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みちしお  作者: 三塚未尋
2/7

第2話

 耳の奥に雨の降る音が響いていた。

 その雨の音が、ピピピと連続する電子音に変わったところで、わたしは自分が横たわっていることに気づいた。頭には柔らかい感触。

 ベッドの上だった。


 ねむい……。


 まだハッキリしない頭に、目覚まし時計の音がキンキンうるさい。

「ん--」

 目は開けず、枕元で電子音を鳴らし続ける時計を手探りで探す。指先が時計らしきモノに触れた。

 時計の曲線に沿って、指をその頂上まで持っていき、でっぱりを見つける。でっぱりを軽く叩いた。

 周りは途端に静かになった。

 雀の鳴き声がかすかに聞こえてくる。ゆっくりまぶたを開けると、見慣れたわたしの部屋が朝陽で照らされていた。

 光が目に飛び込んできたおかげで、だんだんと頭が働いてきた。

 あと少しでも眠れたら、とつい考えてしまう。

 けれど、今日がどういう日かを思い出すと、そんな考えは吹き飛んだ。


 起きないと……。


 寝起きのまどろみにさよならして、わたしは一気に上体を起こした。布団はかぶっていなかった。

 布団はベッドのわきに、しわくちゃになって乱雑に寄せられていた。たぶん、わたしが寝ているうちにけっ飛ばしたのだ。

 目覚まし時計の文字盤を読んでみると、七時十分。


 そろそろ着替えよぉっと。


 アクビを一つして、わたしはベッドから下りた。

 上のパジャマを脱ぐと、何も着けていない上半身が外気に触れて気持ちよかった。寝ている間も暑いから、できるだけ涼しくなるように、ブラは外しているのだ。

 タンスから今日着けていくブラを選ぶ。下が青だから、それに合わせて青のものを手に取った。

 あくびをしながらストラップに腕を通し、後ろ手にホックを閉める。次いで、下のパジャマを脱いだ。

 身に着けているのが下着だけになった。

 脱いだパジャマを布団の上にたたむと、今度は部屋の隅のハンガーにかかっている学生服を着る。

 わたしの通う学校の夏服は、暗い赤色のスカートと、半袖の白いカッターシャツ。そのカッターシャツの首もとに赤いリボン。ソックスは黒色ならどんなものでもオーケーで、わたしは毎日ハイソックス。

 学生服に着替え終えると、髪を念入りにすいた。

 そしてラストは髪留め。

 タンスの横に置かれた大きな姿見の前で、ヘアゴムを使って、肩先までの長さの髪を頭の後ろで一つにまとめる。いわゆるポニーテールというやつだ。

 髪留めが終わったら、姿見の前で身だしなみチェック。

 寝癖なし。

 髪留め問題なし。

 制服のファスナーは全部しまってる。

 靴下はたるんでない。


 カンペキ!


 わたしは机の上の鞄を手に取ると、部屋を出た。

 階段を下りてリビングへ入ると、お母さんがテーブルに朝食を並べていた。今朝はトーストパンだ。

「おはよー、お母さん」

「おはよう、美波」

 朝の挨拶をしながら、優しい笑顔を投げてくれる。お母さんは、最近ちょっとシワが目立つようになった。そのシワのせいか、前よりももっと優しく見える。

「いただきまーす」

 自分の席に座ると、わたしはすぐにトーストパンを食べ始める。テレビから流れてくるニュース番組を横目に見ていると、芸能情報のあと、コマーシャルを挟んで、天気予報のコーナーになった。

 七月二十八日。わたしの住んでいる地域は、一日中晴れ。最高気温は二十八度程度らしい。

 今は朝ということもあって、そんなに暑さは感じられないが、あと一時間もしたら家全体が蒸し風呂状態になるのだろう。

「あーあ、学校もクーラー付けてくれないかなぁ」

 パンをかじりながら、そんな愚痴をこぼしてしまう。

「大変ねぇ、夏休みなのに授業があるなんて」

 言いながら、お母さんは牛乳の入ったコップをわたしの目の前に置いてくれた。わたしは「ありがと」とお礼を短く言った。

「あんまり暑いんだったら、授業なんて休んじゃってもいいのよ? ほら、熱中症とか、怖いじゃない?」

 わたしは笑った。

「娘が学校休むのを勧めちゃダメだよ」

 お母さんは優しいというか、甘いというか、そういう部分がある。冬だって「寒いんだったら休めばいいじゃない」とわたしに言うのだ。

 わたしは、お母さんのそういうところが好きだった。

「でも、休むことなんてできないよ。友達とか、たくさんいるし」

 勉強嫌いなわたしが、全生徒強制参加の補習に出席する理由は、クラスメートと会いたいという思いがあるからだった。

 それから、もう一つ理由があるんだけど、それはお母さんとお父さんには絶対に言えない。わたしの胸の中に隠してある、秘密な理由。

「美波はえらいわねぇ。お母さんなら、冷房のガンガンにきいた部屋で遊んでいたいのに。そういう頑張り屋なところって、誰に似たのかしら」

 お母さんは笑いながら、そんなことを言った。


 ヘンなの。

 わたしはお母さんに似たんだよ。

 だって、お母さん、すっごい頑張り屋さんだもの。

 わたしなんかよりも、ずっと。


 そうこうしているうちに、朝食を終えた。

 洗面所へ行って、歯を磨いて、顔を洗って。

 トイレの中で新聞を読むお父さんに文句を言って。

「行ってきまーす!」

 鞄を手に、わたしは家を出た。

 外は家の中よりも眩しくて、暑かった。

 真っ青な空。

 白色に輝く太陽が、アスファルトの地面に照りつけている。肌が焦げるような日差しの強さだった。


 サンオイル、塗ったほうがいいかなぁ。

 でも学校に行くぐらいだし……。


 学校への道を歩いていく。

 朝のこの時間帯は、いろんな人が道を行き交う。

 ハンカチで額を拭く、スーツを着た会社員の男の人。海かプールへ行くのか、ビーチバッグを提げて走っていくチビッ子たち。体操服姿の中学生の女の子……。

 学校へ近づくにつれて、同じ高校の制服を着た人が多くなってくる。ほとんどが、わたしと同じく、補習に参加する生徒だ。

 友達がいたら話しながら歩けたのだけど、残念ながら、今日は一人も見つからなかった。結局、わたしは一人で学校の校門をくぐり、下駄箱までやってきた。

 ローファーからスリッパに履き替えて、廊下を歩いていく。

 補習が始まるまで、あと十分弱。この時間は、どこの教室も賑やかで、全開になった窓やドアから、廊下に笑い声や話し声が溢れてくる。

 一組、二組、三組と、教室の前を通って、わたしは自分のクラス、一年四組の教室に到着した。出入り口から見慣れた顔ぶれが教室中に見えて、なんだかホッとした。

 高校に入学してから、もう三ヶ月が経っている。最初は知らない人ばかりだったけど、もう全員の名前と顔を覚えた。といっても、それは女子のことだけで、男子のほうはまだ覚えきっていないんだけど。

 教室へ入る時、わたしの視線はすぐにある席へと向かっていた。

 窓際の列の、前から二番目の席。

 鞄はない


 今日も、まだ来てないんだ


 そこに誰もいないことを確認すると、安心したような気持ちにもなったし、残念な気持ちにもなった。

「あ、美波!」

 教室に一歩入ったら、すぐ横から声がかかった。

 ドアの近くの席で、集団でおしゃべりしている女子が三人いた。その集団は、わたしの仲良しグループで、いま声をかけてきた子はそのうちの一人で、もちろん友達だった。

 他の二人も、すぐにわたしに声をかけてくれた。

 わたしはその三人全員に視線を向けた。

「おはよ、みんな。なに話してたの?」

 鞄を持ったまま、三人の輪の中に入る。

「これよ、これ!」

 一番にわたしに話しかけてきた子、かよちゃんがプリントを一枚、わたしに突きだした。

「これって、今日の数学の予習プリントだよね。……何も書いてないけど、いいの?」

「いーわけないって!!」

 かよちゃんは、新品のようにまっさらなプリントを机にバンと置いた。

「この子、今日は数学があるってこと、すっかり忘れてたらしいのよ」

 と、もう一人の女子、平野智里ちゃんが困ったように言った。

「でも、数学の板書って、番号順にしか当たらないでしょ。先生も回ったりしないから、べつにやってなくても--」

「それが、今日の当たり番号、かよなのよ」と智里ちゃん。

「あ……そうだったんだ。それでかよちゃんってば、いま焦ってるんだ」

「そういうこと」

「で、わたしたちは、そんな哀れな子羊を助けてあげてるわけ」

 最後の一人、ふみちゃんがため息を吐きながら言った。

 かよちゃんは鉛筆片手にプリントとにらめっこ中。

「助けてあげてるって、全然助けてないじゃん。かよちゃん、ちっとも進んでないよ」

「や、だからね、一緒に問題を考えてあげてるわけよ」

 言いつつ、右手で鉛筆をくるくる回すふみちゃん。

「考えるもなにも、やったプリントを見せれば--」

 そこまで口にして、わたしは全てを悟った。

「まさか……ふみちゃんも、プリントやってないとか?」

「あったりー! わたしが予習なんてみみっちいこと、やると思ったかァ!」

 笑顔でそんなことを言うふみちゃん。

 わたしは智里ちゃんに視線を向けた。

「あ、言っておくけど、あたしもやってないから。当然でしょ、自分に当たらない問題なんて、やってもしょうがないじゃない」

 平然と言ってのける智里ちゃん。悪びれる様子も無い。

 ハァ、とため息をついてしまった。いつものことながら、この三人は本当に勉強しないんだなぁ。これならまだ、わたしのほうがやってる。

「そこでよ、美波!」

 不意に、スカートをかよちゃんに捕まれた。思わず声をあげてしまった。

「な、な、なに、急に!?」

 めくれかけるスカートに、慌てて手を当てる。けど、かよちゃんは手を離そうとしない。

「そんなに驚かなくても、べつに脱がそーってわけじゃないわ。ただね、美波なら、予習カンペキにやってあるでしょ。それをちょこーと写させて欲しいのよ」

 左手でスカートを掴んだまま、右手で「おねがい」のポーズをとるかよちゃん。

「そ、そんなの、ダメだって。自分でやんないと力つかないよ」

「そんなヘリクツ言ってないで。お願い、この通りだから!」

 言って、かよちゃんは左手をすこし上げた。そのせいで、わたしのスカートがさらにめくれて、太ももがもっと露わになる。わたしは叫びながら鞄ごとスカートを押さえにかかった。

「この通りってどういういことよー!」

「ふっふっふ、スカートの中を見られたくなければ、数学のプリントをよこしなさーい!」

 かよちゃんは黒い笑顔を浮かべていた。

「もう、冗談よしてよ! ふみちゃーん、智里ちゃん、助けてー!」

 あとの二人に助けを求めてみるが、二人は真剣な顔で……

「んー、わたしは〝赤色〟に五百円」

「バカねぇ。美波がそんな大胆な色のショーツ穿くわけないじゃない。あたしは〝青色の水玉〟に五百円」

 トトカルチョしていた。

「裏切り者ー!」

「さぁ、さぁ。一秒に一センチ上げていきますぜ。いくら押さえようとしてもムダムダムダ! テニス部で鍛えた握力、舐めたらあかんぜよ!」

「あー、もー! わかった、わかったから、早く手を離してよぉ!」

 どうしようもなくなって、わたしは白旗を揚げるしかなくなった。

「オッケー」

 パッと、かよちゃんの手がスカートから離れた。

「これで交渉成立ネ」

「脅迫の間違いでしょ!」

 スカートを軽くはたくと、わたしはしぶしぶ鞄から数学のプリントを引き出し、かよちゃんに渡した。

「はい、これでいいんでしょ、これで」

「ありがとー!! げに大切なのは友情だわ!!」

 かよちゃんは受け取ったプリントを自分のプリントの横に置くと、さっそく書き写し始めた。

「なーんだ、もう終わっちゃったの」

 残念そうにふみちゃんが呟いた。

「もう、のんきに見てないで、ああいう時は助けてよ」

「ごめんごめん」

 軽く謝ると、ふみちゃんは小声でわたしに言う。

「でも良かったじゃん。美波の愛しのカレ、まだ来てないみたいだし」

「愛しのって--」

 わたしはチラと教室中を見ると、すぐに足下へ視線を落とした。

「そうだよねぇ。あの人の目の前で、あーんな刺激的なことしたら、きっと大変なことになっちゃうだろうね。あの人、エッチなこととか大好きみたいだし」

 鉛筆を走らせながら、かよちゃんが頷く。もとはと言えば、かよちゃんが全て悪いのに……。

「恥ずかしがって真っ赤になった美波、けっこうかわいかったもんねー。あれは案外そそるわ」

 ふみちゃんの声だった。

 わたしは視線を落としたまま、耳の熱さを感じていた。

「ま、それも、もうちょっと美波のスタイルがよければの話なんだけどさ」

「むっ」

 ふみちゃんの聞き捨てならない発言に、わたしは顔を上げた。気にしていることをズバリ言われて、反射的に彼女の顔を直視する。

 そんなわたしの視線に気づいたのか、ふみちゃんはすぐに笑ってごまかす。

「あー、ごめんごめん」

「笑いながら謝っても、ぜんぜん誠意ないわよ。中途半端に謝るぐらいなら、最初から言わなきゃいいのよ」

 わたしが何か言うよりも先に、咎めるような口調で智里ちゃんがふみちゃんに厳しく言った。それでふみちゃんはバツの悪そうな顔になってしまう。


 智里ちゃん!

 キツく言い過ぎだよ!


 わたしは慌ててふみちゃんに笑顔を向けた。

「ふみちゃん。わたし、ぜんぜん怒ってないから。ちょっとショックだっただけだよ」

「……そ、そう?」

 ホッとしたような笑顔になるふみちゃん。

「ごめんね、美波。ちょっとふざけすぎちゃったわ」

「ううん、べつにいいよ」

 ハァ、とため息が聞こえた。智里ちゃんだった。

「美波は甘いわね」

 智里ちゃんは眉を寄せて、渋い顔をしていた。


 甘い?

 ふみちゃんに笑いかけたことが?

 そうかもしれない。

 イヤな思いをさせられたのにその相手を助けることは、智里ちゃんから見たらそうかもしれない。

 でも、ふみちゃんがイヤな気持ちになるのも、わたしはイヤだったもん。

 だから智里ちゃんに甘いって言われたって、べつにいいんだ。


 それからわたしたち四人はいつもどおりに話した。ふみちゃんと智里ちゃんとの間のギクシャクも、すぐに無くなった。

 わたしたちがおしゃべりしている間に、かよちゃんはプリントの書き写しを終えた。

「ありがとー。おかげで助かったよ。今度、お返しするからね」

「うん」

 かよちゃんからプリントを返してもらった。ちょうどその時、担任の先生が教室に入ってきた。

 席を離れていた生徒はみんな、先生を見た途端に、おしゃべりをやめて急いで席に座る。わたしたちも同じように、解散して自分の席に座った。

 先生が教壇に立つころには、全員が着席していた。

 --ただ一席を除いて。

「おーし、出欠とるぞ。アサギリ」

 ホームルームにはまだ数分早いけど、この先生はせっかちなのか、出欠をとるのがいつもこの時間だ。

 出席番号順に先生に名前を呼ばれた人が「はい」と返事をしていく。最初は男子からだ。

「キリシマ」と先生が教壇で出席簿を見下ろしながら発した。直後「ハイ!」とキリシマくんの元気な声が響いた。

 わたしの席は教室の中央後ろの辺り。

 窓際の二列目の席を見てみた。

 そこは、まだ空席だった。

「スガワラ」と先生。

 教壇の上の壁にかけられている時計を見てみる。ホームルームが始まる正規の時間まで、あと一分弱。彼はいつも、ギリギリに教室に入ってくる。

 わたしはドキドキしながら、その時を待った。

「ノグチ」

 呼ばれて、ノグチくんが低い声で返事をした。

「よし。次、ハマダ」

 わたしの席の隣で、ハマダくんは「ヘイ!!」と大声で返事をした。

 先生は苦笑いした。

「ばーかーやーろー。今のヘイはないだろ、ヘイは」

「す、すいません。噛んじゃったんです」

 ハマダくんは恥ずかしそうに笑っていた。

「お前はアナウンサーにはなれんな。まあ、いい。次は--」

 言いかけて、先生は苦笑いの表情から、ホントににがそうな表情になった。先生はその名前を読み上げることも、それを飛ばして次の人の名前を読むこともしない。

 しばらく沈黙が教室を占めた。

 わたしはずっとドキドキしていた。

「またか」とみんなが顔を見合わすこと十秒ほど。

 廊下からかけ足の音が聞こえてきた。


 来た!


 足音が聞こえ始めて、わたしの胸も、その足音と同じペースでドキドキし始めた。

 堅い廊下を蹴る、誰かの足音。

 聞き慣れた足音。

 わたしが一番会いたい人の足音。


 きっと、あの人だ


 足音がだんだんとこの教室に近づいてくる。

 みんなが、開け放たれた後ろのドアを見る。

 先生も、渋い顔つきでそのドアのほうへ視線を送る。

 わたしは首をわずかに回して、肩越しにドアを見つめていた。

 足音が教室の前まで来た。

 その直後、背後のドアから、一人の男子生徒が教室に走り込んできた。わたしはその姿を見た瞬間に、視線を自分の机の上に戻してしまう。

「いやー、今日も暑い暑い」

 笑い混じりの彼の声が背中に聞こえる。

 わたしは振り向くことができず、彼の声に意識を集中させていた。

「おいおい、すげー汗だぜ、お前」と彼じゃない、別の男子の声がした。

「そりゃ、家から全力疾走してきたんだから、汗だってかくっちゅーの」

 彼は笑いながら返事をしていた。ちょっと息切れしているようだった。

 少し視線を上げると、教壇から彼をじぃっと見ている先生の姿があった。その視線は、見たくもないものを見るような、トゲトゲしいものだった。

 そんな先生の視線を浴びているにもかかわらず、彼は友達たちに一声「よっ」と声をかけていた。

 首を回さずとも、ちょっと視線をずらせば見える場所、わたしの視界の端に、彼が現れる。

 その後ろ姿を、わたしは顔を前に向けたまま、瞳だけを動かして見ていた。彼を見ていることが周りの人に、もっと言えば、彼に気づかれないようにするためだ。

 いつものように、男子の制服--純白の半袖のカッターシャツ、その上に暗い赤色のベスト、そしてスラックスを着ている。見慣れたはずなのに、なんだか今日もその姿が新鮮な気がする。

 机と机の間を抜けて、彼は自分の席に座った。すると、そこで彼は教壇の先生と目を合わせた。

「おはようございます、先生。べつに僕は遅刻じゃありませんよね」

 彼がそう口にした直後、時計の横のスピーカーからベルが鳴り響いた。ホームルームの開始のベルだった。

「ギリギリセーフ」

 天井を指さして、彼は笑った。

 先生は面白くなさそうな表情を浮かべて、名簿に視線を落として、

「二見」

 と、読み上げた。

「はい」

 彼は笑顔のまま、先生をまっすぐに見て返事をした。たった二文字の言葉には、どこか清々しく、楽しそうな響きが感じられた。

「次、ホダカ--」

 不機嫌そうな口調で、先生は出欠の確認を再開する。

 彼のほうを見ると、後ろの席の男子と小声で楽しそうに話していた。


 なに話してるんだろ?


 いつの間にか、わたしは視線どころか顔までを彼の席へ向けていた。

 だから、気づかれたのかもしれない。

 二見くんが、わたしのことを見たのだ。


 え!?


 離れた場所にいるのに、視線が一直線に重なった。

 それだけで、まるで魔法にかかったみたいに、わたしは動けなくなってしまう。どうすればいいのか分からなかった。視線を外す、という簡単なこともできなかった。

 カチンコチンなわたし。

 すると、彼は笑顔のまま一瞬だけブイサインをわたしに見せた。


 なに、なに、なんのブイサインなの!?


 その意図がわからず、けれどもどう反応すればいいのかもわからず。わたしは彼にブイサインを送り返すことしかできなかった。

 わたしのサインを見ると、彼はもっと笑顔を向けてくれた。子供っぽい、キレイな笑顔。それは、二年前の、あの雨の日に見せてくれた笑顔と同じだった。

 彼はその笑顔を見せると、わたしから視線を外し、すぐに後ろの男子と話を再開する。

 それでようやく魔法が解けた。

 わたしは身体の自由がきくようになり、前の席の女の子の背中を見るようにした。

 それなのに……。

 彼と視線を合わせていないのに、ドクンドクン、と。

 しばらくの間、わたしの胸は大きく脈打っていた。


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