『白絹の誓い、モナコの海風』
『白絹の誓い、モナコの海風』
春の地中海は、磨き上げられたサファイアのように深い青を湛えていた。
けれど、モナコ港を取り囲む石造りの街並みは、一変して狂騒の渦の中にある。港を埋め尽くす豪華なクルーザー、絶え間なく鳴り響く祝砲と汽笛、世界中から詰めかけた千人を超える新聞記者たちのカメラのフラッシュ。
一九五六年四月十九日。
宮殿の控えの間で、グレース・ケリーは全身を硬い沈黙で包み込み、大きな姿見の前に立ち尽くしていた。
「……息が、詰まりそうだわ」
こぼれ落ちた呟きは、絹とレースが擦れ合う微かな音にかき消された。
MGMの専属衣装デザイナー、ヘレン・ローズが手がけたウェディングドレス。何百ヤードもの最高級シルクタフタ、アンティークのブラッセルレース、そして無数に縫い止められた淡水真珠。
世界中の女性が憧れるその豪奢なドレスは、今のグレースにとっては、まるで脱ぎ捨てることの叶わない「永遠の衣装」のように重かった。
「お背中のくるみボタンを留めますね、グレース。……まあ、手がこんなに冷たいわ」
ヘアメイクを担当する旧知のスタッフが、手袋をはめる前のグレースの指先に触れて小さく息を呑んだ。
「大丈夫よ。ただ……カメラのシャッター音が、まだ耳の奥で鳴り止まないの」
グレースは薄く唇を引き結び、鏡の中の自分を見つめ返した。
完璧な卵型の輪郭、陶器のように滑らかな白い肌、知性と気品を湛えた青い瞳。「クール・ビューティー」とハリウッドが称賛したグレース・ケリーの仮面が、そこにあった。
一週間前、客船コンスティテューション号で大西洋を渡り、この小国へ降り立った瞬間から、彼女の一挙手一投足は世界中に消費されていた。
どこへ行ってもマイクを突きつけられ、笑顔を強要され、愛犬を抱く角度まで指示される。それは彼女がオスカーを獲得した映画の世界よりも、遥かに息苦しく、遥かに残酷な舞台だった。
「グレース。入ってもいいかい?」
重厚なオークの扉がノックされ、低く落ち着いた声が響いた。
モナコ大公、レーニエ三世。
部屋に入ってきた彼は、胸に無数の勲章を佩用した純白の軍服に身を包んでいた。威厳に満ちた君主の佇まい。だが、グレースの強張った横顔を認めた瞬間、その引き締まった目元に深い憂いが差した。
「下がっていてくれ」
レーニエが静かに侍女たちに告げると、彼女たちはカーテシーをして音もなく部屋を出て行った。
二人きりになった広い部屋に、開け放たれた窓から潮風と群衆の遠い歓声が流れ込んでくる。
レーニエはゆっくりと歩み寄り、グレースの前に立った。
「疲れ果てているね。……私の国が君に強いている狂乱を、心からすまないと思っている」
「レーニエ……」
その飾らない声に、グレースの胸の奥で張り詰めていた糸が、かすかに震えた。
「昨日の民事婚も、まるでパレードの見世物のようだったわ。記者たちは私のドレスの裾を踏み、教会の司祭でさえ興奮してカメラを気にしている。私……今日、あのサン・ニコラ大聖堂のバージンロードを、最後まで歩き通せるかしら。途中で倒れてしまいそうだわ」
グレースは手袋を握りしめ、目を伏せた。
彼女が捨ててきたものの大きさが、いまさら押し寄せていた。ヒッチコック監督の次回作、ブロードウェイの喝采、自由気ままにニューヨークの街を歩く時間、そして何より「女優」としての誇り。
レーニエと結婚するということは、カメラの前に立つすべてのキャリアを永遠に葬り去ることを意味していた。公妃となった女が、他人の前で演技をすることなど許されないのだから。
「君は、後悔しているかい?」
レーニエの問いは、静かだったが重かった。
彼はグレースの手をそっと取り、自らの温かい掌で包み込んだ。
「ハリウッドを捨て、海を越えて、こんな小さな籠の鳥になることを。……君はあの巨大な銀幕の女王だった。それに比べれば、モナコの大公妃という役は、あまりに不自由で、あまりに退屈かもしれない」
「役、ではありません」
グレースは顔を上げた。その青い瞳に、強い光が戻っていた。
「もしこれが新しい映画のワンシーンなら、私はとっくに『カット』を叫んで逃げ出しているわ。脚本通りの愛を演じるだけなら、どんなに楽だったでしょう。でも、違う。私は……あなたという人を、愛してしまったのよ」
「グレース……」
「父は私の結婚を家柄の誇示だと喜び、MGMはこの世紀の結婚式を映画の宣伝に仕立て上げた。誰もが『グレース・ケリー』という記号を見ている。……でも、あなただけは、フィラデルフィアの小さな庭で私と語り合った時、ただの一人の怯えた女としての私を見つめてくれたわ」
カンヌ映画祭での出会い、宮殿の庭園でのぎこちない散歩、海を越えて交わし続けた無数の手紙。
華やかなスクリーンの裏側で、常に孤独と戦っていたグレースの魂を救ったのは、同じように小さな国の運命を背負い、孤独の深淵にいたこの男の不器用な誠実さだった。
グレースは一歩踏み出し、ヴェールのレース越しにレーニエを見つめた。
「私は女優をやめます。それは私の半分を殺すことかもしれない。けれど、残りの半分で、私はあなたの妻になりたいの。モナコの民の母になりたい。……この結婚は、私の人生で最初で最後の、筋書きのない選択なのよ」
レーニエの瞳が潤み、彼はそっとグレースの手の甲に唇を落とした。
「誓うよ、グレース。私の命ある限り、君を守る。世界中が君を大公妃と崇めようとも、私の腕の中では、君はただの愛しいグレースでいていい。君が捧げてくれた犠牲以上の愛を、私は一生をかけて君に返していく」
二人の間に流れる空気が、外の喧騒を消し去っていくようだった。
そこにあるのは君主と大女優の契約ではない。海を越えて引き寄せられた、孤独な魂同士の結実だった。
トントン、と遠慮がちなノックの音が響いた。
「大公殿下、大郎女様……お時間でございます。馬車が待機しております」
「行こう、我が花嫁」
レーニエが優しく微笑み、腕を差し出した。
グレースは深く息を吸い込み、背筋を凛と伸ばした。
「ええ。参りましょう」
大聖堂の重い扉が開かれた瞬間、光の洪水とパイプオルガンの荘厳な響きが二人を包み込んだ。
世界中へ生中継されるテレビカメラのレンズが一斉に彼女を捉え、無数のフラッシュが雷鳴のように瞬く。
だが、もはやグレースの足元に迷いはなかった。
長く引いたトレーンが、深紅の絨毯の上を滑らかに流れていく。
隣を歩くレーニエの確かな温もりを感じながら、グレース・ケリーは、前を見据えて気高く微笑んだ。
ハリウッドの栄光に別れを告げ、愛と誇りを胸に抱いて、彼女はいま、自らの意志で選んだ新たな人生の頂へと歩み出していた。




