第3話
一時間目の数学は、何事もなく終わった。
数学の先生は、年配の男の人。授業中に教室中をうろつく人でもないし、生徒が数学以外の勉強をしていたら注意する人でもない。
なので、一時間目はみんな内職に集中していた。おもに今日の補習の予習だ。
ふみちゃんも、智里ちゃんも、授業そっちのけで英語の予習をしていた。英和辞典を隠そうともせず、机の上にドンと置いていたので丸わかりだ。
いくらあの先生だからってあんなに堂々とやるのって……。
わたしには絶対できないよ、あんなの。
二人の大胆さには恐れ入る。
一方、かよちゃんは、板書を終えると、次の先生の説明をちゃんと聞いていた。いつもなら、他の二人と同じように、内職してるのに。自分が関わった問題の解説だけは、最低限、聞いておこうと思ったのかもしれなかった。
彼はなにしてるんだろ?
授業も後半にさしかかった頃。
わたしは視線をスライドさせて、窓際の二見くんの席に焦点を合わせてみた。
太陽からの光を遮るために窓際のカーテンはピッチリ閉じられていた。通風のために開け放たれた窓から入ってくる風のせいで、カーテンが静かに揺れていた。
二見くんはベストのボタンを全て外していた。左手でカッターシャツの首周りを前に引っ張りながら、右手に持った下敷きでシャツの中に空気を送っている。
すっごく暑そう……。
そうだよね。
この暑い中、学校まで走ってきたんだもんね。
彼は窓際の壁にもたれかかりながら、体を黒板のほうへ向けていた。そのおかげで、わたしの席からでも彼の横顔がよく見えた。
パタパタ下敷きを扇ぐ二見くん。けど、暑さに苦しんでいるような表情はしていなかった。
「この暑さには参ったね」
なんて心の声が聞こえてきそうな笑みを、口もとにほんのり浮かべていた。
二見くんっていつも楽しそうでいいな。
明るくて、優しくて。
こうして見てるだけでも、わたしを幸せにしてくれる。
不思議な、魅力の人。
授業開始から五十分。
授業終了のベルが鳴り、先生は号令をかけずに教室を出て行った。
そして、十分の短い休み時間を挟んで、二時間目が始まった。
二時間目は英語。ちょっと口うるさい、中年の女性の先生が担当だ。
この先生、生徒の間では〝蛇女〟と呼ばれていて毛嫌いされている。
わたしはそんなに嫌いじゃないんだけど、みんなはあんまり好きじゃないみたい。教科書片手に教室中を回って、内職している生徒を見つけたら、しつこく注意する人だからだろう。
数学の授業はそっちのけにしていたみんなも、英語の授業となると、さすがに態度を変えた。授業プリントを机に広げ、英和辞典をせっせとめくる。
たぶん、その態度は表面的なものだ。ホントはみんな、心の中で「授業なんて早く終われ!」と思っているはずだ。
わたしだって勉強は嫌い。
でも、わたしは授業が早く終わって欲しいとは絶対に思わない。
二見くん……。
授業の時間だけ、わたしは彼の姿を遠慮無く見ていられる。ほとんど後ろ姿ばっかりだけど、それでも構わない。
わたしには、こうやって眺めていることがやっとなのだから。
--二年前。
二見くんと初めて知り合った、六月のある雨の日。
その日から、わたしは彼のことを気にし始めた。
廊下で姿を見かけるたびに、いつもドキドキした。
話しかけるなんて大胆なことはできなかった。同じクラスでもないわたしには話しかける機会なんてほとんど無かったし、そもそも、一体どうやって声をかければいいのか、さっぱり分からなかった。
だから、中学二年生の間は、ずっと遠くから彼を見ているだけだった。
そして三年生に上がると、クラス替えがあって、わたしは平野智里と同じクラスになった。二見くんはお隣のクラスだった。
四月の始業式が終わると、すぐに五月がやってきた。智里ちゃんと同じクラスになるのは初めてで、あまり話すことはなかった。〝ただのクラスメート〟という、お互いがお互いに大して興味のない関係だったのだ。
そんなわたしと智里ちゃんが仲良くなったのは、五月のある日の昼休みのこと。
二見くんがいきなり教室に入って来て「智里」と智里ちゃんを呼んだ。
〝智里〟って、呼び捨て!?
わたしは驚きながらも、ちょっと離れた席から二人の様子を盗み見た。
「いやー、国語の教科書忘れちゃってさ。悪いんだけど、貸してくれない?」
「教科書借りるぐらいで、いちいちあたしのところに来ないでよ」
「いいだろ、べつに。そんな冷たくするなよー」
「……まったく、しょうがないわね」
不満そうにブツブツ言いながら、智里ちゃんは国語の教科書を彼に渡した。
「サンキュ! お礼に、この教科書に僕のサインを」
「落書きなんてしたら怒るわよ」
「冗談だって。そいじゃ、借りるぜ」
教科書片手に、二見くんは教室を出て行った。最後までわたしと視線が合うことはなかった。
名前で呼ぶなんて、なんで、どうして?
平野さんって、二見くんとどういう関係なの?
ひょっとして、恋人同士!?
二人の関係がどうしても気になって、我慢できず、わたしは智里ちゃんの周りに人がいなくなるのを見計らって、おそるおそる彼女に近寄っていった。
「あの……平野、サン?」
「なに」
「平野さんって、今の男の子と、その、付き合っちゃってたりするの、かな?」
「今の男って、二見純のこと?」
わたしは小さく頷いた。
すると、智里ちゃんは細い眉を寄せた。
「まさか。笑えない冗談言わないでよ、森川さん」
「でも、でも、さっき名前で呼ばれてたのは……」
「あいつとは幼馴染みなの。それで、名前で呼び合ってるのよ。付き合ってるわけじゃないわ。勘違いしないで」
「そ、そうなんだ」
その時、わたしはホッとした顔をしていたのかもしれない。
「あれ、もしかして、森川さん--」
智里ちゃんは感づいたようで、探るような眼でわたしを見た。その瞳が「あいつのこと、好きなの?」と訊いていた。
隠すこともできず、わたしは智里ちゃんに「うん」と小声で返事をした。
「あー、そうなんだ、へぇ」
落ち着かない様子で智里ちゃんは辺りを見回した。
そして、指先で頭をかきながら呟いた。
「森川さん、趣味悪いね」
それが、わたしと智里ちゃんとの距離が縮まった日の出来事だ。
さすが、智里ちゃんは幼馴染みだけあって、二見くんのことをたくさん知っているようだった。
「あいつ、昔はかわいかったけど、今はもうただのドスケベ男子よ」
と、智里ちゃんは口も汚くそう言ったことがある。
二見くんがエッチなことぐらい、わたしだって知っていた。けど、智里ちゃんの言う〝かわいかった頃の二見くん〟を、わたしは知らなかった。
だから、どうしようもなく羨ましかった。
なにも努力しなくても、最初から幼馴染みで、二見くんと名前で呼び合える智里ちゃんが。わたしの知らない二見くんを知っている、智里ちゃんが。
「二見くんって、高校はどこ受けるんだろ」
三年生の冬。そんなわたしの質問にも、智里ちゃんはしっかり答えてくれた。
「あいつが行くから、同じ高校受ける? そんなバカなマネやめなさい。ちゃんと、自分の受けたい高校選びなさいよ」
志望校調査のプリントに彼と同じ高校の名前を書いたら、智里ちゃんは真剣にそんなことを言ってくれた。
でも、わたしは志望校を変えなかった。
「二見くんのいる高校が、わたしの行きたい高校だもん」
わたしがそう言うと、智里ちゃんは困ったような顔をしたが、それ以上なにも言わなかった。
結局、学力の面から見て、智里ちゃんも二見くんと同じ高校を受けることに決まった。「ホントはイヤなんだけどね」と智里ちゃんは言っていたけど。
なんだかんだあって、わたしたち三人は無事に合格。春に入学式を経て、三人とも同じクラスになった。
同じクラスになったのは嬉しかった。
そのおかげで二見くんと話すチャンスはぐっと増えたのも事実だ。
けど、そのチャンスを、わたしは今までことごとく殺してきた。
掃除の時間に一緒に作業をするときがあっても、わたしは上手にしゃべれなくて、これといった会話はできなかった。
彼を前にすると、どうしても緊張してしまって、頭の中がこんがらがってしまうのだ。
そんなわけで、わたしと二見くんとの距離は、一学期が終わった今でも〝単なるお知り合い〟程度にとどまっている。
彼と話したい。そう思ってはいるのだけれど、いざ会話となったら上手におしゃべりできないのは火を見るより明らか。
だから、わたしはこうして遠い場所から彼を眺めることしかできない。
もっと近くへ行きたい。
そう叫ぶ想いを胸に秘めながら。




