第五話
「おはよーございます」
誰に話しかけるでもなく、優麗は声をささやくように抑えて口に出す。
時刻は午前6時を回ったところである。
外は夏に向かっているだけあって、すでに明るくなってきており、小鳥がチュンチュンと鳴き声を慣らし歌っている。
彼女が現在いる場所は、明治の部屋である。
優麗の視線の向こうには明治が仰向けでスースーと寝息を立てて眠っている状態だ。
そんな明治の真上にスーッと移動して、寝顔を見る。
「か、可愛すぎますーーー! ああんもう……いいんですね。そうなんですね?」
我を忘れて大きな声で明治の真上で身もだえる。
「では、いただきます」
そっと目を閉じて明治の顔に自分の顔を近づけていく。
明治との唇と、優麗の唇がだんだんと近づいていく。残り、10cm、5cm、3cm、そしてそれがゼロ距離になる瞬間。
明治の目がパチリと開いた。
「何をしている」
ん? と言うような感じで、優麗は自分の目を軽く開き、再び閉じる。
「駄目ですよ。明治さんキスするときは、目を閉じるのがエチケットです」
「朝っぱらから寝込みを襲うようなやつにエチケットなんて問われたくないわ!」
ちゃぶ台返しするような勢いで、かけていた布団をひっくり返し、ベッドから勢いよく飛び跳ねる。
その勢いと一緒に優麗もベッドからひっくり返るようにはじき出されて、頭から床に激突する。
「い、痛い、何故ばれたんですか。この完璧な計画が」
「やかましい! 人の真上であんな大きな声を出されれば誰だって目が覚めるわ! ほんと油断も隙もないなお前は!」
「もう少しだったんですけどねえ、残念です。こうなれば金縛りの術を使って」
チキチキチキとカッターナイフの刃が飛び出る音が聞こえてきた。
「ね、寝ているときも装備しているんですか!」
「昨日から貞操の危機を感じるようになったからね。お前はどうして大人しくできないんだ!」
「そりゃまあ、なんていうんですか未練を解消すると言うのもありますけど。有り余る若さゆえの勢いと言うか、明治さんが好きすぎてというか」
優麗の言葉に思わずうっ! と赤くなってしまう。
女の子から好きといわれて、嬉しくないはずがない。ましてや「見た目」だけであるならば美少女である女の子からである。
相手は幽霊とわかってはいるもののこのように言われてしまっては動揺もする。
「おや? どうしました?」
優麗はなにかしらの突込みが来ると待ち構えていたのだが、相手が予想と違うリアクションをとったので思わず不思議に思う。
「な、なんでもない! いいから早く部屋から出ろ! これから着替えをするんだから!」
「お手伝いいたします! 旦那様!」
「誰が旦那様だ!」
「君が旦那様で、あたしがメイドで?」
「なんか色々危険な発言なうえにマニアックなネタだからなそれ! おまけにわかりづらいわ。早く出て行け!」
「では、朝の食事の準備をしてきますね」
そしていつものごとく部屋の壁を通り抜けて、スーッと消えていく。
朝っぱらから心臓に悪い。まだバクバクと心臓が高鳴っているのが自分でも分かる。相手の唇から吐息すら感じ取れるような気がしたが、相手は幽霊である。そのような事はないのが事実なのであるが、気持ちの問題である。
そしてあのまま唇が触れ合っていたらどうなっていたかを想像してみる。
「……魂が吸い取られるってことはないよな……」
彼女のあの過剰ともいえるアタックは実は自分に取り付いて魂などを吸い取るのが目的なのか? と考えてしまう。
いかんせん相手は幽霊である。どんなことになるか、想像もつかない。だからといってそれを追求してしまえば相手を傷つける可能性だって出てくる。
もしかしたら、本当に純粋な好意からあのような行動に出ているのかもしれないのだ。
「はぁ……僕にはわからん」
そう言って体全体をベッドから起こすと、下半身が朝の男の生理的現象に襲われていることに気付く。
誰もいないのだが思わず顔を赤らめる。
「これは別にあいつに欲情したわけじゃないからな」
誰もいないのに思わずいいわけめいた事を口にして、トイレに向かい用を足すと、再び部屋に戻って制服を手に取り着替えを済まして食卓へと向かう。
いい匂いが漂ってきており、お腹がすいているのを改めて確認すると席に着く。
食卓にはすでに食事が並んでいる。
ほうれん草のおひたしに、サンマの切り身と白いご飯にお味噌汁。それほど凝った料理ではないが、朝の食事としては基本的なものである。
「和風ですけど明治さんは朝はパンのほうがお好みですか?」
明治は朝の食事に特にこだわりはない。あまりにも奇をてらった食事でなければ普通に食べるタイプだ。
「ん? 別に……特にこだわっていないよ」
母親以外の異性と朝の食卓を共にする。
なにやらむずがゆい感じがするが、あまりそれを意識してしまうと、相手に付け入る隙を与えることになると考え、新聞を広げながら箸を口に運ぶ。
「お口に合いますか?」
「うん美味しいよ」
一応は食事を作ってもらているのだ。素直に感想を述べる。
昨日と同じように優麗が嬉しそうな顔をしている。明治は新聞を見ていたせいでその表情には気づかなかった。
食事を済ませ、登校にはまだ少し時間がある。
「どうぞ」
「ん? ありがと」
声につられてみてみると目の前に食後のコーヒーがおいてある。朝の眠気覚ましにはちょうどいい。
案外気がきくなと思いながら、新聞を片手にコーヒーを口に含む。
「こうしていると……新婚夫婦みたいですね」
頬に両手を添え恥じらいを見せながら唐突にそんな一言を言われて、明治は口に含んだコーヒーを一気に吐き出す。
「げほっ、げほっ……おま、がはっ」
器官にコーヒーが入ったのか中々うまく発言できない。
「あら、明治さんったら」
なんでもないような表情でタオルを手に取り、明治の周りを手早く拭いていき、別のタオルで明治の顔も拭こうとする。
「いいから! 自分で拭けるから」
照れたように相手の手首を掴み、それを阻止してタオルを取り上げて自分でふく明治。
「ああん、もう残念」
「うるさい。いきなり変な事を言うな」
ぶつぶつと文句を言って、一通りふき終ると、すでに時刻はいつも家を出る時間である。
席を立ち鞄を持って玄関へと向かうと、そのすぐ後ろでいつの間にか制服姿になっている優麗がぴったりとくっついている。
「……さて、それじゃあ僕は行くからな」
「ええ、好きな人と一緒に登校できるだなんて、もうこれって青春ですよね!」
「玄関のチャイムが鳴っても出なくていいからな。というか出たら大騒ぎになるからむしろ出るなよ」
「さあ、行きましょう。鍵は持ちましたか? 戸締りはちゃんとしなきゃですよ」
会話がかみ合っていない。額に手をやりつつそれでも何とかこらえる明治。
「母さんが忘れ物とか取りに来る可能性とかあるからその時は姿を隠せよ」
「クラスの皆には何て挨拶をしたらいいんでしょうね」
ここが限界である。
「お前は自分が幽霊だってことを忘れているのか! 大騒ぎになるだろうが!」
とたんに悲しそうな表情でうつむく優麗。言い過ぎたかと少し罪悪感にかられるが、こればっかりは譲るわけにはいかない。僕はNOといえる日本人なんだからと自分の心を奮い立たせ冷徹になる。
「あ、あのな……まあ、あれだ。その学校で大人しくしていると言うのであればその……ついてきてもいいぞ」
これが彼の冷徹さの精一杯である。
「はい」
にこりと笑みを見せて嬉しそうな表情だ。
はぁ……と心の中でため息を吐き一緒に家を出る。
いつもの駅でいつものように電車に乗り込み、学校へと向かう。
相変わらずの込み具合である。
となると優麗とも密着することになる……と思ったが優麗は電車の天上付近でぷかぷかと浮いており我関せずと言った様子だ。
少しだけ羨ましく思い見上げると、スカートの中身が見えそうになり慌てて視線をそらす。
足がない分丸見えになるのだ。
二駅目で降りて改札を抜けると、優麗が耳打ちをしてきた。
「明治さん、明治さん」
優麗は今は他の人から姿を隠している。まともに答えてしまえば、独り言を言う危ない奴に見えるので、明治は小声で前方を見て歩きながら答える。
「何だよ」
「あたし痴漢にあいました」
「いきなりあからさまな嘘をついてんじゃねえよ! お前電車内ではぷかぷか浮かんでいただろうが! それ以前にどうやってお前の姿を確認するんだよ!」
思わず大声で突っ込んでしまい、周りの注目を浴びてしまう。うっと口を両手で押さえる。
「いやーこういうのは嘘でもいいから一度体験しておかなければと思いまして、やっぱ一度も痴漢されない女子と言うのはそれはそれで……まあ何というか複雑なものがありましてですね」
「まるで全女性が痴漢されたがっているような言い方はやめろ。それにそういう見栄は別のところ……」
とそこで明治は口をつぐんだ。こいつは幽霊であり、友達と呼べるものを作ることは出来ない。そんな存在に向かって別のところで言えなんていうのは少し残酷すぎると思ったのだ。
「どうしました?」
「なんでもない。急ぐぞ」
ごまかすように足を速めていく。
そこへ彼の小学校時代からの友達である湯浅晴彦がいつものように合流してきた。
「やっ! おはよ」
相変わらず爽やかなやつである。
「どうした? なんか疲れているようだけど?」
「そりゃあな……ほら昨日の幽霊……」
ちょいちょいと指をさす。
優麗は、ん? と言うような表情で自分で自分の事を指で指している。
晴彦は周りをキョロキョロと確認して明治に近づく。
「いるの?」
コクコクと明治はうなずく。
「あたしのことですか?」
といきなり優麗が晴彦にも見えるように姿を現し、晴彦は少し驚く。
「おおう! び、びっくりしたあ。ははは、いやまあこんな朝から幽霊が見れるなんてちょっと意外だね」
あはははは、と笑ってはいるがやはり少し警戒している。なにやら怖いものがあるのだろう。
「いきなり姿を第三者に見せ付けるな! お前には警戒心がないのかよ」
「ええ、この方には昨日姿を見せていますし、いい人そうですから。あ、申し遅れました。あたし彼方優麗と言います。いつもうちの明治が大変お世話になっておりまして」
「いえいえ、こちらこそ昨日はろくに挨拶もできずに申し訳なかったです。俺は湯浅晴彦と言います」
通学路の途中で頭を下げあう二人。すでに多くの生徒が通学している最中である。傍目から見ると、晴彦が一人で頭を下げているのだ。多少目に付くのも仕方ないだろう。
「誰がうちの明治だ! 晴彦もあほな行為はやめんか。注目を浴びている!」
事情よくわからない晴彦は、優麗の姿が他の人にも見えていると思い込んでいる。
通学がてら、明治は一通りの事情を説明すると、晴彦はようやく納得言った様子を見せて何かを楽しむような笑みを見せる。
明治は思わず警戒してしまう。こいつがこのような笑みを見せる時はろくなことが起きない。
基本的に晴彦は自分から率先して何かをたくらみ、人を笑いものにするという行為はしないのだが、このような笑みを見せる時は必ず何か一騒動があるのだ。
勘が鋭いと言うことなのであろう。
「……おい、何が起きるんだよ」
「さあね。ただまあ優麗ちゃんのことだけどそれほど心配する必要はないと思ってね。それにしても明治……あんな可愛い子と一つ屋根の下しただんて。なかなかやるじゃないか」
「そうですよね! なのに明治さんたらあたしに指一本触れようとしてくれないんですよ! 女性として自信をなくしてしまいます」
「おお、何ということだ……こ、これはとても信じられないこんな可愛い子が必死でアピールしていると言うのに袖にするなんて。君はどこか男として欠陥があるんじゃないか?」
とてもわざとらしい驚き方やら喋り方である。
優麗は優麗でもっといってやれと晴彦を応援しており、晴彦は晴彦で他人事として明らかに楽しんでいる。
「お前らいい加減しろ!」
チキチキチキとカッターナイフから刃を出す。
「お、落ち着けよ! 怒りっぽいのはよくないぞ明治君。君は切れる十代か何かかね?」
明治の目がだんだんとすわっていく。
こいつらは……昨日も思ったが何で一瞬で仲のいい友達になっているんだよ……と思いつつ相手に宥められてカッターナイフをしまいこむ。
明治とて幽霊である存在の優麗ならばともかく、さすがに晴彦を相手に刃傷沙汰など起こす気など全くない。
素直にカッターをしまい、学校の門を潜り抜けて教室に入り、自分の席に座る。
優麗は物珍しげにあちこちを見るようにふらふらとしている。なんとなく落ち着かず、つい相手のいる方向へと視線をめぐらせてしまうが、あまりキョロキョロしていると誰かに何かを言われないとも限らない。
そのへんのバランス調整が非常に困難である。
「こうしてみてみると普通の可愛い女子生徒だよね」
晴彦が話しかけてきた。今は晴彦にも見えるようにしているのだろう。晴彦の視線は優麗がいる方向へと向いている。
現在優麗は、教室に飾られている花の花びらをちょんちょんと触ったり、女子グループを覗くように見たりと色々と忙しそうである。
高校生活に憧れていたというのは嘘ではないのであろう。
優麗の目には色々と新鮮にうつっており興味を引いている。
こうして遠くから眺めると晴彦の言うことにも一理ある。少しばかり子供っぽい仕草のような気もしなくもないが確かに可愛いと思う。
「それで付き合う気はないの?」
晴彦が聞いてくる。
「相手は幽霊だぞ? 下手に付き合って取り返しのつかないことになったらどうするんだよ。あの世まで連れて行かれたりとかさ」
「あはは、確かにね。まあ彼女は悪霊とかの類には見えないけどなあ」
「だったらお前が付き合ってやればいいだろ?」
「ぼかぁ生身の人間のほうが好きだ」
明後日の方角を見て我関せずのスタイルは相変わらずである。
「それにだ。彼女が好きなのはお前だろ? 明治さん」
最後の部分を裏声を使って明らかにからかうことを目的として発した言葉である。
ぐっ、と力が抜け頬杖が崩れて、机の上に頭をぶつける。
「気色悪いからやめろ!」
「まあ、頑張ってくれ。俺は遠くから見守っててやるよ」
そういって自分の席へと戻る。
朝のHRの時間だ。
「他人事だと思いやがって……クソっ」




