2話:宵闇は赤き竜を救う
しばらく道を進むと、夜空に草木が焦げた匂いが立ち込める。
漆黒の男は一度立ち止まり、新たな詩篇を唱える。
《幻術第四階、我が眼よ、知恵の主の梟が如く、まことの世を我が眼に映せ。『梟の眼』》
視界に草木や煙が持つ魔素の光が映し出される。それ以外に何も変化はない。
「どうやら罠では無いようだな。」
再び《盾》を唱えて、警戒しながら進む。
煙の苦い匂いが強くなるのを感じ、さらに歩いていくと、急に視界が空ける。
風が吹くのを感じると、前方から一面に白い欠片が吹き付ける。
灰だ。
そこには一面の白い灰と、炭化した大地とが広がっていた。足元の土をよく見ると、爪でひっかいたような大きな傷跡、魔法でえぐられた跡などがある。恐らく竜と魔法使いとの壮絶な戦闘だろう。
ところどころに燃え切らなかったものが落ちている。防炎の詩篇が織り込んであり、持ち主を守るはずだった魔術師のローブやブーツ、恐らく杖であった炭化物。
その中に月明かりを受けて赤く輝くものがある。拾って灰を払うとそれは、ほのかに熱を帯びた、鮮やかな紅色の鱗だった。
「炎の魔素を持つドラゴン…それもこれほど高密度のものか」
陰鬱な男は少し笑みを浮かべた。
「退屈しのぎに散歩するのも無駄じゃあなかったな」
そのうちに、鉤爪の足跡と重いものを引きずったような痕跡を見つけた。…標的は弱っているのだろうか?鬱蒼とした『昏き森』の、さらに奥の方へ進む
…肌に熱気を感じる。前方を見ると、《梟の眼》に炎の魔素の塊が映し出される。おそらく、先ほどの惨状を作り出した元凶だ。
男が足を動かした瞬間、目の前の魔素の動きは突如大きく膨らむ!刹那―――
豪―――と先ほどまで男の居た場所の頭上を、灼熱の河が通り過ぎた。
パチパチと火花が昇り、燃える木々が照らし出す。姿を隠していた炎の主を。
鮮やかな紅い鱗、岩を易々と引き裂く爪と牙。大空を翔る翼。頭上に頂く二対の角。
そして――――――この世の全てを灼き尽くす炎の息。
御伽噺に語られる伝説の存在――――赤竜――――
退屈していたはずの漆黒の魔術師は、目の前の威厳ある存在に身震いする。圧倒的な存在をこの目にして、恐れを抱いているのか喜んでいるのか、不思議と頬が引きつる。
男は息を整え、両手の指先を広げ、詩篇詠唱の準備をする。
「力比べといこうか、炎の帝王よ」
『グウッ――――GRRRRRRRRRRR――――――――』
赤竜は首をもたげる特有の動作をしながら、息を充填する。
牙の並ぶ口元に爆炎をたぎらせながらその口を開き――――
響くような澄んだ声で漆黒の男に警告した。
『『『すぐに立ち去りなさい、少しでも詩篇を使えば、その身を燃やし尽くします。』』』
《火炎球…え…》
少しの間があった後、男はやや拍子抜けな反応をしながら返す。
「超越者の余裕か?赤竜よ。それともお前ほどの堂々たる強者が、こそこそと卑怯な策を練っているのか?」
見回す。《梟の眼》で確認したが、何もないはずだ。
自身の警告を無視したのか、小さきものに向けて、赤き竜は再び口を開き――――
――――呼応するように男も両手を構え――――
――――再び答えた。
『卑怯な策など要りません。当然、手加減しています。』
人と竜、両者の間に奇妙な沈黙が共有された。
「そうか」
『立ち去りなさい。』
「戦わないのか、僕たちは」
『ええ』
軽いやり取りの後、男は口に手を置きながら考える。
(ここまで会話で交戦意志を否定されると、心理的な仕掛けにくさがあるな…)
男は赤竜に聞いた。
「なぜなんだ」
赤竜は威厳を持って答えた。
『貴方を殺す理由がないからです』
男は赤竜の眼を見る。嘘は感じられない。呆れた。これほど毒気のない上位存在だとは。
「フン、そうか」
こちらもすっかり毒気を抜かれてしまい、手にかけるのもつまらなさを感じて踵を返す。
すると。
『グゥ…グウゥッ…!!!』
普通ではない、禍々しい唸り声と共に背後から、ドシン、と重低音がする。
振り返ると、先ほどまで威厳を保っていた赤竜は膝をつき、首を支える力も無くして大地に屈している。
その竜の腹には、鱗ごと抉られ、中の肉が露わになった凄惨な傷跡があった。
「赤竜、それは」
『立ち…去れ…!』
男は傷口に目をやる。血液や炎魔素が漏れ出ているのがわかる。いかに竜と言えど、深い傷を放置しておけば長くは持たないだろう。
「どうした、その腹の傷は」
『あなたには…関係ありません。立ち去り…なさい、グウゥッ…!!!』
「治そう。それとも死にたいのか」
『…ええ…死ぬのも悪くありません。』
男は竜の眼を見る。嘘をついていない。この赤竜は正気なのだろうか?
問答の間にも傷口からは命が漏れ出ている。
「…仕方がないな」
男はため息をつき、赤竜へと一歩踏み出す。
『去れ!詩篇を使ったら…』
「つまらないな。お前の『眼』ならわかるだろう」
『グゥ………ッ』
赤竜が男に、人間を石にするが如き眼光を向けながら、対して男は竜を刺激しないよう、ゆっくりと近づき、そっと傷口に手を当てる。
《命、変性術第五階、たおやかなる樹木たちよ、汝の命を借り受けん。巡りて竜の傷を癒せ。『大治癒』》
樹木の中の命の魔素が光の粒となり、ドラゴンへの傷へと集まる。周りの木々の葉が落ち、ゆっくりと節くれていくのに対し、傷口は瑞々しい色の肉が膨らみ、塞がっていく。治ったところに鱗がゆっくりと生えそろう。
『ギッ…ガアァ…』
「少し痛む。じっとしているんだ。」
『…なぜ…私の傷を治そうとするのですか…』
男は少し考えたあと、何でもないように言った。
「…僕は、ドラゴンって存在が好きでね」
『ドラゴンが…好き…?』
「人がドラゴンを好きになる理由は、一般的にはその個体が持つ財宝、または魔導具とか霊薬の素材のためなどがありがちだが…僕としては実利的な部分はあまり重要じゃない。」
「御伽噺では必ず出てくる、最強の魔獣。何事にも揺るがず何者にも媚びず、全てを爪とブレスで蹂躙し尽くす。そんな絶対的な存在がだ、誰もいないこんなつまらない森で野垂れ死にでもされたら、僕の中で一つの大切なロマンが崩壊するだろう。それは耐え難い。」
赤竜の息が次第にゆっくりと安定する。そしてやや自嘲気味に牙を開いた。
『…ロマンはよくわかりませんが、私はこの通り弱いです。がっかりしたでしょう?』
男は背を向けたまま答える。
「いや?お前の先ほどの停戦の申し出、実に堂々としていた。そういう類の気高さは、僕は嫌いじゃない。」
『そう…ですか…』
「おっと」
ずん、と赤竜の巨躯が支えを失う。安心したせいか、瞼を閉じて小さく寝息をたてており、眠ってしまったようだ。
「一命は取り留めたか。しかし…このまま放っておくわけにもいかないだろう。家に連れて帰るか。」
男は首の装飾具に声をかける。
《起動、『天空城艦』》
直後、男の頭上に巨大な構造物が降りてくる。
それは、巨大な空中戦艦であった。船体は真鍮で出来ており、上は水晶張りのドームと大小数々の砲塔、細長い塔がいくつかそびえ立っている。側面中央には巨大な外輪がゴウンゴウンと軋む音を立てながら回っており、何より目立つのは、船体下部に一本の短い臼砲が設置されているところだ。
上から乗船用の真鍮色の円盤が降りて来る。
「かなり体格が大きいが…まあ、研究棟なら入るだろう。」




