第5話
五時間目終了。
つまり、本日最後の授業が終了した。
教室中が騒がしくなる。五時間目が終わったら、ホームルーム無しですぐに帰れる。男子の何人かは、授業終了後五分もしないうちに、早々と鞄を手にしてドアをくぐっていった。
鞄の中に筆記用具と教科書やトートなどを詰め込む。
「美波、また明日ね」
「バイバーイ、美波!」
ふみちゃん、かよちゃんが教室を出る際に、わたしに手を振ってきた。彼女たち二人はテニス部の部員で、毎日のように部活がある。今日も一緒には帰れないようだ。
「うん、またね」
わたしも手を振り返した。二人は智里ちゃんにもさよならを言って、教室を出て行った。
教室にはまだ半分以上の生徒が残っている。
「美波、ちょっといい?」
智里ちゃんが、席を立つわたしのところへやって来た。彼女の手に鞄はない。
「今日って、美波、部活あるの?」
「無いよ。智里ちゃんも無いでしょ。一緒に帰ろうよ」
「うん、そのつもり。でも、じつは今日、部活の集まりがあって、今から行ってこないといけないのよ。すぐに終わるだろうから、教室で待っててくれない?」
「部活って、智里ちゃん、今まで幽霊部員だったんじゃないの?」
何を隠そう、智里ちゃんは記録の上ではバスケ部に所属している。けど「出るのがめんどい」なんて言い出して一学期終盤からずっと無断欠席を続けている。
今頃出ていったら、顧問の先生にどやされるんじゃないか。
「それがそうなんだけど、今回はわたしにもお呼びがかかってて。無視できないよね」
「あ、そうなんだ。いいよ。わたし待ってるから、行っておいでよ」
「ありがと」
あとでね、と言うと、智里ちゃんは小走りに教室を出て行った。
どうしよ。
ヒマになっちゃった。
椅子に座る。教室を見回すと、残っている生徒は十名ほどにまで減っていた。
「あ」
窓際の席に目をやった時、わたしはつい声を漏らした。二見くんが男子二人と話しているのが見えたからだ。鞄が机の上に置かれている。
たしか、彼は弓道部に入っていたはずだ。
今日は部活が無いのかな?
あっちのほうを見ていると、また目が合ってしまいそうだったので、わたしは自分の手元に視線を戻した。
意識しちゃダメ。
そ、そーだ。
明日の授業の予習しよ。
鞄から数学のプリントと筆記用具を取り出し、鞄を机の横にかけた。
「二見は今日どうするんだー?」
前から男子の声がしてきて、ドキッとした。
視線を上げると、黒板の前をドアに向かって歩く二見くんと男子二人の姿があった。
「んー、天気もいいし、海でも見て帰るよ」
「部活はどーするんだよ」
「そんなのお休みに決まってるだろ」
言いながら、二見くんは笑った。
そっか。
今日は部活が無いんじゃなくて、二見くんが休むだけなんだ。
わたしは視線を悟られないよう、顔は机上のプリントに向けたまま、視界の隅で彼らを見ていた。三人は談笑しながら教室を出て行った。
二見くんは、あの二人といつも一緒にいる。わたしにとっての、智里ちゃんや、かよちゃん、ふみちゃんのような存在なのだろう。
教室から彼の姿が見えなくなると、わたしは肩から力を抜いた。なんだかんだで、彼の存在を一度意識してしまうと緊張してしまうのだった。
こんなんで、ホントに花火大会に誘えるのかな?
智里ちゃんは何か考えてるみたいだけど、ホントにわたしのあがり症は治るのかな?
わたしは、ホントに彼とおしゃべりできるようになるのかな?
考え事をしながらでは、予習は遅々として進まなかった。気づけば、教室に残っているのはわたし一人になっていた。
開け放たれた窓から風がときどき吹き込んでくる。そのたびにカーテンが翻っては、教室の床に眩しい光がこぼれ落ちる。
誰もいない教室。
窓の外からはミーンミーンと蝉の鳴き声。
彼の席だけがひときわ眩しい。
それは星の煌めきのよう。
近くにあるように見えて、実は遠い。
いつの間にか、彼の席を眺めていた。
わたしはプリントの上に消しゴムを置いて、プリントが風で飛ばないようにすると、辺りを見回しながら席を立った。
ゆっくりと、彼の席へ近づく。
二見くんが、いつも座ってる場所……。
彼の席の真横に立つ。
こうして一人で教室にいると、どうってことはない。彼の机とわたしのそれとの距離なんて、たかだか数メートルだ。
わたしは彼の机の上に手を置いた。夏の日光をいっぱいに浴びていて熱かった。
ふと、わたしはもう一度教室をぐるりと見回す。
大丈夫。誰もいない。
ちょっとぐらい、いいよね?
わたしは彼の席に座った。
彼がいつも座っている椅子。それに腰掛けるだけの行為で、わたしの胸はうるさいほど脈打った。
彼への恋慕のせいなのか。
それとも、何の断りもなく座る背徳感のせいなのか。
そっと、机の角を指でなぞる。それさえも刺激的な動作に思えた。
こうやって、二見くんはいつも座ってるんだ。
おもしろくもないだろう、授業を受けて。
お昼ごはんを食べて。
午後の授業で眠くなったら寝て。
時々、外を眺めて。
カーテンを開けた。日差しが熱い。
窓の向こうに目をやる。
遠く、青い空に、真っ白の入道雲が高く立ちのぼっていた。
夏の瑞々しい色彩の景色。
彼も、よくこうして授業中は外を見ていた。
あなたは、いつもどこを見ていたの?
やっぱり空とか雲?
それとも駐めてある先生たちの車?
他は--なんだろう、体育館?
体育館の向こうから水音とホイッスルの音が聞こえてきた。水泳部のにぎわいだった。この暑さの中でのプールは、きっと気持ちいいだろう。
また風が吹いた。カーテンがバタバタと揺れる。
風のおかげで、汗ばんだ額がすこし冷まされ--
「森川さん?」
その背後からの一声に、額どころか体中の汗がいっぺんに引いた。背筋がこわばる。
わたしは窓の外を見た姿勢のまま。
振り向けない。
だって、その声は、聞き違えるはずのない、彼の声。
「僕の席に座って、なにしてるの?」
ウソ、二見くん--!?
「あれ、聞こえないのかな。おーい、森川さん」
近づいてくる彼の声。
上手な言い訳なんて思いつかない。
でも、無視して逃げるなんてこともできない。
わたしは意を決して、彼のほうを振り向いた。
「あ、なんだ。やっぱり聞こえてたんじゃん」
二見くんはわたしのすぐ後ろまで来ていた。恐々と顔を見上げたが、彼はべつだん怒ったり気味悪がったりしている様子は無かった。
それでもなんだか居たたまれなくて、わたしはすぐに席を離れようと思った。
「ご、ごめん」
「いいよ、いいよ。座ってて」
腰を浮かそうとするわたしにそう言うと、彼は前の席に腰を下ろした。一瞬迷ったが、わたしは彼の席に座り直した。
二見くんは横向きに椅子に座ったまま、わたしの顔をじっと見た。
「で、なにしてたの?」
「え……えっと」
「あ、わかった。空、見てたんでしょ」
わたしが答えにつまっていると、彼はそんなことを言ってきた。わたしは助かった心地で「うん」と頷いた。
「やっぱり。今日はまさに夏って感じの空だよね」
「う、うん」
わたしへの疑惑が解消されて、ひとまず安心した。
でも、相変わらず緊張は続いている。
「あの、二見くんは、どうして戻ってきたの? もう帰ったんじゃなかったの?」
「うん、帰ろうとしてたよ。でも、途中で智里に掴まってね」
「智里ちゃん、に……?」
あたしがなんとかするから--。
昼休みの、智里ちゃんの言葉が思い出された。
「そ。なんでもあいつ部活の集まりが長引くそうで、森川さんに先に帰ってもらうように伝えてって、伝言たのまれちゃったんだ」
「あ、そうなんだ。ごめんね、伝言なんて」
「森川さんが謝ることじゃないでしょ」
ハハ、と二見くんは笑う。
いつもは遠い笑顔が、今はこんなにも近い。
眩しい、笑顔--。
胸がドキドキしていた。
「森川さんは、これから一人で帰るの?」
「うん」
「そっか」
二見くんは笑顔のまま顔色ひとつ変えず、
「じゃあ、一緒に帰ろうよ」
そんなことを気軽に言った。
その直後、わたしは「え!!」と体を引いた。
「い、一緒にって、わたしと、二見くんが!?」
「もちろん。帰る方向もだいたい同じだし、僕も一人で帰るところだったし。あ、もしかしてイヤだった?」
わたしは両手を勢いよくブンブン振る。
「そ、そんな!! イヤなんかじゃないけど……」
「なら、決まり」
満面の笑みを浮かべる二見くん。
眩しい視界の中、ふわっとカーテンが舞った。




