第1話
雨の日が、毎日毎日、続いていた。
その日は部活のない曜日だったから、授業が終わると、わたしは下駄箱へまっすぐ向かった。廊下の窓には、雨粒が数えられないほどひっついていた。
濡れた窓の向こう、校舎の外では、細かい雨が降っている。
じめじめした空気が漂う廊下を通って、下駄箱へ。
下駄箱には、数人の生徒たちがいた。
靴を履き替えると、わたしは傘立てをのぞき込んだ。いっぱいいっぱい傘が差し込まれていて、まるで満員電車のようだった。
わたしはその中から自分の傘を探し出そうとした。赤色の持ち手の、かわいい傘。
「これかな……?」
一本、それらしき傘を引っ張り出す。けど、それは雨よけの模様がわたしの傘と違っていた。
違った……。
手に取った傘が他人の物だとわかると、すぐに傘立てに戻す。隙間が無くて、ちょっと差し込みづらかった。
それから赤い持ち手の傘を何度も探してたけど、わたしの傘は見つからなかった。
誰かに間違えて持って行かれたのかも--。
そう考えた途端に、わたしはどうすればいいのか分からなくなってしまった。
昇降口の外を見る。ネズミ色の雲が空を覆っていて、雨が静かに降っている。
雨に濡れながら帰るのは嫌だった。
けど、誰かの傘を勝手に借りることもできなかった。
親しい友達はみんな、文化部だったり屋内を使う運動部だったりで、これから部活だ。わたしも吹奏楽部で、いちおう文化部なんだけど、今日は部活自体がお休み。同じ部活の子に傘を借りようにも、辺りに見知った人は……
「あれ、森川さん?」
後ろから声をかけられて、わたしは振り向いた。同じ部活の女子が四人、靴箱の前にいた。全員、顔も知っていれば、名前も知っている。
「森川さん、ひとり?」と一人が訊いてきた。
「うん」
わたしは控えめに頷いた。
「そっか。わたしらいま帰るとこ。よかったら、一緒に帰らない?」
その誘いに、わたしはすぐに「うん」と返事をしそうになった。けれど、寸前で言わなかった。
四人とは部活が一緒で、知り合いだ。だけど、そこまで特別仲のいい人たちというわけではない。
そんな人たちに「傘に入れて」なんて頼めるわけがない。たとえ表向きは快く返事をしてくれても、心の中では鬱陶しがられているかもしれない。
それに、四人の中にわたしが入って、和を乱すことなんてしたくなかった。
「……ありがと。でも、わたし、友達待ってるの」
「あ、そうなの。それじゃ、また今度ね」
四人は口々にわたしにバイバイと言うと、自分たちの傘を掴んで、雨の降る中へ出ていった。雨音に紛れて、彼女たちの笑い声やしゃべり声がしばらく聞こえていた。
気づくと、下駄箱にいるのはわたし一人になっていた。
「どうしよう……」
困り果てて、わたしは外を見ていることしかできなかった。さっきの四人の姿も声も、もう感じられない。
雨が弱まるまで待とうかな。でも、逆に雨脚が強まったらどうしよう。そうなるくらいなら、今の内に帰った方がいいかもしれない。
わたしはしばらく悩んだ。
いいや、ちょっとぐらい濡れちゃっても。
このまま帰ろう。
結局、そういう結論に至って、わたしは外へ一歩を踏み出した。
その時--
「ちょっと、そこの子」
不意に、男の人の声に呼び止められた。
わたしは驚いて背後を振り返った。
わたしの真後ろ、歩幅にして三歩くらいの距離を空けて、男子生徒が立っていた。
誰だろう……?
知らない人だった。胸元のバッチの色から、同じ学年であることはわかる。体格はやや細めで、身長はわたしと同じくらいだ。
彼はわたしをまっすぐ見ながら言った。
「傘、無いの?」
「……うん」
初対面の人にいきなり話しかけられたことで、わたしはやや緊張していた。人見知りなのだ、わたしは。
そんなわたしとは反対に、目の前の彼はとても親しげな口調だった。
「それでこの雨の中、傘もささずに帰ろうとしてたんだ?」
「そ、そうだけど、それがなに?」
ふぅん、と彼は頷いて、
「ずいぶん思い切ったこと、しようとするね」
笑顔を浮かべた。
わたしは頬が熱くなるのを感じた。
「べつにいいでしょ。わたしが濡れたって、あなたには関係ないことでしょ」
「うん、たしかにそうだ」
彼は頷いたが、笑顔を消そうとはしない。
「友達の傘に入れてもらったら?」
「……その友達は、みんな用事があって」
ウソを言った。「傘に入れて」の一言が言えなかったなんて、知られたくなかったからだ。
「なるほどね」
納得したように頷くと、彼は傘立てから一本、傘を取り出した。彼もこれから帰るところらしい。
「でも、女の子が濡れて帰るってのは、よくないよ」
わたしの隣まで来ると、彼は空を見上げた。
「じゃあ、どうしろって--」
いきなり目の前に傘の持ち手が現れて、わたしは言葉を切ってしまった。青い持ち手。それはもちろん彼の傘だった。
どういうことか理解できなくて、わたしは彼へ視線を向けた。
すると一言。
「貸してあげる」
「……何を?」
そう無意識に聞き返してしまった直後、わたしは恥ずかしさと後悔を感じた。彼が貸すと言ったのは自分の傘だ、ということにワンテンポ遅れて気づいたからだった。
「何をって--」
彼はわたしに傘を差しだしたまま、困ったように眉を寄せた。けど、本当に困っているわけではないらしい。口もとに笑みが浮かんでいた。
「傘だよ。僕の傘、貸してあげるって」
やっぱり、とわたしは心の奥でため息をついた。
聞くまでもない、わかりきった答え。それをイチイチ尋ねるなんて……だから、わたしってバカなんだ。
この男子生徒も、わたしのことを『抜けた女子』と思ったかもしれない。
「でも、あなたは傘、これしか持ってないんじゃないの?」
「あー、そうだね」
困った笑顔のまま、彼は曖昧に頷く。
傘が一つしかないなら、それは持っている人が使うべきだ。それに、誰とも知らない人から物を借りることなんてできない。
「なら、あなたが使ってよ。わたし、べつに濡れてもいいし」
「いいわけないだろ」
彼は途端に不機嫌な口調になった。何か怒らせるようなことを言ったのか。わたしは不安になった。
「好きで雨に濡れるわけじゃないだろ。いいから、使ってよ」
傘の持ち手が、わたしの胸に当たるところまで近づく。断ろうにも上手い言葉が見つからず、わたしは彼の傘を手に取るしかなかった。
「あ、ありがと……」
「どういたしまして」
彼はニコッと笑った。
「夏服って、白いからさ。雨とかに濡れると、女子っていろいろ見えちゃって大変でしょ」
「いろいろ?」
わたしが尋ねると、彼はわたしの胸を指さした。
「下着とかネ」
「あ--――」
すぐに胸元を鞄で隠した。耳があっという間に熱くなった。まるで彼に下着を見られたみたいに、恥ずかしかった。
「あ、あなたねぇ!」
エッチなことを女子のわたしにサラッと言った、目の前の男子生徒は、わたしの声などどこ吹く風、楽しそうに笑顔を浮かべていた。
それは決して邪なものではなく。
まるで、イタズラっ子のような、子供っぽい笑顔だった。
「僕は〝あなた〟じゃないよ」
笑いながら、彼はそんなことを言った。
「え?」
「名前。僕は〝あなた〟じゃなくて〝二見〟だ。二年三組、一五番の二見純」
言いながら、彼は自分を指さしていた。
「キミは?」その人差し指がわたしへ向けられる。
「わたしは--森川、美波」
「森川さん、だね」
よろしく、と彼は最後に付け足した。
今の「よろしく」は「以後よろしく」の「よろしく」と解釈していいのだろう。
「それじゃ、僕、もう行くよ」
彼--二見くんは、そう言うと、外へ出ようとする。わたしはそれを「ちょっと待って」と呼び止めていた。
「ん?」
わたしよりも一歩、屋外に近い立ち位置で彼は振り向いた。これから雨の中を傘も差さずに歩くというのに、嫌そうな顔なんてしていなかった。
呼び止めたわたしは、そんな表情の彼にこんなこと言っていいのかな、と思いながら尋ねる。
「傘、これ、やっぱりあなたのだから……わたし、途中まで入れてくれるだけでいいよ」
「つまり、相合傘でいいってこと?」
アイアイガサという響きを聞くとなんだか恥ずかしくなって、わたしは声を出さず、首を縦に振るだけで返事をした。
彼はハハと笑った。
「そんな気ィ遣わなくていいよ」
彼は笑顔を緩めて、瞳を細めた。
「それに、僕なんかとヘンな噂が立ったら、森川さんに迷惑がかかるよ。好きな人ぐらい、いるでしょ」
〝好きな人〟
そう聞いて、心に浮かんでくる人は、いなかった。
それが少しだけ、寂しかった。
「……いないよ。わたし、好きな人なんて、いない」
「あ--そうなんだ」
彼はちょっと目を大きくした。ひょっとすると驚いたのかもしれなかった。
中学二年生にもなって、恋愛していないなんて、やっぱり異常なのかな。まわりの女の子たちは、みんな、誰かを好きになっている。そんな中で、わたしみたいな女子は少数。
でも、わたしはなにも恋愛をしたくないわけじゃない。
わたしだって、みんなと同じように、〝好き〟と言える人を見つけたいんだから。
「じゃあ、なおさら、僕と相合傘なんてしないほうがいいよ」
いつの間にか、彼はさっきまでの笑顔に戻っていた。
その子供っぽい笑顔に、どうして、と尋ねた。
「だってさ、ヘンな噂が立ったら、森川さんを好きになる人がいなくなっちゃうかもしれないでしょ。そういう状態ってなんて言うかな、キズモノって言うのかなァ……」
しばらく彼は独り言のようにそんなことを呟いていたが、最後まで納得のいく答えは出なかったらしい。「とにかく」と話をまとめにかかる。
「森川さんは傘を一人で使うこと。いいね?」
「でも、それだとあなたに悪いよ」
納得いかないわたしの鼻先で、彼は人差し指を一本立てた。
「じゃあ、森川さんに一つお願いしよっかな。それで貸し借りチャラってことで」
「そ、それはいいけど、お願いって?」
「そうだね----」
彼は瞳を閉じた。
かと思ったら、すぐに瞼を上げた。
「よし、じゃあこうしよう。森川さんは、これから僕のことを〝あなた〟って呼ばないこと。これをお願いしちゃおう」
名案とばかりに、彼はウンと頷いた。
「なぁにそれ、ヘンなお願い」
彼の突拍子もない言葉に、わたしはクスッと笑ってしまった。
「いやいや、僕はマジメだよ。〝あなた〟なんて呼ばれ方、なんだか他人行儀でよそよそしい感じがするからあんまり好きじゃないんだよ。どうせなら、もっとフレンドリーな呼び名がいいなぁ」
おどけたふうに、彼は笑う。
おかしな人--。
「名前で呼んで、とは言えないけど、せめて〝二見〟って呼んで欲しい」
「……うん、わかった。そうするよ」
初めて会った人なのに、こうして話すと昔からの友達みたいに親しい。
「傘は明日、そこらへんにテキトーに置いといてくれればいいから」
「うん」
わたしが頷いたのを確認すると、彼は肩の高さまで手をあげた。
「それじゃ、またね、森川さん」
鞄と傘を同じ手に持ち替えて、わたしも彼に小さく手を振った。
「うん。バイバイ、二見……くん」
笑顔を残して、彼は雨の降る屋外へと歩きだした。わたしはその場から一歩も動かず、遠ざかる背中を見ていた。彼の白い夏服は瞬く間に雨に濡れた。
彼は服が濡れても、急いだ様子も無く、晴れの日と同じようなテンポで歩いていた。
まるで雨を楽しんでいるような背中だった。
二見純--おかしな人。
一度も話したこともなければ、ぜんぜん顔を知らなかった。
なのに、わたしに傘を貸してくれた。
優しい人。
「二見、純くん」
彼の後ろ姿は雨の向こうに消えて、もう見えない。
傘を片手でギュッと握った。
わたしのじゃない、青い持ち手の傘。
今日一日だけの、わたしの傘。
「--なん、だろ」
傘を握ると、不思議、同じくらい胸が締め付けられた。
うれしいのに、苦しかった。
彼の背中が見えなくなっても、わたしは長い間、雨の降っている景色を眺めていた。
あれは二年前の六月のこと。
わたしが初めて、二見純くんと知り合った日のこと。
わたしが初めて、誰かを好きになった日のこと--。




