1 真昼の対決
「このクソネズミ! ブチ殺してやる!」
店主の怒号と同時に、一匹のネズミが通りへ飛び出した。
そのネズミは、頭から足の先までふわふわとした純白の体毛に覆われ、宝石のように澄んだ赤い眼をしていた。
パン屋の店先に広がるモザイク模様の石畳に着地し、周囲を見上げた瞬間、やっぱり裏口から逃げるべきだったと、白いネズミは後悔した。
真昼のフラクタル・シティ──その大通りは通行人でごった返している。今日はすこぶる快晴の日だったと思うが、今の天気がどうなっているかはよくわからなかった。ネズミの目線からは空の様子がまばらにしか見えなかった。
街ゆく人々が視界を埋め尽くし、空を覆い隠している。
ステッキを片手にしたフロックコートの紳士や、シャープなドレスに身を包んだ淑女、明るくて可愛らしい色合いの服を着た子供たち。みんな足元には関心がないようで、無数の足がネズミの目の前や頭上を通り過ぎていった。自分たちの生活レベルを表すかのように、誰もが小綺麗で光沢感のある革靴を履いていて、石畳に着地するたびに、ガツガツと硬質な音を響かせていた。
ネズミは知っていた。高級な革靴はすごく硬い! と。もし踏みつけられたり、蹴っ飛ばされたりでもしたら、ひとたまりもないだろう。
ここで足踏みし続けるわけにもいかないので、車道の方に脱出しようかとも思ったが、そちらも危なそうだった。魔法陣仕掛けの四輪が、道路をビュンビュンと行き交っている。交通量は多く、疾走する四輪を全てかわし切る自信はなかった。言うまでもないことだが、この身体で轢かれたら確実に道路の染みになってしまうだろう。
なぜこんな状況になってしまったのか、ネズミは振り返った。いつものように食料を調達するために、こっそり厨房に忍び込み、パンをいくつかくすね終わった後で、店主に見つかってしまったからだ。
大抵の人間は屋内でネズミを見たら「キャー」とか言って怯むので、見つかっても簡単に逃げられる。
だが、この店は違った。ここの店主の男は目をひん剥き、奇声をあげながら腕を振り回して追いかけてきたのだ。いくらなんでもそんなにブチ切れることあるかよ、変なクスリでもやっているのか、とネズミは困惑しながらも逃げ回り、開いた正面のドアから大通りへ飛び出したのだった。
引き返した方がまだマシかもしれないな、ネズミはそう考えながらパン屋の方へ頭を向けた。
するとそこには波打つ刃のパン切り包丁──この状況では戦闘民族の凶悪な武器にしか見えない──を片手にした店主がこちらへ向かって歩を進めていた。
オイオイ、まさか調理器具で殺るつもりじゃないよな? と思ったが、店主の目を見て考えを改めた。あれは本気だ。あの店主は間違いなく、ネズミ殺しの顔をしている。
「そこを動くなよ! クソネズミ!」
店主が再び怒鳴ると、店先の通行人がみんなピタリと止まり、パン屋の方を向いた。そして、パン切り包丁で武装した店主と白いネズミが対峙しているという状況に気づき、さっと、店先を中心にして輪を空けた。全員が当惑した表情を浮かべている。確かに、はたから見れば意味不明な状況だろう。
ちょうどその時、美化された鳥の巣みたいな帽子をかぶり、袖とスカートがやたら膨らんだ桃色のドレスを着た老婦人が、何にも気づかぬご様子で、ルンルンとご機嫌そうな足取りのまま、店主とネズミの間に割って入るかのように通りかかった。
その老婦人はふと店主に気づき、その血走った眼を一目見ると「ヒエッ──」と小さく悲鳴をあげ、その場で卒倒した。きっと殺人鬼か何かだと思ったのだろう。うん。だいたい合ってますよ、マダム。
《奥さま、奥さま!》
老婦人のすぐ後ろにいた陶磁器製のマネキン人形──召使の思想人形が主人を介抱した。咽頭部に刻印された魔法陣から発せられる独特の機械的な声で《誰か! お医者さまを!》などと言いながら慌てふためいている。
ネズミは意を決し、通行人の中へ飛び込んで、歩道を疾駆した。
「待ちやがれ!」
《奥さま! 奥さまー!》
「げえっ。今のネズミ?」
「ママ! 白いネズミさんいたよ!」
「病気になるから触っちゃだめよ」
リスクを考慮した場合、まず、四輪もしくは店主との衝突は死を意味する。しかし、歩行者に蹴っ飛ばされる分には、怪我をするだけで済むかもしれない。生き残る可能性を少しでも上げようと思えば、この状況で選ぶべきは歩道一択だ。ネズミはそう判断した。
それに、いざとなったら奥の手を使うこともできる。まあ、人目のつくところでは、なるべくやりたくないが。
そんなことを考えながら、ネズミは通行人の足元を縫うようにして走り続け、やっと見つけた建物の隙間から、裏路地へと飛び込んだ。
裏路地といっても、そこは動物専用の通路で、幅はせいぜい二十センチかそこらだった。安全地帯ではあるが、もうちょっと広いところまで行きたかった。もちろん、人目に付かない場所であることは大前提として。
迷路のような構造を進み続け、人間が通れるくらいの広さの裏路地に出た。
店主と対決した大通りからはだいぶ離れているし、ここならうっかり人と出くわすことも無いだろう。ネズミは念のため、辺りを見回してみた。
よしよし、誰もいない。ここなら大丈夫だ。
ネズミは通路の真ん中で、頭を抱え込むかのように体を丸めた。薄暗くジメジメとしたネズミ色の裏路地に、ふわふわとした真っ白い球体が、ちょこんと現れる。
そして、球状のネズミに変化が現れ始めた。
白い球体が、まるでその中心に向かって吸い込まれるかのように縮みだしたのだ。
球体は収縮し続け、ビー玉ほどの大きさになると、表面が金属のような光沢をもつ銀色に変化した。
次の瞬間、銀色の球体はさっきまでとは逆に、外側に向かって破裂するかのように、一気に膨らみ始めた。さらにその物体は膨張を続けながら、ぐにゃりとその形を変化させていった。枝分かれして伸び、表面に凹凸が現れ、各部位が変色する。やがてその物体は、ある形状になったところで安定した。
そこに現れたのは一人の少女だった。
肩にかかる程度の青みがかったアッシュグレーの髪。大きく丸い目に収まる澄んだ紅い瞳。白い肌のまだ幼さの残る整った顔立ち。まったくサイズが合っていない男物のシャツとズボンに、くすんだ色をしたボロボロの外套をはおっており、乱れた髪の毛も相まって、これぞまさに浮浪児という出で立ちの少女だった。履いている靴もその辺で拾ったもので、サイズが合っていないふにゃふにゃのブーツである。
少女は再び辺りを見回し、自分の能力が誰にも見られていないことを確かめると、胸を撫で下ろした。
そして外套のポケットに手を入れ、先の戦利品を取り出した。
それは拳より少し大きい、こんがり小麦色に焼けた丸パンだった。まだほんのり暖かくて、匂い立つその香りが、安堵感と達成感を誘う。
さて、あそこは初めて入った店だ。お手並み拝見である。
少女は丸パンと一口齧り、ゆっくりと味わった
うん、流石。大通りに面した店を構えるだけはあるな、と少女は感心した。生地の外側はカリッと焼けている一方で、内側には水分がちょうどいい塩梅で残っている。なめらかで、もちもちとした触感だ。余計なものが入っていないシンプルな味わいも、触感を楽しむのに一役買っている。
「あの野蛮なオッサンがこれを作ったんだよな……」
ネズミから人へ転位した少女──コトノハは、店主が怒り狂う様を思い出しながら手に持ったパンを眺め、人は見かけによらないものだな、とひしひしと感じながら肩をすくめた。




