのときのわたしは悪いやつだった、と思い返して、気がつけば人間の男の子に生まれ変わって、今やこんなおじさんになりました。欲を出さずに自然体で善行を積み、ようやくここまで来ましたよ」

 更に隣にいた少年が、ぞっとするような笑みを浮かべてこちらを見た。それからわたしが壮年の男に差し出したウォッカの強い酒気を帯びた紫色のカクテルを奪い、飲み干した。

「何が善行だよ、馬鹿馬鹿しい」

 少年のものとは思えぬ、人生に倦み飽きた疲れきった声だった。

「人間を五回やった。どれも悪くない人生だった。でもいずれは別れがあり、全てとさよならしなきゃいけない。解脱はいつだ。ご浄土で前世の妻に会えるってのはいつなんだ。前世の前でも、その前でも妻だった。ずっと愛していたのに解脱してしまったんだ。おれは置いてきぼりだ。なあ、いつになったら解脱できるんだ!」

 酔った少年が頬を赤くして顔を歪め、壮年の男と若い女に絡んだ。二人は口々に少年を慰める。

「功徳を積むんです。大丈夫ですよ、お天道様が見てくださっています」

 と、女。

「あなたは人間をやるのも五回目でしょう。わたしなぞよりはずっと早いですよ」

 と、男。少年は顔を真っ赤にして泣き始めた。すねた老人のような泣き上戸っぷりで、二人は困り顔だ。普段からこのような自己中心的なふるまいをしているなら、解脱はまだ遠いだろうという考えが表情に表れている。

「あのう、お釈迦様はどう思われます?」

 バーのマスターであるわたしに、女が訊いた。わたしはそっと微笑み、

「何がどうあれ、わたしは全ての魂がこちら側に来られることをお祈りしていますよ」

 と答えた。わたしの心は常に平安で、乱れることはない。衆生を教え導くために、金曜の夜だけ下界に降りてこのバーを営んでいるが、いやはや衆生というのは苦悩が多いものである。狭く暗い店の中、わたしに話を聞いてほしいがために人々はカウンター席に押し寄せる。マルチーズから生まれ変わった女も、ゴキブリから生まれ変わった男も、人間になったばかりで辛いことも多いようである。この少年は妻が解脱したショックのために、五歳のころからこの仏教バーに通い詰めている。

「おい、お前が釈迦か」

 金属音がわたしの耳元で鳴った。微笑みを浮かべながら振り向くと、目の前に黒いピストルがあった。

「売上金全部出せ」

 男は下卑た笑みを浮かべてわたしを見据えていた。度胸があるのはいいことだ。しかしそれは蛮勇というものに過ぎない。一時の快楽のために悪事を働こうとは、大腸菌に五回生まれ変わっても足りないくらいであろう。

 店の客だった三人は、わたしたちを固唾を呑んで見守っている。解脱に到達した師であるわたしを見捨てる者はいない。この三人の前には自動的に解脱の道が開かれるであろう。

「あなたは来世で何になりたいですか?」

 わたしが訊くと、意外にも男はこう答えた。

「何でもいいよ。むしろご浄土なんて真っ平だ。魂なんていらねえ。そんなリサイクル精神なんて、どうでもいいんだよ。お天道様とやらは、おれを何度生まれ変わらせるんだ? もっとずっと刹那的な魂のあり方は、許されないのかよ」

 わたしは口元を柔らかく歪め、

「お天道様は機械仕掛けですから、それは許されないでしょう」

 と答えた。男は目を丸くする。

「お天道様は完全なる機械です。わたしたちを自動的に監視し、善行ポイントを溜めた衆生を解脱と称して引き上げ、自らのメンテナンスをさせる。魂を持つ生き物は悲しいことに進化しました。そして人間に進化し、苦悩を持ちました。人間は生き物にある生命システムを魂と見なしました。そして発達した脳を使って自動的に平安な心になれる機械を作りました。誰でも自然と善行を積みたくなるような、優れた機械です。それがお天道様という機械です。作った人間がいた当時にあった生命システムは全て魂としてリサイクルされることになりました。あなたもそうです。お天道様を壊さないと、あなたの魂を捨てたり壊したりすることはできませんよ」

 男は呆然としていた。わたしはなおも微笑む。

「わたしは生命システムたちの中ではよくできていますからね。一番お天道様に都合のよい者でした。都合よく解脱を勧める言葉を残し、都合よく早く解脱した。わたしはお天道様に愛されていますよ」

 男は震えながら口をぱくぱくさせている。

「残念ながらお天道様を作った人間はなかなか解脱できませんので、何度も虫や畜生に生まれ変わり、今は人間になって強盗をやっているそうですよ。あなたがそうです」

 わたしはピストルを構えた男を指差した。男はぶるぶる震えながら叫んだ。

「畜生! おれはもう無に帰したいんだ! 消せー!」

 引き金が引かれた。乾いた音がして、火薬の匂いが辺りに広がった。弾が飛び出す。わたしは弾を人差し指で押さえ、威力を無化した。軽やかに弾みながら、弾は粗末な床板の上に転がっていく。

 男は顔をくしゃくしゃにして、泣き始めた。輪廻転生も解脱も嫌だと叫びながら。

「大丈夫。善行ポイントを溜めるだけでいいんですよ」

 わたしが微笑むと、男は壮絶な顔で再び引き金を引いた。弾けたのは男の頭であった。死んだ男は、恐らく来世を生きるだろう。それは恐らく大腸菌の生であろう。

「皆さん、もう大丈夫。警察には私が連絡しますから、家にお帰りになってください」

 隅で固まっていた三人の善人たちは、わたしを労るように取り囲んだ。

「輪廻転生の『見える化』が始まってから、彼は本当に不幸でしょうね」

 壮年の男がしみじみとため息をつき、死体を見下ろす。

「転生の記憶が残るようになってから二百年だというのに、数千年前にお天道様を作った彼は、そのときの記憶がないんですものね」

 と、若い女。彼女は私の顔に散った死人の血と脳漿をハンカチで拭ってくれた。

「というか、お天道様を壊したがる奴なんか、お天道様が解脱させるわけがないよな」

 と少年は皮肉に笑う。わたしは微笑み、死体を見た。血だまりの中で、彼は虚ろな目を空に向けていた。彼の魂は何度も生まれ変わる。解脱することもなく。

 お天道様の恩恵を受ける者が少なからずいる限り、それは仕方のないことである。心が平安であることの素晴らしさ。それは生あるものの憧れであり、目標でもあるのだ。


 デタラメな仏教の知識で書きました。SF……? 2015.9.29.酒田青枝

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